『ストロマテイス』第2巻 第3章(アレクサンドリアのクレメンス)

第3章 本性から生じるものではないものとしての信仰

さてバシレイデスの追随者たちは信仰を本性的なものとみなし、またそれを選択することとして言及する。つまり証明なしに知的な理解によって諸々の考えを見出すこととしている。一方でウァレンティノスの追随者たちは信仰を我々単純な者たちのものとみなして、次のように把握しようとする。すなわち(本性によって救われている)自分たち自身のうちに、より優って卓越した胚[を持っている]という優位性を通して、知識が湧き出る、とする。精神的存在が動物から[離れている]のと同様に、[その知識は]信仰から遠く離れたものであると言っているのである。さらに、バシレイデスの追随者たちはこうも言う。つまり、信仰は、選択と同様、それぞれの隔たりに応じた固有のものであり、また現世を超越した選出の結果として現世の信仰が全ての本性に伴い、そして信仰の無償の賜物はそれぞれの希望に合致したものであると[言う]。それならば信仰は、それが本性的な有利性であるとすれば、もはや自由な選択の直接的な結果ではないのである。


信じなかった者は、[自分の不信仰の]創発者でないので、見合う代償で補うことにもならない。そして信じた者は[自分の信仰の]原因でない。そしてもし正しく考察するならば、信仰と不信仰の特異性と相違の全体は賞賛の下にも非難の[下にも]あることはない。[信仰や不信仰]には全能者から発出する、先行的で本性的な必然性が付随しているからである。そしてもし我々は無生物のように本性的な諸力の操り人形の糸によって引っ張られているならば、したいと思うことも、したくないと思うことも、その両者に先立つものである欲求も、余分なものにすぎない。そして私に関して[言えば]、動物を以下のようなものとして考えることは全くできない。つまり、[動物は]その諸々の切望を持つが、[その切望は]必然性の支配の下で外的な諸原因によって動かされているものである、というような[考え]である。諸々の罪の赦しは[悔い改め]を通してくるが、そこにはもはや、かつて不信仰者だった者の悔い改めの余地などないではないか。それで洗礼は合理的でなく、至福なる証印も、御子も、御父も[合理的でない]。そこでは、私が思うに、神は本性的な諸力の人への分与となっており、救済の基礎としての自由意志による信仰が無いのである。


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