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金沢の奥庭、卯辰山へ 〜一本松編〜

前回、卯辰山のふもとの神社を少し回り、宝泉寺まで行きました。

そこからスタートです。宝泉寺の前には、子来町(こらいまち)緑地があります。

奥の階段を登ると宝泉寺

反対側から、降りていきます。

宇多須神社の後ろの矢の根川に沿った道に戻ります。

鶯谷窯跡

鶯谷窯は、明治4年に旧藩士によって作られた九谷焼の窯です。
何度か譲られ代替りし、作られる九谷焼は変化していっていましたが、昭和半ばに閉められました。

この道をまっすぐ行った鶯町あたりに、「鶯谷窯」がありました。 
この駐車場のあたりが窯跡だったとあります。

まわりをキョロキョロしてみますが、特に痕跡は見つかりません。階段を登ると、お地蔵さんがありました。
江戸時代には窯はまだないのでヒントはないけど、せっかくなのでアプリ古今金澤でチェックします。

お地蔵さんから降っていくと、前回訪問した慈雲寺につながっています。
細い道だけど、江戸時代からしっかりあった道です。歩いてみると、

すべては読めませんが、「右 一本松往来」と書かれています。
先の谷道がそうなのかも?と思いながらその道を先へ。

松尾神社

鶯町の石碑のところに、松尾神社がありました。

お酒の神様、松尾明神を祀っています。
まずは丁重にお参りします。

松尾大社は、織田信長が安土城に祀ったのがはじまりです。加賀藩祖の前田利家が天正3年(1575年)に越前府中中へ入城するときに、信長から賜りました。

利家とともに七尾城から金沢城へ移動して、お城の中にあったものを、地元酒造家たちの懇願により、元禄時代に卯辰山へ移され今にいたります。 

さらに矢の根川沿いの道を登っていきます。
急な坂です。振り返ると、金沢駅の近くのホテル日航の建物が見えてきました。

もう少し頑張って歩くと、卯辰山工芸工房です。 
江戸時代にあった加賀藩御細工所の精神を受け継ぐものとして、金沢市の市政100周年記念事業として作られました。 

※加賀藩御細工所
 江戸時代初期から明治元年に廃止されるまであった加賀藩の役所の1つ。武具管理修復から始まり、美術工芸の振興を担ってきた。

山の手の方には、卯辰窯があります。

古い窯跡にあまり痕跡の残っていない今、九谷焼の窯があった卯辰山に工房が作られているのは、ルーツを感じられありがたいことです。

隣の小さな道には、両脇に桜があります。

ここを降ると、前回の神社編で出てきた宇多須神社の奥宮へとつながっていきます。

宇多須神社奥宮と一本松

案内板を見ると、歴史は古く、奈良時代初期に「卯辰村字一本松」のこの地に創建されたとあります。
一本松!

先にあった石碑の一本松往来は、ここにつながる道だったのではと腑に落ちました。
道を挟んだ反対側には、4代目の一本松があります。

「文化文政から天保以降(1800年〜)の地図には、一本松が必ずある」とあとで本で読み、見に行ってみると、ありました。

金沢市立玉川図書館蔵
金城下絵図(天明-寛政期)に加筆
金沢市立玉川図書館蔵
金沢城古図(文政期)に加筆
金沢市立玉川図書館蔵
金沢町絵図(明治初期)に加筆

一本松は、一説によると源義経が休憩して袈裟をかけたことから、「袈裟かけの松」とも呼ばれていました。

宇多須神社の後ろから通ってきた道の脇を流れていた矢の根川の由来も、義経がここで武具を洗い流したことからだと言い伝えがあります。

東山の茶屋街から山際へ入ったところに、矢の根川という湧き水を使ったカフェがあります。3月末に行ってみましたが、その時にはしまっていました。

往生際悪く格子から中を覗いてみると、灯籠や山へ登る階段もあり、面白そうです。 
ネット検索すると、工芸品が置いてあり、湧き水を使ったおみくじもあると書かれていました。

江戸時代イメージの強い金沢です。
なんとか江戸前の一向一揆まではなじみがありますが、奈良時代や平安時代につながるものを見ると、金沢人的には新鮮です。

ひがし茶屋街から、宇多須神社の後ろを通って登れるので、時間があれば運動がてら歩くのもおすすめです。

参考
「春日山陶器場の図」
「九谷焼史考〜春日山窯史料研究」

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