見出し画像

愛とは。愛着とは。


ういういしい、初産。
分娩室のライトに照らされ、今、取り上げられたばかりの我が子。「アヘ アヘ アヘ……」と寛平ちゃん寄せのうぶ声。そんな頼りない第一声を放った息子に対して、私の第一声はというと、
「すごい! 本当に(お腹の中に)ヒトが入ってた!」だった。
「ヒト」と言ってみたところ、実際は体重が少なかったせいもあるのだが、目ばかりがキョトキョトして「エイリアンみたいだ」とも思った。何もかもがミニチュアすぎて、びっくりした。
うーん。この子を産んだのか……と、信じられない気持ちと興奮。「あれ? 母性っていつ湧くのだ?」という戸惑い。
出産前のイメージとしては、「私の赤ちゃん……!」と愛が津波のように押し寄せ、思わず感涙でもすると思っていたのに。そうではなかった。
(あくまでも、私の場合ですよ)

そんな自分の気持ちの整理をつける間も無く、始まったのは、何の耐久レースかと神に問い正したくなるかのような、怒涛の「子育てタイム」だ。
「私、出産でこんなに心底疲れきっていて、夜に授乳できるか心配です」と言ったら、看護師さんは私の目を覗き込みながらニッコリ微笑んだ。
「大丈夫。もう、体はお母さんになっているから、嫌でも赤ちゃんの泣き声に反応して、自動的に起きてしまうものなんですよ」と応えた。
しかし深夜、その看護師さんに揺り起こされる私。
赤子がどんなに泣き叫んでも私が起きないので、同じ病室の方々(6人部屋……)が相次いで鳴らしたナースコールで、飛んできたらしい。す、すまん……。
しょっぱなからしくじったが、少し体力を回復してからは、もうどんな目覚ましよりも過敏に子どもの泣き声に反応するので不思議だ。
のちに退院した折には、こんなに毎晩隣で泣いているのに、まったく起きない旦那さんに殺意を通り越して、ただただ呆れるばかりであった。

それにしても、数時間おきの深夜昼夜問わずの授乳。オムツ替え。その他諸々……。
仔鹿や仔牛は誕生後わずか数時間で立って歩くのに、なぜゆえに人間の赤ちゃんはこんなに手が掛かる。鹿や牛のように、立って歩くのには1年以上かかるのだ。


わかってきたこともある。
母性は手を掛けることによって育まれるということ。

産んで数日経って、子どもの検査の数値が悪いので、まだ退院できないという報せを受けた。そのとき、ぶわっと鳥肌が立つぐらい、腹の底から込み上げてくるものがあった。
「私、まだ名前もないあの子のことが、前よりもずっとずっと気になってる。好きになっているみたい……」
不安や愛情が押し寄せてきたのがわかった。


昔、子どもの頃、生き別れの家族が再会するテレビ番組がよくあった。
母の実家で観ていたのだが、祖母は「せっかく育てたのに、産みの親がいいなんて、育てたほうもガッカリするよね」と、身も蓋もないことを言った。でも、やっぱり好奇心、いや、生きるためのケジメとして、本当の親も知りたいよね……というようなことを、ミカンを食べながら思っていた。
果たして育ての親は、育て損なのか。
そうではないと思う。やはり、手を掛けた、掛けられたという記憶により愛情は育まれていくのである。
おそらくであるが、自分がそういう境遇になった場合、生みの親を確認した後は、気持ちもスッキリして育ての親の家に帰っていくであろう、と。
ヒトは手を掛けた時間が長いぶんだけ、牛や鹿よりも我が子に愛着が湧いているのではないか。


きれいに服をたたむ。床を磨く。庭の木を切る。
校庭の草むしりをする。お弁当を作る。
地域の清掃に参加する。お神輿を担ぐ。
ヒト、モノ、家、学校や地域にだって手を掛けることにより、愛情が生まれる。

そういう手間をどんどんと機械化したり、使い捨てにしたり、コンビニ化することで、自由な時間が生まれるメリットはあるけれど、デメリットとしては愛着が減るのだ。
綺麗な家だから大好きなのではない。手間をかけたからこそ愛しいのだ。
庭師にやってもらった庭よりも、自分が手がけた庭のほうが愛着が湧くのだ。
人生を、思い出多く豊かにする方法は、ある種の「面倒臭さ」と引き換えでしか得られないと思うのだ。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️