40マイル
ケイトがまどろむ前にアラームは鳴った。200ポンドの部屋に泊まった所で、無機質なアラームの音は安っぽいB&Bのものと何ら変わりがない。チャールズは起き上がり、サイドテーブルに置かれたYシャツをのろのろと羽織りながら、もう行くよ、そう抑揚のない声でケイトの剥き出しの肩を名残惜しそうに眺めた。
「よろしくいっておいて、アンジェラに」
ケイトはゆっくりと振り返り、チャールズに向かって手を挙げた。シーツの隙間からケイトの少し垂れた乳房が覗いた。ああ、と気のない返事をしながら、チャールズは彼女に背を向けることができずにいた。洒落た窓枠の影がシーツの上で踊っている。こんな日にアンジェラに会いに行く必要が果たしてあるのだろうかとチャールズはしばし考え込んだ。
「どうしたの、アンジェラが待っているわよ」
「先週の日曜に会いに行ったばかりだ。今日は止めておいてもいいのかも知れない」
「お医者様にも呼ばれたんでしょう?行かなければ」
ケイトはブルネットの髪をかきあげた。チャールズはケイトの乳房と、そしてケイトの指に絡められた髪が光の加減で時折金色に見えるさまにみとれたものの、結局そこに留まることはせずに、怠惰な休日を諦めた。
いつもよりいくぶん高いホテルに部屋を取った所で何も変わらなかった。安ホテルで、または彼の家で愛し合う時のように、ケイトとのしばしの別れはアンジェラと会うための前奏曲に過ぎないのだった。
病院へと向かう、高速道路の単調な道のりはチャールズをますます陰鬱な気分にさせた。高速道路の端に牛や羊が放牧されているさまを、かつてアンジェラは「モーターウェイ・ガーデン(高速道路の庭)」と呼んだが、今の彼には開放的な監房としか映らなかった。
監房という言葉は今のアンジェラとチャールズを象徴するような言葉だった。アンジェラはリアル(真実)の監房へ拘束され、彼はあの不幸な事故にもう二年もの間囚われ続けている。
時折若者の乗ったバイクがチャールズの走らす車の脇を駆け抜けていった。風を切って走るのはさぞかし気持ちがいいに違いない、と猛スピードで小さくなっていく若者の背中をただ目で追いながら、彼は気持ちを紛らわせた。
***
「・・・彼女が日常生活を送る分には心配のない程度まで回復したことは何度も申し上げています、ミスター・グレイス。あなたはこの用紙の保証人の欄にサインをするだけでいい。アンジェラはもうあなたに危害を加えるような真似は二度としません。あなたもそれについては知っているはずです」
診察室に通されると、世間話もそこそこに、ジェイムズ医師は今日の目的を切り出した。
チャールズにとってはジェイムズ医師が「アンジェラが二度と彼に襲い掛からない」と何故断言できるのか、甚だ不可解であった。手首にはっきりと残ったスカー(傷痕)には、吸血鬼のように鋭い眼で彼を睨んだアンジェラの残像が今もなお刻まれているのに。
彼は大きく何度も首を振った。
「私にはまだ彼女と暮らす準備などできていませんよ。煙草を吸っても?」
黙って差し出された灰皿を両手で恭しく受け取ると、チャールズは潰れた箱の中から一本の煙草を抜き出し、あぶるように火をつけた。締めきった部屋に紫煙が広がっていく様子を彼は自分とは縁のない世界の事として捕らえた。と同時に、彼の脳裏には今ごろまだベッドに横たえているケイトの健康的な裸体が浮かび上がった。ミスター・グレイス、そう彼の名を不機嫌そうにジェイムズ医師が呼ばなければ、チャールズは笑みさえ浮かべていたかもしれなかった。
「もしアンジェラとやり直す気がないのなら、何故あなたはこうも足繁くここに通うのです?40マイルも離れているのに」
チャールズが一本目の煙草の火を消すや否や、ミスター・ジェイムズはそそくさと灰皿を机の奥に移動させ、カルテで皿を封鎖した。
「40マイルはたかだか1時間です、先生」
「ここが精神病院だという事を加味しても、たかだか40マイルだとお思いですか」
「ええ、はるばる、ではなく、たかだか、で間違いありません、先生」
不毛な会話をしばらく続けた後、とうとうチャールズは立ち上がった。ジェームズ医師は、慌しくカルテにペンを走らせながら、顔を上げることはせず、チャールズ、そう彼を初めてファーストネームで呼んだ。
「アンジェラと別れたいのなら離婚を申し立てる書類にサインをするだけでいい。明確な理由もある。あなたとアンジェラの関係を終わらせるにしてもやり直すにしても、どちらも至極簡単なことですよ」
チャールズはもうジェイムズ医師に対して口答えをする気はなかった。キレイな花ですね、そう花瓶に向かって話しかけた後、できるだけ丁寧に診察室の扉を後ろ手で閉めた。
その後、すっかり顔なじみになった看護婦とすれ違いざまに挨拶を交わしながら、チャールズは螺旋状に果てしなく続く階段をゆっくりと昇った。階段の下にはしっかりと編まれた太いロープが蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
―――ここから飛び降りる患者はいないのですか?
アンジェラが収容されて間もない頃、彼はジェイムズ医師にこの奇妙な螺旋階段について尋ねたことがあった。
―――いるにはいますが、手すりを乗り越えた所で防護ネットにひっかかるだけですからね。踊り場に飛び降りることもできない。よく考えられていますよ、この建物は。この階段では決して死ねないのです。
錆びた鉄の匂いが薬品の匂いと化合する。病院の匂いは、幼い頃に嗅いだ時と何ら変わることはなく、チャールズをたまらなく不安にさせる。ゆっくりと死に至る病に犯されていくような不健全で退廃的な匂い。
階段の手すりは塗装が禿げかかっていて、滑らすように手を添えているとたちまち手の平に染みをつけた。時折すれ違う患者達は一様に青みがかったスモッグのようなものを身にまとい、反対側の手すりをつたって階下へと向かっていく。明るい色のシャツに薄いベージュのチノパンを履いた彼は、少なくともこの場所では異端だった。汚れた手のひらを時折シャツの裾でぬぐいながら、それでも彼は手すりから手を離すことはなかった。
「あら、チャーリー」
アンジェラの病室からはカテドラルの尖塔がよく見えた。チャールズは病室の扉を開ける際、まず尖塔の先を凝視し、心の奥で十字を切ることに決めていた。アンジェラはあらぬ方向に顔を向ける彼の注意をひきつけるためと言わんばかりに、大げさなほど甲高い声で彼の名を呼んだ。
「来てくれて嬉しいわ」
体を半分起こした状態でアンジェラは常に本を読んでいて、チャールズが来るとよれた茶の栞を丁寧に挟む。そして芝居がかった振る舞いでゆっくりと彼を抱きしめ、母親が幼い子供にするようなキスするのだった。
二年もの間の拘束で、いつも日焼けしていたはずのアンジェラの肌はすっかりと白くなった。シーツにどんどんと溶けていくかのようだった。チャールズは言いようのない恐れを感じながらも、それでもアンジェラを美しいと思った。若干白髪が混じり始めた彼女のブロンドの髪は彼の頬を優しく刺激し、頬にそえられた手のひらは絹のようにさらさらと彼に馴染んだ。
「あなたが来るまでの間にもう10冊も本を読んだわ。オースティンは素敵よ。イギリスの田園風景の素晴らしさが丁寧に描かれているわ」
「どのオースティンかい?」
「ジェーンの方よ。あなたも読むとよいわ」
アンジェラはベッドサイドに並べられた本を吟味した後、一冊の本を彼に手渡した。すっかり色褪せた表紙には『高慢と偏見』そう仰々しい字体が刻み込まれていた。彼は一生開くことのないだろうその本を素早く鞄に閉まった。
「調子はどうだい」
幾度も交わした会話を彼はオウムのように繰り返した。
「大分いいわ。ほら。ここからは大聖堂が見えるの」
「ああ、美しいね。まるで塔の先端を目指して太陽が輝いているようにさえ見える」
「この時間を、太陽が大聖堂に注ぐ時間と名づけるわ。まあ、なんてロマンチックなんでしょう」
体を小刻みに揺らしながら、アンジェラはぞっとする程美しく微笑んだ。
「あなたといつかあの塔のてっぺんに昇りましょう。そのために、早くよくならなくては」
「ああ、早くよくならなくては」
窓のへりに置かれた花瓶には、先週チャールズが贈った薔薇の花がまだ飾ってあった。代わりの花を買ってこなかった事を彼はひどく後悔した。
「サウサンプトンの街並みは変わっていなくて?」
「またオックスファムができたよ。もう三軒目だ」
「ミセス・ギルドの具合は?」
「ああ、大分よくなったよ。最近ではコモン(公有林)によく散歩に出ている」
本当?と彼女は大げさに首を振った。
「駄目ね、いつまでもここにいては。私がここに居る間に何もかもが変わってしまっていく。ええ、本当に早くよくならなければ」
早くよくならなければ、というアンジェラの言葉が彼の耳に突き刺さった。一体アンジェラはどこまで理解しているのだろうかと彼は思う。アンジェラはぼんやりと彼の顔を眺める。薄い茶色の瞳には、もう輝きはなかった。
「今でもあの時の事を夢に見るわ」
「いつのことだい?」
「いつの事かしら。三人でブライトンへ行ったでしょう?あなたったら埠頭の先端でカモメの真似をしたわ。その後あなたとブライアンの腕から真っ白な羽が生えて、私を置いて」
――そして遠くへ飛びたってしまったの。私はひとりぼっち。
「ねえ、君。僕を見てごらん、ほら、羽なんか生えていないだろう?」
「ええ、私がむしりとってしまったから。だけど私がよくなったらきっとまたあなたには羽が生えるわ。そしてどこかに行ってしまう。だから私は治りたくないのかしら。困ったことだわ」
そしてアンジェラはもう帰って、とひどく落ち着いた声で彼を傷つけた後、彼に背を向けた。
空を飛ぶ夢の話はもううんざりだった。確かに彼の息子は彼の車にはねられ、空を飛んだ。そして小さな弧を描いた後、ブライトンの長い埠頭の先端に叩きつけられ、そしてもう二度と動くことはなかった。
不幸な事故だった。あの時エンジンをかけたまま、アイスクリームを買いにさえ行かなかったらと、彼はもう二年もの間、自分を責めつづけた。重度のコカイン中毒だった殺人犯は彼の車に乗り、彼の車で彼の息子を撥ねた後、そのまま海にダイブし、海の底で息絶えた。彼が憎むべき相手はもうこの世にいないのだ。自分自身を除いては。
彼は黙ってアンジェラと、萎れたバラの飾られた病室を後にした。
***
「大分よくなられましたね、アンジェラさん」
重い気持ちで再び螺旋階段の手すりに手をかけた彼は、いつも背筋を美しく伸ばしている看護婦の声に足を止めた。
「ええ、おかげさまで」
投げやりな気持ちで、けれどもできるだけ紳士的に微笑みながら、いったいアンジェラのどこがよくなったと思えるのだろうと、彼は人のよい看護師にに憎しみを覚えた。
「アンジェラさんったら最近はよく夢の話をしてくれるんですよ。それがいつもあなたが空を飛ぶ夢」
看護師は銀のトレイの上に幾種類もの鋏や体温計、そんなギラギラ光る器具を乱雑に乗せていた。チャールズはそのひとつひとつを凝視した。冷たく光る刃物で、アンジェラがいつか彼に切りかかったように己を切りつけることができたら、と彼は思った。ただすぐにアンジェラと二人でこの場所に閉じ込められる事を想像し、突発的に踏み出した足をゆっくりと元の位置に納めた。
ステップを踏んだような彼の仕草を看護師は慈愛に満ちた目で見つめた。罰が悪くなった彼はうつむいて、そして丁寧に礼を言い、アンジェラの事を頼んだ。看護師はもちろん、と大きく頷いた後、隔離病棟に向かうのだと肩をすくませ、彼に背を向けた。
――そうそう。
10フィートほどの距離が出来た後、看護師は大きな声で彼を呼び止めた。
「最近はアンジェラさんもあなたと一緒に飛んでいるようですよ。なんて愛情に満ちた夢なのでしょう。羨ましいわ」
***
彼が誰もいない家に戻ったのはまだ16時を廻ったばかりの頃だった。空は暗さを帯びたものの、太陽の残像はまだ色濃く残っていた。彼はシャツを脱ぎ捨てせわしく煙草を3本立て続けに吸い、そして窓を大きく開け放った。
初秋の冷んやりとした空気が彼を覆った。慌てて窓を閉めた。数分のうちに部屋はいつもの落ち着きを取り戻した。薄暗い部屋の中で彼はぎゅっと目を瞑った。
その晩、彼は散々迷った挙句にケイトに電話した。今から会おう、という彼の言葉にケイトは無理よ、と即座に答えた。そしてどうだったの、と猫なで声で話を反らした。
「アンジェラは相変わらずだ。ジェイムズ医師が今日も」
「また引き取れと言ったんでしょ。その話はもう聞き飽きたわ。私が知りたいのはあなたがどうするかという事よ」
「無理だ、心の準備がまだ出来ていない。つらいんだよ、ケイト。今日もアンジェラは僕が飛んだ夢の話をした。まだ傷は癒えていないんだ。こんな状態で引き取る事は絶対に無理だ」
ケイトは彼の言葉を遮ろうとはしなかった。
「離婚してしまおうかとも思っているんだ。用紙はもう手元にあるんだ、何も難しい事はない。その時はケイト、結婚してくれるかい?」
そしてチャールズはどれだけケイトが今の彼の支えになっているかをがむしゃらに説いた。結婚という言葉は思いのほか生々しく、かといって40マイルの距離を往復せずに済ますためには、最早それしか手段がないのではないかと彼はあせった。
ケイトは何も否定せず、ただし肯定もせずに貝のように押し黙っていた。もやもやしたものをすっかり吐き出した後、チャールズも黙り込んだ。何も今言う必要はなかった、とチャールズは激しく後悔した。
「あなたはまだアンジェラが好きなのよ。私にはわかるわ」
先に口を開いたのはケイトだった。冷たい声色だった。それでもいいと彼は願った。彼に必要なものは、ただ休息できる場所であった。
「あなたの体を慰めることはできても、心までは無理よ、チャールズ。本当はあなたもそれをよく分かっているのでしょう?」
けれどもケイトは彼に真実をつきつけた。うなだれながら、しばらく会わない方がいいというケイトの言葉に、彼は仕方なく同意した。
「グッドラック」
遠まわしな別れの言葉の後、通話は途切れた。彼はしばらくの間、規則正しく流れる機械音にうつろな気持ちで聞きいった。
その晩、彼はアンジェラと空を飛ぶ夢を見た。
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