オバマ被爆者

オバマ大統領が広島を訪問したあの日、平和公園に行った21歳の大学生が想ったこと。

涙がでるくらいの喜びと、手放しに喜べないなにかがあった。オバマ大統領が退場され規制解除になった平和公園で、私は私の知らない平和公園を見た。


オバマ大統領の広島訪問が決まった時に思ったことを私はブログに記した。
'71年目にしてやっと、被爆者らの、そして広島の人間の願いが叶う'と。'現職のアメリカ大統領が被爆地広島に訪れた'というその歴史的事実だけで今でも胸が熱くなる。謝罪すべきか否か ということより、オバマ大統領が核の酷さと平和を考えに広島に来る。そのことがどれだけ大きな一歩なのか噛みしめようと思っていた。



私は自分の生まれ育った広島を、大切な人たちが生きている広島を、愛している。だからこそ「ヒロシマ」をこれからどう継承していくのか、戦争体験をどう「活かし生かす」のかということについて向き合いたいと思っている。それを頭の片隅に置いて、読んで頂きたい。そして、いまから私が綴ることは、わたしが感じた主観的なものであるということも。



オバマ大統領が広島を訪問される前日に関西から帰ってきた。その足で平和公園に向かった。前日がどんな雰囲気なのか、知りたかった。


前日は小学生の姿が多かった。慰霊碑めぐりをしながら原爆の恐ろしさを知る。まるで8月6日の前日、5日を彷彿させるような、平和への願いが満ちいているように感じた。
原爆の子の像の下で小学生が「折り鶴」を唱っていた。聴いたのは何年ぶりだっただろうか。「折り鶴」にはこんな歌詞がある。



この耳をふさいでも 聞こえる声がある
この心閉ざしても  あふれる愛がある
はばたけ折り鶴 私からあなたへ
はばたけ折り鶴 あなたから世界へ




平和公園に行けば、原爆ドームの前に立てば、あの日きのこ雲の下で失われていった命が語りかける声が聞こえるような気がした。だから何度も何度も通った。私にとって平和公園はそんな場所だった。



そして迎えた当日。
平和公園への入場規制や交通規制、県外からの警察、そして一目見ようと集まった押し寄せるほどのひとびと。

あまりの人の多さにわたしはそこにいることを諦め、平和公園を少し離れた場所で友人と中継を見ていた。


資料館を見学し、被爆者の声に耳を傾けて下さったオバマ大統領。被爆者とオバマ大統領が抱擁する姿に涙が止まらなかった。平和公園でこんなことが実現することをあの焼け野原から誰が想像できただろうか。




規制解除になった平和公園には、オバマ大統領の献花を撮ろうと人が押しかけた。

献花がどこにあるのか分からないくらいに。
「押さないでください!!!」とシャッターの音、「これ何にみんな集まっとるんね?」。

オバマ大統領が献花をしたこと、広島に訪れたこと、平和を願ったこと、それらはすべて素晴らしすぎる。きっとみんな同じ気持ちだったはずだ。嬉しすぎたことも分かっている。広島のひとはあったかい。あのとき平和公園にいた人たちを否定するわけじゃない。わたしは広島が、そこに生きている人たちが大好きだ。
でもこの時の平和公園で、わたしは押し寄せる人々から祈りを、平和への願いを感じられなかった。想いが馳せられていなかったように思う。献花のその後ろにあるものが無いもののようだった。と同時に、私から亡き声に向かうヤジルシも遮られていた。聞こえなかった。そして、'あの日'を想像できなかった。



献花を目の前に「71年目にしてやっと。やっとスタートライン。今日を見て、もし語ることができるなら何を伝えて下さりますか?」と慰霊碑に向き合うことができなさそうだったので改めて夜に来ることにした。

21時半をまわるころ、友人と3人で平和公園に戻ってきた。高校時代共に平和活動をしていた大切な仲間と。
人は減ったものの、まだ慰霊碑の前には沢山のひとがいた。わたしたちはそれを眺めながら、泣いていた。


やっと71年目に、アメリカの現職の大統領が広島を訪問した。長い長い、道のりだった。わたしはそのほんっっの1部しか知らないけれど。被爆者らの想いも、本当にはわかることができない戦争を体験していないただの大学生だけど。ヒロシマの夢の一つが叶った平和公園で、手放しに喜べない自分がいた。そんな自分が嫌だった。
やっとスタートラインに立ったのに、ゴールしたみたいだった。'もうヒロシマはこれでいいんだよ'と一区切り打たれたみたいに。これからもヒロシマは語り継がれていく。語り継いでゆく。わかっている。だけどどうしても腑に落ちない何かがあった。



でもせっかく来たんだからと、献花を撮る人々の最後尾に並んだ。シャッターが切られる音の中でボロボロと泣いていた。カメラを向ける前に手を合わせるひとは私の見た限りはいなかった。
「私は献花を撮りに来たわけじゃない。亡き彼らの声に耳を傾けるために、未来の平和を願うためにここに来た」と思ってしまった。

写真を撮っていたひとびとには祈りがなかったとわたしが言うのはあまりに主観的で決めつけすぎている。平和やヒロシマへの想いを持っている人を私は幸せなくらい知っているから。でも、あの時慰霊碑の前に立った時にでてきた言葉は「ごめんなさい」だった。





オバマ大統領の演説は、あらゆる立場の人に配慮したものだったと思う。広島から「核なき世界」を改めて目指す趣旨を述べて下さったことはヒロシマの一歩になったはずだ。
でも、ヒロシマは核の傘の下にいるしアメリカは空爆をやめたりはしない。そして核兵器禁止条約には日本もアメリカも参加していない。日本は日本のしてきたことに出来るだけ触れない。ヒロシマや核廃絶と'今'が乖離しすぎている。どれだけ核廃絶や原爆の惨さを伝えようとしても、矛盾している部分がある。広島がヒロシマになった出来事は美しくなんてないのに、オバマ大統領の演説は美しかった。


「微力だけど無力じゃない」

私が高校2年生のときに代表をさせて頂いた活動で大事にしていたことば。私は第4期の代表だった。そして、オバマ大統領に献花を手渡したのは昨年度第8期の代表だった。広島女学院高等学校の制服が目に入ったとき、この言葉を思い出した。広島のひとたちの願いは、わたしたちがしてきたことは、意味があったんだと。微力だけど決して無力じゃない。
こうやって少しずつ実を結んでゆく。





オバマ大統領が広島を訪問されたことで、ヒロシマはこれからの新しい在り方をより一層模索しなければならない。核の傘の下にいる日本の被爆地ヒロシマとしての在り方を。
被爆者の生の声が聞けなくなる未来はすぐそこに来ている。次の80年という節目は何に向かっていくのだろうか。そのとき世界は、ヒロシマはどうなっているだろうか。
そんな未来でわたしは「オバマ大統領が来られたあの日」をどう伝えるだろうか。
どうかこれからも平和公園が広島のひとたちや訪れるひとびとの平和への願いと笑顔が溢れていますように。そのために、わたしはヒロシマや平和というテーマに向き合ってゆく。

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