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2019/6/14 ネット上の異なる意見との付き合い方

昨日の夜、とある運動についてツイートをしたところ、その運動の発起人の方に引用RTされた関係で、そのほかにもいくつか引用RTやエアリプをもらった。

そのひとつひとつ、自分も引用RTしようかしばし考えていたのだけれど、結論、しないことにした。そこまでその運動に興味がないし、私の発信したい内容じゃないし、というのは綺麗事で、本音を言うと言葉を尽くしても伝わる気がしなかった。私がいやそうじゃない、と反論したところで、言葉を投げかけた相手は、ますます水をさされた、嫌な気分になるんじゃないかと感じた。相手を不快にさせ、その結果自分も不快になるだろうから、意味がない、そう考えた。

ただ、この考えに至ったのは我ながらショッキングで、というのも、専業ではないとはいえ、文章を書くことを仕事にしているからだ。言葉を尽くすことを投げ出していいんだろうかと自分のスタンスに疑問を持った。それで何だかもやもやしている話を彼にした。彼の意見はこうだ。

そもそも受け手がどう受け止めるかは受け手が考えること。第一その人たちは自分が伝えたい人なのか。

その言葉をヒントにストンと腹落ちをしたことがある。そう、私が言葉を尽くすべきは私が思っていることに対して、なのだ。

たとえば誰かが私の意見に異があったとして、その時に考えるべきは、相手の言葉ではなく、自分の言った言葉についてなのだと思う。そして相手の言葉によって思い直すところがあったら訂正すればいいし、その言葉を持っても、なお自分の言葉が揺らがないのであれば、それはそのままでいい。私の言葉は私のものなのだから。

と、同時に相手の言葉も相手のものだ。だからそれがいかに自分にとって同意しかねる言葉であったとしても、それは尊重すべきものなのだと思う。相手の思いを尊重することは、自分の思いを尊重することとも繋がる、そこは表裏一体なのだと感じた。

昨日の自分が呟いた一連のツイートを見返して、そして今日もらったリプを見返して、思う。やっぱり私は主語が「女」になっている主張が苦手だ。その「女」の中に自分がいない時、その意見に同意していないとまるで「女」じゃないとされているような、何ともいえない嫌な気分になる。更に最近はその「女は」という主語に 触発されて「男だって」や「だから女は」と性を軸に対立していくやりとりが散らばっていく。全く自分はそうは思っていないことを「女は」と誰かがいうばかりに、勝手に共犯者にされ、勝手に糾弾されているような。それが、はっきり言おう。私がフェミニストを名乗る人たちと距離を置きたい理由。

とはいえ、今回のkutooもnobagforme も主語の大きさが賛否両論を呼んだこともあり拡散。その結果一部の企業で服装規定に見直しが入ったり、一部の女性が感じていた生理にまつわる生きづらさ的なものを改善していくキッカケになっているのは感じている。

私がいま一番モヤモヤするのは「女は」に限らず、保育園落ちた日本死ね、だったり、過激な主張であればあるほど拡散し、その結果、その問題が広く人に知らしめられる、今の世の中に対してだ。たぶんこの文章もkutooがnobagformeがと今旬のワードを散りばめて、そしてその運動に取り組んでいる人を挑発するようなツイートと共に投稿すれば、より多くの人に読んでもらえるんだろう。

ただそうしないのは、私のこの世界に対するささやかな抵抗。そしてそれが私のインターネット上の異なる意見との付き合い方なのだと思う。



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