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人を指摘するということの怖さ

私はあるときから人を指摘するのがとても怖くなったように思う。
この人がそのうち気づけば良いや、というスタンスになった。
それまではすごくいろんな事を気づくがままに指摘してきて生きてきてしまった。今考えるとおそろしい生き物だったと思う。
自分が完璧だったら今も指摘し続けているかもしれない。人に指摘していたときも自分は完璧だから指摘するんだ、ということを思ったことはなかったが、あるとき「だったら自分はどうなんだ」と、ふと思った。

人に指摘するということはその件に関しては自分は完璧か、指摘できるような立場にいなければいけないだろうと。
これはまずい、自分だって勉強中じゃないか、ということにやっと気がついた。何を偉そうに今まで言っていたんだろう。本当に反省した。完璧という言葉にはほど遠い人生を送ってきていた。ごめんなさい。

お前は完璧なのか?

それまでは自分は批評家かというくらい音楽に対して評価をしていて、自分の音楽に対しても厳しかったし他人にも同じようにとても厳しかった。
あの頃は常に採点をしているような状態で音楽を聴いていたし、本当に頭でっかちだったと思う。点数を付けたりはしなかったけども常にあら探しをしているような状態だった。

そんな頭でっかち状態からなぜ考え方が変わったかというのは、いろんな理由があると思う。
母の自死、精神的にきつい状態でも明るい歌(オペラアリア)を笑って歌わないといけない苦痛、100人お客さん呼んでも赤字の本番、自分の力量以上の難曲を発表するプレッシャー、そういったことが次々と重なって本番2日後にあばらにヒビがはいって布団から起き上がれなくなった。

そして歌を歌うことを休んでふらふらしている間にジャズピアニストと出会い、その後(大袈裟に言えば)ジャズに目覚めたわけだが、それまで自分の音楽も他人の音楽も採点を続けていたはずが、あるとき人の音楽にも自分の歌にも採点をすることをやめていたことに気づく。
正解は一つではないことに気がついた。そしていろんな考え、可能性があることに気がついた。
前の感覚だったら「もっとこういう風にやったらいいのに」と思っていたところも「何か意図があってやっているのかもしれない」とか「こういう解釈もあるのか」と考えるようになった。

そして音楽のありのままを受け止めるようになって初めて、本当に心から音楽を感じられるようになった。気のせいかもしれないがそんな気がした。それ以前も音楽に感動して泣いたり、鳥肌がたつような経験もたくさんしたが、どこか批評家の自分がすぐ隣で見ているようなそういう気分で音楽を聴いていた。

自分は完璧ではないし、そもそも完璧を目指すとしても音楽における完璧とは何なのか、という問題もあると思う。だから自分で感じて考えて、「歌い続けること」「発表し続けること」「理想の音楽を探し続けること」が大事なのかなと思う。

自分で気づくことに価値がある、でもお金を払ったら気づきを与えてもらえる

もちろん明らかに間違いでしょという場合もあるかもしれない。
でもそれを指摘することは必要なのだろうか。相手がプロであればなおさら。失礼にあたる可能性はないか。私が勉強不足の可能性だってあるからどういう意図か聞いてみるのはいいかもしれないが、プロに対してわざわざ指摘するというのは「余計なお世話」の一言に尽きるのではないか。
だから私も言わない。言いたくない。もし間違えていたとしても自分で気づくことに価値があるとも思う。気づくのに何年かかったとしてもそれも人生。気づかなかったとしてもそれも人生かな、と思う。
Aのことに気づいたとしたら何か変わっていくかもしれないが、Aのことに気がつかなかったとしたらBのことに気がついて、別の未来に進む。何が良いかなんてわからないし、何の選択をしたとしてもそれが「あなたの人生」ということなんだと思う。


バタフライエフェクト

いろんなタイミングで、右を向くか左を向くかくらいの些細なことがきっかけとなって気づきのポイントというのがあって、何千何万と枝葉が分かれていて100人いたら100通りの道、1億人いたら1億通りの道・気づきがあるのではないか。似たようなことがあったとしても心の中の色まで全く同じということはないと思う。バタフライエフェクトという言葉があるようにほんの小さなきっかけの積み重ねで運命が変わっていくと思う。

たとえ話だが、発声が悪いよと思っても簡単に言うことはできない。
それを伝えたところで相手は混乱するだろうし「わかってます」と言われる可能性もある。そして私の良いと思う改善方法を伝えたところでその場ではなおせない。2年くらいかかる場合だって往々にしてある。身体の筋肉が関わってくるのと、身体の使い方・歌い方のクセみたいなものは習慣化しているので治そうと決心した人間でも最低2年はかかる。そして発声が良いことが全てとも思わない。個性になっているなら発声が悪くてもそのまま行ったらいいんじゃないか。
このまま続けると歌えなくなるよ、というほど発声が悪かったら本来なら伝えた方が親切なのかもしれないが、本人が求めていない限り言う必要もないと思う。何かを変えようとがんばっている最中なのかもしれない。そんな中言うのはそれこそ余計なお世話でしかない。

私のところにレッスンを受けに来られた方であれば、自分の思うことを伝えるが、大前提として相手の尊厳を傷つけるようなことを言うのはレッスンではない。伝えるべきか伝える必要がないか、というのは常に見極めないといけないと思う。相手も人間であるということはどんなときも忘れてはいけない。


「音楽が人生」でありたいと思うけども「人生の中に音楽がある」とも思う。これは何の職業でも一緒ですよね。
人生をかけて、っていうのはもちろんなんだけど、あくまで人生の中の一部なんだよ。すべてを含んだ「あなた自身」そのものが大事なんだよ。

と思いました。チャンチャン。


普段は歌を歌ってます、奥平真希といいます。
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