見出し画像

平野啓一郎「日蝕」「マチネの終わりに」/成長するということ

株式会社コルクが主宰する「コルクラボ」で「詩学」という本を皆で勉強するとことになった。その時に主宰者の佐渡島さんが「詩学の理解が深まる」と皆にレコメンドしてくれた本が、この平野啓一郎の、「マチネの終わりに」だった。

平野啓一郎は私のトラウマだ。

彼は1998年に「日蝕」という小説を書いた。それは私が「小説家になる!」と夢を抱いて、上智大学を中退し、早稲田大学第二文学部へと編入した年のことだ。
私はそこで創作文学の授業を受けることが夢への第一歩だと無邪気に信じて、まわりの大反対を押し切り、意気揚々と早大の門を叩いたばかりだった。

ところがその年、京大「法学部」在籍中の平野啓一郎が「日蝕」を書いた。

「日蝕」は15世紀のフランスが舞台。キリスト教の僧が、不思議な体験を通じ、イエス・キリストの再来について思いを馳せる作品だ。巨人、錬金術、ホムンクルスなど、ファンタジーの要素がありながら、当時のキリスト教的世界観の息苦しさが、とても緻密に描かれている。三島由紀夫の再来、という人もいたけど、私にとっては三島由紀夫より面白かった。貪るように夢中になって、一気に読んだ。

そして同時に、圧倒的な力量の差を見せ付けられて、途方に暮れた。何より小説というのは、授業を受けたから書けるもんじゃないということを、私はまざまざと思い知らされた。ああ、面白かったと思って最後のページを閉じた瞬間、かなわないなと思って少し、泣いた。

あれから約20年が経つ。

再び書いてみようか、といつかのような気持ちでコルクラボの門を叩いたのが、今年1月のことだ。

おそるおそる手にとった約20年振りの平野啓一郎は、あの「日蝕」を書いた平野啓一郎か、と疑うほどに読みやすく、取り扱う世界も身近なものだった。

あるクラシックギタリストが、スランプに悩み苦しんでいる時に、運命の女性と出会う。二人は日本とイラク、またはパリという距離を乗り越え愛を育むのだけれど、運命のいたずらと呼ぶには残酷すぎる「ある出来事」によって、ぷつんと、二人の関係は途切れてしまう・・・。

「詩学」の理解を深めるために読み始めたというのに、いつしかそんな目的をすっかり忘れていた。昼ドラみたいなストーリーなのに、平野啓一郎は、やっぱりすごかった。平易な言葉を使ってはいるけれど、恐ろしく洗練されていた。複雑に絡み合った伏線は、ものの見事に回収されていった。

彼の才能に、また打ちのめされた。

だけど、彼から学びたいと思った。
だから、他の平野啓一郎の作品も読みたい、と思った。

約20年という月日分の自分の成長を、実感した。
そのことにやっぱり少し、泣いた。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?