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表現の自由?

 献血のポスターで、胸が異常に大きな女性のキャラクターが使われていることに異論を唱える人が表れて、話題になっている。その後、秋葉原では目抜き通りに設置された、大きなアダルトゲームの看板も話題になり、こちらは千代田区の行政指導により、撤去となった。
 個人的には献血の方はさほど気にならなかったが、ゲームの看板についてはいかがなものかと思った。ゲームの看板には、やはり胸部を異常に強調した10人の女性が描かれており、「もっと孕ませ 炎のおっぱい 超エロアプリ学園!」という文字が踊っていた。

 自分で擬似ピンク映画ポスターを作ったりする身なので、ゲスなエロ文言は結構笑ってしまうほうだが、「孕ませ」には笑えない。(「炎のおっぱい」は笑ったけど)
 ツイッターにこの看板に対する批判を書いたら「秋葉原はそういう場所だから」「エロゲーカルチャーを知らない人がそれをいうのはちょっと…」などのコメント返ってきた。
 うん、わかるよ、そういう考えも。でも、目抜き通りの大きな看板はおかしいと思ってほしい。行政の指導で撤去されたというニュースに、ほっとした人は多いのではないだろうか。

 あの看板に対する自分の感情を振り返って、「表現の自由」とは一体なんであろうかと思ってしまった。
「これは娯楽だし、娯楽に目くじら立てるのはクレーマー」と言う意見には頷く事が多い。献血のポスターに不快感を感じている人には申し訳ないが、私はあのポスターに関しては過剰反応だと思う。でも、秋葉原のゲームの看板は不快だ。このボーダーラインは、個人的感情だ。
 最近は、この個人的感情を声高に言い過ぎる人が多くなっている気がする。一昔前なら、井戸端会議や酒の席での戯言で終わっていた話が、ネットのおかげで気軽に公に対して発信されるようになっている。そいう人達が伝家の宝刀のように持ち出す言葉が「表現の自由」だ。

「表現」というものに対して大した知識もなく、考えたこともない人たちが、SNSで言われている程度のことを聞きかじって、表現の自由を振りかざし、果ては作者当人に物申したりすることは文化を破壊する行為だと思う。

 私自身も最近、会ったことも、私の作品を現実に見たこともない人から時代遅れの価値観で私の人格を否定するようなことを、私のSNSのタイムラインに書かれて、SNS上での作品発表を控えるようになった。
 広く、沢山の人に作品を見てもらえる機会を失うのは残念だと思ったが、価値を感じてくれない相手にわざわざ無料で公開することのほうが痛手と感じてしまったからだ。
 私の作品をインスグラムで見て楽しんでくれていた人にとって、その人のしたことは破壊行為だ。

「素人の言うことなんて気にしなければいい」と言ってくる人もいるが、そんな小さなことから破壊は始まるということを認識してほしい。

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