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200万円と英語力で得る「死の権利」

「家族はかけがえのない存在。だけれども、私の命や考えもまた尊重されるべきもの。家族に迷惑がかかるという考え方は、尊厳には値しないわ。」

画面に写るブロンド髪の女性は、淡々と死生観を語っていた。

家族と自分を一人の個人として捉え、時には家族ですら、第三者だと言えるほどまでに進歩した価値観。個人の権利と尊厳を尊重するということは、このようなことをいうのだ。

倫理観や死生観は、日本においてかなり重要な価値観と言える。動植物や人を大切にしましょう、なんて価値観から輪廻転生の話までさまざまある。心穏やかに生きるために、人間として正しく生きるためには大切なことで、守られるべき文化であることもたしかだ。

だけれども、ブロンド髪の女性の卓越した価値観を聞いて、そんな日本の価値観が馬鹿らしいなと思うようになった。

私には日本人的な考え方は無理だ。母や身内が心配して駆けつけてくるだけで虫酸が走る。心配するなら始めから人を大切にすれば言い話だろとおもってしまう。

日本的な考え方に存在する論理的な矛盾と、いざ何かトラブルが起こったときにあまり役に立たない非現実的な考え方であることが、どうしても気になって怒りを感じてしまうのだ。

心配という言葉の裏にあるのは、体裁や自己価値観の喪失を危惧する打算的な考えだけ。自殺や安楽死を希望するだけで、「ネットに酔ってるだけ」と言われ、私の積み重ねた考えや意見はその一言で報われることなく消えてしまうときもあった。

「生きていれば必ず報われる」「生きることが大切」なんて言葉を言われたこともあったけど、それは「私たちが無理して生きているのだからお前も同じように生きろ、甘えるな」というのと同じでしょ?

すでにこんな時代錯誤の人間を相手にしている辺り、報われることは無い気がする、と私は思ってしまったのだ。

何かにつけて家族、親不孝、悪い子と責任とレッテルを押し付けたがり、目まぐるしく変わる価値観に否定的で、確立した個人や考えを尊重出来るはずがないじゃないか。

私が欲しいのは自分という人間が尊重される家庭や社会であるはずなのに。今の現状ではその希望は叶わないだろう。

いつどのようなきっかけで「安楽死」というものが世間に知れわたり、一般的に認知されるようになるのだろう。日本の文化と相性の悪い「安楽死」という存在が定着するまでに、どれだけの時間がかかるだろう。

考えたら絶望しかない。

何十年と悲しみと苦しみを持って生きるくらいなら、200万円を払って英語を勉強して渡航して、美しい大地のもと死んでいく方が優雅だ。

ブロンド髪の女性は、安楽死に至る前まで、安心したかのような柔らかな表情で病室から外を見つめていた。
夕焼けと青空のコントラストと、控えめに注ぐ光に飲み込まれてしまいそうなほど儚かった。

世界の美しさを噛み締めながらも、彼女はそれに劣らぬ芯があった。

彼女の心の中には「自分の尊厳を尊重して死ぬ」という、明確な意志があった。誰にも影響されない、誰によるものでもない、「自分」というたった一人人間の生き方として尊敬され尊重されるべき在り方だったと思う。

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