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戯言草稿:良いリズムとはどこにあるか #001

以下、ただの草稿です。

楽器が発音してから、空気を媒体として音が耳に届き、知覚するまでの時間があることと、その音から判断して発音のタイミングで「リズムにのる」ことのメカニズムには不可思議と思う点がある。音を音と認識し終わった時点で、音を受け取ったタイミングを人間はどう捉えているのか。

スティックが楽器に触れる

皮や金属が振動を始める

空気を振動させる

空気の振動が耳や皮膚に伝わる

鼓膜が振動し、皮膚がなんらかの感知をする

波の中の要素が音という単位で収束したのち

それを音として判別解釈し、なんの音であるかという判断が行われる

音が連続し始めると、次の音を予測し始める

準備して次の音を待つ

空気の振動が届いた瞬間に

解釈を待たずに受け取りのスイッチが入る

音の実時間が経過しながら、あぁこの音であると納得する

このとき、準備予期していた音と違う場合には

音が収束してからでなければ、正確に違うという判定がなされないはず

このとき、人間が予想予期準備していた音というものは、実態がないかもしれず、音が収束して解釈が終わったあとに、あたかもそれが予想であったかのように居座っているだけなのかもしれない。

良いグルーヴとは、予想通りであったという錯覚を起こさせる何か、次の音はこうでありたい、とそれぞれが思うところを裏切らない範囲を伴った音の集合体、ではなかろうか。もしくは、脳が良いものとして受け入れられるものがすべて良い音であって、実は周波数特性などは、予想予期の習慣性に対する確率論でしかないのかもしれない。

そしてまた、人間が予想するという行為は、人体で言えば心臓の鼓動、生活で言えば風や雨の音、水の流れ、物が燃える音、生物の活動の音、言葉や会話、現代で言えば時計、車や電車、エンジン、工場、ラジオ、テレビ、シンセサイズされたあらゆる音によって決まってくる「不足した栄養素」もしくは「中毒性のある快楽性」なのではないか。それは肉を食いたい、野菜を、酒を、と活きるための栄養から、嗜好まで広がりを見せるようなものであろう。

時として、音というものの中に込められたメッセージによって、脳の予測行動と受容も書き換えられ、それはひとつの覚醒洗脳や情緒形成によって、脳が快感や癒やしを感じる部分もあるとすれば、それは脳が生命維持に必要とする多様性や選択肢を増やす行為なのかもしれない。

良い音というのはどこにあるのか。

それぞれの生活経験の中で習慣化された定義でしかなく、しかしDNAというような個人の記憶を超えたところに蓄積された歓迎すべき音というものも存在しているのであろう。

おそらくは、ドラマーがこぞって奏法というもののほとんどは、この習慣性に対して作用する音の規則性や、録音定着化されたものへの分析であるが、まったく初めて聞く音楽形態やサウンドに感動する、ということもまた起きうることなので、結局は占い師のように「言ってほしいことを言う」のがうまいということが、おそらくは特に現代の音楽の特徴なのではないかと思われる。それは音楽が、生活の中の商品になって久しいということで、音楽というものがすでに存在していて、それが某方を自分の身に起こしてくれないと、自分の不感や感受性の乏しさの露呈を恐れる人間は、初めから受容する体制に入っているということであろうか。

それはまた、スティックを振り上げた瞬間に、その映像で勝負が決まっている場合もあり、無論、音を聞いてから「違った」という判断もあり。人間の予知予測や強迫観念に対してのアプローチ、それは音が織りなすストーリーではなく、あくまで刺激や癒やしの瞬間脳内書き換えゲームというようなものかもしれない。

私は、あくまで音楽やドラムの中でストーリーを楽しむのがすきではある。

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