[通読メモ]列王記下8章-21章

レカブの子ヨナダブについて。

【レカブの子ヨナダブとは】

レカブの子ヨナダブは、北イスラエル王国でオムリ王朝に対してエフー(イエフ)がクーデターを起こして王となった際に断行された苛烈な宗教改革を現場で目撃した人物である。エフーがイズレエルでアハブの子ヨラムを殺害して王都サマリアへと向かう途上でエフーに見出され、連れていかれる。ヨナダブの言動についての記述があまりに少なく、立ち位置が不明である。

イエフがそこを出て進んで行くと、彼を迎えに出たレカブの子ヨナダブに会った。イエフは彼に挨拶して言った。「わたしの心があなたの心に対して誠実であるように、あなたの心も誠実ですか。」ヨナダブは答えた。「そのとおりです。」イエフが、「そのとおりなら、手を出してください」と言ったので、ヨナダブが手を差し出すと、イエフは彼を引き上げて自分の戦車に乗せ、「一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください」と言った。二人は彼の戦車に一緒に乗り、サマリアに行った。彼は主がエリヤにお告げになった言葉のとおり、サマリアでアハブの家の者をことごとく打ち殺し、一族を全滅させた。
そこでイエフはレカブ人ヨナダブと共にバアルの神殿に入り、バアルに仕える者たちに言った。「主に仕える者があなたたちと一緒にいることがないよう、ただバアルに仕える者だけがいるように、よく調べて見よ。」二人はいけにえと焼き尽くす献げ物をささげるために入ったが、イエフは外に八十人の人を置き、次のように言った。「わたしがお前たちの手に渡す者を逃がした者は、自分の命をその逃がした者の命に代えなければならない。」焼き尽くす献げ物をささげ終わったとき、イエフは近衛兵と侍従たちに言った。「入って、彼らを討て。一人も外に出すな。」近衛兵と侍従たちは彼らを剣にかけて殺し、そこに投げ捨て、更にバアルの神殿の奥まで踏み込み、バアルの神殿にある石柱を運び出して焼き捨てた。バアルの石柱を破壊してから、バアルの神殿を破壊し、これを便所にした。それは今日に至るまでそうなっている。このようにして、イエフはイスラエルからバアルを滅ぼし去った。

【名前】

「ヨナダブ YHW-NaDaB」という名は「ヤハウェは意欲する」という意味である。NaDaBは「随意の捧げ物」などで使われる言葉。無理矢理日本語名を付けるなら「一志(かずし)」さんとか。

エレミヤ書にもレカブの子ヨナダブの名が登場するが、そこではHが落ちてYW-NaDaBとなっている。これはダビデ王の第一王子アムノンの友人でダビデの甥でもあるヨナダブと同じ名前である。

”アムノンにはヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブはダビデの兄弟シムアの息子で大変賢い男であった。” サム下13:3


またナダブという名も要所要所で登場する重要な名である。最も重要なのはアロンの長子ナダブである。

”次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい。”出エジプト記28:1

ナダブは子なくして死んだとある。

ナダブとアビフはシナイの荒れ野にいたとき、規定に反した炭火を主の御前にささげて死を招いたが、彼らには子がなかった。エルアザルとイタマルは父アロンと共に祭司の務めをした。” 民数記3:4

ナダブはアロンの長子であるため、もしナダブの未亡人がいればエルアザルかイタマルかその従兄弟などとレビレート婚したはずである。

”兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。” 申命記25:5-6

ナダブという人物は他に

・ユダ族エラフメエルの子オナムの子シャマイの子ナダブ(歴上2:26-28)

・ベニヤミン族キシュの一族のナダブ(歴上9:36)

・エフラタ人ヤロブアム1世の子のナダブ王(列上15:25)

などがいる。

【出自:「レカブ」への言及】

レカブの子ヨナダブあるいはレカブ人ヨナダブの父がレカブであるとは限らない。「子」には「子孫」の意味がある(cf. マタイ1:1)ため、レカブ人(列下10:23)という言葉からしてもレカブはヨナダブよりかなり前の人物である可能性もある。

レカブは歴代誌にあまり説明ないが、他のある氏族の人々がレカブ人と同祖であるという説明文の中で登場するため、捕囚期においてそれなりに「有名」な氏族であったと思われる。

"サルマの子らはベツレヘム、ネトパびと、アタロテ・ベテ・ヨアブ、マナハテびとの半ばおよびゾリびとである。またヤベヅに住んでいた書記の氏族テラテびと、シメアテびと、スカテびとである。これらはケニびとであってレカブの家の先祖ハマテから出た者である。" 歴代志上 2:54-55

一方で、「レカブ人」という出自を持った人物は聖書中にはレカブの子ヨナダブとその子孫しか明示されていないため、これを考えるとレカブはヨナダブよりそれほど前の人物ではないかもしれない。

サウルの息子イシュ・ボシェトを討ち取ったベエロテ人(ベニヤミン族と数えられたとある)リモンの子レカブなる人物がダビデ王の治世初期に登場しているが関連は不明。

”このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバアナとレカブといい、共にベニヤミンの者で、ベエロトのリモンの息子であった。ベエロトもベニヤミン領と考えられるからである。” サムエル記下4:2

また、ヘブライ語聖書では違っているが、七十人訳聖書の一部写本ではソロモンの任命した十二人の知事が「レカブの子」となっている。

”ベン・デケル――マカツ、シャアルビム、ベト・シェメシュ、エロン・ベト・ハナン。” 列王記上4:9
”レカブの子、マケマスとベータラミンとバイトサミュスとアイローンにおいて、バイタナンまで。” 列王記上4:9LXX私訳

この人物の担当地区はベニヤミン領北部からエフライム領西部のあたりのようである。

【出自:レカブ人と近しい氏族…ケニ人とユダ族】

歴代誌の系図に戻る。

"サルマの子らはベツレヘム、ネトパびと、アタロテ・ベテ・ヨアブ、マナハテびとの半ばおよびゾリびとである。またヤベヅに住んでいた書記の氏族テラテびと、シメアテびと、スカテびとである。これらはケニびとであってレカブの家の先祖ハマテから出た者である。" 歴代志上 2:54-55

簡略化すると (ユダ族)カレブ→フル→サルマ→…→ハマテ(おそらくケニ人)→…→レカブ→…→ヨナダブ

となっている。

このサルマの子孫については

ベツレヘム and ネトファ人
ヨアブ家のアタロト and マナハテ人の半分
ツォリ人 and ヤベツ居住の書記の家族

と二つ組 × 3 で記述されており、最後のヤベツ居住の書記の家族として

テラテ人、シメアテ人、スカテ人が挙げられ、これらがレカブ人と同祖ハマテの子孫でケニ人だった、と説明されている。

ケニ人とは、モーセの義父ホバブの子孫に対する呼称として出てくる。

モーセのしゅうと、あのケニの人々は、ユダの人々と共になつめやしの町からユダの荒れ野、アラド近辺のネゲブに上って来て、そこの民と共に住んだ。” 士師1:16
”時にケニびとヘベルはモーセのしゅうとホバブの子孫であるケニびとから分れて、ケデシに近いザアナイムのかしの木までも遠く行って天幕を張っていた。” 士師4:11

ホバブはミディアン人であるはずである。

”モーセは、義兄に当たるミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「わたしたちは、主が与えると約束してくださった場所に旅立ちます。一緒に行きましょう。わたしたちはあなたを幸せにします。主がイスラエルの幸せを約束しておられます。」ホバブが、「いや、行くつもりはない。生まれ故郷に帰りたいと思う」と答えると、モーセは言った。「どうか、わたしたちを見捨てないでください。あなたは、荒れ野のどこに天幕を張ればよいか、よくご存じです。わたしたちの目となってください。一緒に来てくだされば、そして主がわたしたちに幸せをくださるなら、わたしたちは必ずあなたを幸せにします。” 民数記10:29-32

士師記以降ではホバブは義父と呼ばれているが民数記では義兄と呼ばれている。我々が通常知っている情報では、モーセの義父はリウエル(レウエル)であり、ホバブはリウエルの子とあるので、ホバブは義兄にあたるはずである。なぜホバブが義父でもあるのかはこの後で考察する。

”さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。娘たちが父レウエルのところに帰ると、父は、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と尋ねた。彼女たちは言った。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。” 出エジプト記2:16-22

ミディアンの祭司レウエルの別名はエテロという。

”モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。” 出エジプト記3:1

ホバブが義父と呼ばれる問題から、ホバブとエトロとレウエルを同一視する説があるがレウエルとホバブには親子関係が明示されているのであまり整合的ではない。「レウエルの娘」が「レウエルの孫娘」を意味し、「モーセの義父」がレウエルに対しては「モーセの義理の祖父」を意味し、ホバブに対しては「モーセの義理の父」を意味し、ツィッポラをホバブの娘と解釈する方法もあるが、この場合、ホバブが義兄と呼ばれるためにはホバブがモーセの姉ミリアムと結婚していた、という説を採ることになる。しかしここでは別の説を考えてみる。

このモーセの家族の系図の謎を考える際に無視できないのがユダ族との関係である。

先ほど見たようにケニ人はユダ族と共に行動しユダ領の南側に居住した。

”モーセのしゅうと、あのケニの人々は、ユダの人々と共になつめやしの町からユダの荒れ野、アラド近辺のネゲブに上って来て、そこの民と共に住んだ。” 士師1:16

【出自:レカブ家とサルマの氏族】

レカブはヘブライ語聖書の歴代誌の系図には2章のサルマの子孫のうちにレカブの家と同祖の一族があったことへの言及のみがあるが、実は七十人訳ギリシア語聖書では4章にもレカブの名が登場する。

”ユダの子らはペレヅ、ヘヅロン、カルミ、ホル、ショバルである。ショバルの子レアヤはヤハテを生み、ヤハテはアホマイとラハデを生んだ。これらはザレアびとの一族である。
エタムの子らはエズレル、イシマおよびイデバシ(LXX:ヤベヅ)、彼らの姉妹の名はハゼレルポニである。ゲドルの父はペヌエル、ホシャの父はエゼルである。
これらはベツレヘムの父エフラタの長子ホルの子らである。
テコアの父アシュルにはふたりの妻ヘラとナアラとがあった。ナアラはアシュルによってアホザム、ヘペル、テメニおよびアハシタリを産んだ。これらはナアラの子である。ヘラの子らはゼレテ、エゾアル、エテナンである。
コヅはアヌブとゾベバを生んだ。またハルムの子アハルヘル(LXX : レカブの兄弟)の氏族も彼から出た。
ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。その母が「わたしは苦しんでこの子を産んだから」と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。” 歴代誌上4:1-9

ここら辺は系図が全然繋がっていなくてわけがわからないが、「アハルヘル ACHaRCheL」と訳されているところは七十人訳ギリシア語聖書では「レカブの兄弟」と訳されている。ヘブライ語で「ACHi-」は「兄弟」を意味するため、「レカルReCHeLの兄弟」とも読めるが、「L(ל,Λ)」と「B(ב,Β)」の文字がヘブライ語かギリシア語で誤写or誤訳されたと思われる。どちらが原文かはわからない。

一応ここの系図を整理すると、ヤベツという人物が言及されており、「兄弟たちの中で最も尊敬されていた」とされるが、ヘブライ語だとヤベツの名が唐突に現れるし、どこの兄弟の話か不明である。七十人訳、特にアレクサンドリア写本だと「イドバシュ」と訳されているところと「ヤベツ」と訳されているところが「イガベース」である。ヘブライ語の「アイン」という文字をギリシア語は「ガンマ(G)」で音写し、「ツァーディ(Ts)」という文字を「シグマ(S)」で音写する傾向にあるため、「イガベース」は「ヤベツ」と異なる名前ではなく同一名の音写の違いである。「兄弟の中で最も尊敬されていた」という言明を「レカブの兄弟」という言及を承けているとすると、「エタム」なる人物から始まる系図部分と「コツ」なる人物から始まる「レカブの兄弟」の系図部分が繋がっていることが予想され、間にアシュフルの系図が挿入されているという構造と推測することになる。

つまりこのような構造になっているかもしれない↓

●ユダの系図 フルとショバルに言及

●ショバルの系図 「これらはツォルアの氏族である」

●系統不明人物「エタム」の系図 ヤベツに言及

「彼ら(=ショバルらとエタムら)はフルの子である」

●アシュフル(=フルの兄弟 cf.歴上2)の系図

●系統不明人物「コヅ」の系図 レカブの兄弟に言及

「ヤベツは兄弟の中で最も尊敬されていた」

歴代誌2章の系図に戻ると

”これらはカレブの子孫であった。エフラタの長子ホルの子らはキリアテ・ヤリムの父ショバル、ベツレヘムの父サルマおよびベテガデルの父ハレフである。
キリアテ・ヤリムの父ショバル子らはハロエとメヌコテびとの半ばである。キリアテ・ヤリムの氏族はイテルびと、プテびと、シュマびと、ミシラびとであって、これらからザレアびとおよびエシタオルびとが出た。
サルマの子らはベツレヘム、ネトパびと、アタロテ・ベテ・ヨアブ、マナハテびとの半ばおよびゾリびとである。またヤベヅに住んでいた書記の氏族テラテびと、シメアテびと、スカテびとである。これらはケニびとであってレカブの家の先祖ハマテから出た者である。” 歴代誌上2:50-55

ここではカレブの妻エフラタの長子フルにショバル・サルマ・ハレフという三人の子がいるとされている。ショバルはザレア人の祖で、サルマはヤベヅに居住したレカブの兄弟氏族の祖であった、という情報を歴代誌4章の系図の構造の推測したものに当てはめると、系統不明の「エタム」なる人物と「コヅ」なる人物はおそらくサルマの子孫か、サルマの子孫の姻戚であろうと推測される。

「兄弟たちの中で最も尊敬されていた」というのを「レカブの兄弟」という言及と独立に解釈し単に「エタムの子らの中で最も尊敬されていた」と解釈するなら、「コヅ」の系図はアシュフルの系図の一部とも解釈できる。

しかし歴代誌2章と重ね合わせると、やはり「ヤベヅ」と「レカブの兄弟氏族」はサルマの系図の中で繋がっていると解釈するのが尤もらしいと思う。

【出自:ケニ人とユダ族の接続点】

先に見たようにカナン入植においてケニ人はユダ族と共に行動している。

”モーセのしゅうと、あのケニの人々は、ユダの人々と共になつめやしの町からユダの荒れ野、アラド近辺のネゲブに上って来て、そこの民と共に住んだ。” 士師1:16

ネゲブとはユダ領の南側の広い地域を指すが、その一部はエフネの子カレブの縁者で婿でもあるケナズの子オトニエルに娘と共に与えられたようである。

”主の命令に従い、ヨシュアはエフネの子カレブに、ユダの人々の領内のキルヤト・アルバすなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナク人の先祖である。カレブは、アナク人の子孫シェシャイ、アヒマン、タルマイの三氏族をそこから追い出し、更にデビルに上り、住民を攻めた。デビルはかつてキルヤト・セフェルと呼ばれていた。カレブは、「キルヤト・セフェルを撃って占領した者に娘アクサを妻として与えよう」と約束した。カレブの兄弟、ケナズの子オトニエルがそこを占領したので、カレブは娘アクサを妻として彼に与えた。彼女は来て、父から畑をもらうようにオトニエルに勧めた。彼女がろばの背から降りると、カレブは、「どうしたのか」と言った。彼女は言った。「お祝いをください。わたしにネゲブの地をくださるなら、溜池も添えてください。」彼は上と下の溜池を娘に与えた。” 士師記15:13-19

さて、モーセの義兄であり義父であるホバブは、歴代誌の系図には登場しないため、ユダ族とケニ人の接続点は不明である。

しかしホバブの父エテロの名前を探すと、何か所かに同名の人物が登場する。まず、エテロには「YThRW」という綴りが基本であるが、出エジプト記4章18節では「YThR」という綴りも使われている。

”モーセは妻の父エテロ(YThR)のところに帰って彼に言った、「どうかわたしを、エジプトにいる身うちの者のところに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているか、どうかを見させてください」。エテロ(YThRW)はモーセに言った、「安んじて行きなさい」。” 出エジプト記4:18

この「YThRW」の名を持つ人物は、歴代誌の系図にいないが、「YThR」の名は何人か登場している。

①ダビデの姉妹の夫、イシュマエル人イエテル。(歴上2:17)

②ユダ族エラフメエルの子オナムの子ヤダの子イエテル。子なくして死んだとある(歴上2:32)

③ユダ族の系図に現れるエズラなる人物の子イエテル(歴上4:17-18)

④アシェル族の系図に現れるエフネの父イエテル(歴上7:38)

このうち①は祭司エテロより明確に後代の人物であり、②は父系がユダまで繋がるのでミディアン人エテロとは別人のはずである。③と④はそれぞれユダ族とアシェル族の系図には現れるものの系図に繋がっていないためミディアンの祭司エテロと同一の可能性もなくはない。

オトニエルの岳父カレブの父エフネの名はカレブの父としての言及以外ではこのアシェル族のエフネしかいないため、ここにエフネとイエテルの名が同時に現れるのは興味深い。しかしここでは③のエズラなる人物の子イエテル(エテル)に着目する。

”シュワの兄弟ケルブ(LXX:アクサの父カレブ)はメヒルを生んだ。メヒルはエシトンの父、エシトンはベテラパ、パセアおよびイルナハシの父テヒンナを生んだ。これらはレカ(LXX,L型:レカブ)の人々である。ケナズの子らはオテニエルとセラヤ。オテニエルの子らはハタテとメオノタイ。メオノタイはオフラを生み、セラヤはゲハラシムの父ヨアブを生んだ。彼らは工人であったのでゲハラシムと呼ばれたのである。 エフンネの子カレブの子らはイル、エラおよびナアム。エラの子はケナズ。エハレレルの子らはジフ、ジバ、テリア、アサレルである。エズラの子らはエテル、メレデ、エペル、ヤロン。次のものはメレデがめとったパロの娘ビテヤの子らである。すなわち彼女はみごもってミリアム、シャンマイおよびイシバを産んだ。イシバはエシテモアの父である。彼の妻はユダヤ人で、ゲドルの父エレデとソコの父ヘベルとザノアの父エクテエルを産んだ。ナハムの姉妹であるホデヤの妻の子らはガルムびとケイラの父およびマアカびとエシテモアである。シモンの子らはアムノン、リンナ、ベネハナン、テロンである。イシの子らはゾヘテとベネゾヘテである。” 歴代誌上4:11-20

ここでカレブの系図が続いていることが七十人訳では示されている。しかしここでここまでのヘツロンの子カレブと同一人物か不明の、同一人物でないとすれば系図のどこに繋がっているのか不明の、エフンネの子カレブも登場する。ヨシュア記や士師記にある通り、このエフンネのカレブはケナズ人と交流があったことが系図の位置から読み取れる(が接続はやはり不明である)。

そしてこのヘツロンのカレブの系図の末端、エフンネの子カレブとケナズの子オトニエルの周辺の系図の中で、問題のイエテルが、これまた接続不明の「エズラ」なる人物の子として登場する。

エズラの子らはエテル、メレデ、エペル、ヤロン

と訳されているが実際にはここは単数であり、エズラの子として明示されているのはエテルのみで、メレデ以降はエテルの兄弟の可能性もエテルの子孫の可能性もある。

さて、エテルの弟ないし子であるメレデは、なんとファラオ(パロ)の娘ビティヤを妻に持っていたとある。エジプトの王女がなぜユダ族の系図に出てくるのだろうか。ソロモンの時代はファラオと姻戚関係にあったらしいが、それ以外の時代にもユダ族周辺のよく知られていない人物がファラオの娘を娶っていたということがあったのだろうか。

もしかしたらユダ族の知られざる有力者メレデがエジプトの王女と結婚するような繁栄を見せた時代がソロモン以前にあったのかもしれないが、エジプトのファラオの娘と言えば聖書中にももう一人有名人が登場する。

モーセの育ての母である。

”そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」” 出エジプト記2:5-10

さて、もしここでエテルの弟ないし子であるメレデが娶ったファラオの王女が、モーセの育ての母であったと仮定してみる。するとこのメレデなる人物は、モーセの養母の夫、すなわち義父となる。さらにメレデがエテルの弟ではなく子であった仮定して、エテルが祭司エテロと同一人物であったと仮定すれば、メレデはモーセの妻の兄弟、すなわち義兄となる。

※ただし日本語での「義父」は「母の夫(≠父)・妻の父・養父」を意味する言葉だが、ヘブライ語の義父という言葉「ChaThaN」は第一義的には「妻の父」を指し、「母の夫」の意味があるかは不明確である。養父・養母・義父・義母などの概念がどうも聖書ヘブライ語の世界では不明確となっている。我々の感覚としては養母と呼ぶべき例としてモーセに対するファラオの王女が登場し、養父と呼ぶべき例としてエステルに対するモルデカイ、義父(母の夫)と呼ぶべき例として主イエスに対するヨセフが登場するが、その続柄を示す単語は見られない。

さて、もしホバブとメレデが同一人物と考えるなら、ホバブがモーセの義父であり義兄でもあるという矛盾について一つの解決を与える。

二つの名前を持っている人物は聖書中にアブラムーアブラハム、サライーサラ、ヤコブーイスラエルなど多くいる。ホバブとメレデが同一人物の名前である場合、おそらくメレデが後から付いた名前と思われる、なぜなら「メレデ MeReD」は「脱退者」の意味だからである。彼が郷里ミディアンを脱した後についた名前と考えることができる。ちなみにホバブは「愛された者」の意味である。

ちなみにレウエル、エテロ(エテル)の名が複数あることについては、例えば以下のような仮説がありうるかもしれない。エテロはモーセの義父以外に名を持つ者は登場せず、エテルはおそらくエテロ以降の人物しか登場せず、レウエルはエテロに先立ってエサウ系(エドム人)の父祖の一人の名前として登場する(創36:10)。エテロはおそらくミディアン人とエドム人の血を引いており、レウエルという名が元から持っていた名であると思われる。そしてエテルに改名したが、その影響でエテルという名を引き継ぐ人物が後代に現れるようになる。そしてこのエテルとはエテロというレウエルの別の呼称をもとに造った新しい名であると考えることができる。エテロはおそらくミディアン人の祭司あるいは指導者としての称号と思われる。レウエルは「神の友」の意味である。

エテロ(EThRW)は「His excellence/eminence(≒彼の卓越)」の意味であり、エテル(EThR)は"his excellence"の"his"の部分を外した名前である。"his excellency/eminence"などは現代英語では「~閣下」など、高位の人物に対して直接の言及を避けつつ呼称として用いられる。モーセの時代からこのような言い回しがあったとははっきりとは言えないが、高位の人物について間接的な言及をすることによって強い敬意を表現する称号は紀元前から存在し、最も有名なもので言えばエジプトの王の称号「ファラオ」であり、これは「パル・アア ≒ 偉大な家」の意味でファラオ本人ではなくその居住場所によって呼称するものである。また新アッシリア帝国の文書などでもアッシュール神への呼びかけに"Assur, his Lord(ship)"という呼びかけが見られる。これは「エン・シュ」という呼称で、エンが主君の意味、シュがアッカド語の三人称男性単数の所有格("his")(リンク先84ページ)である。原文が確認できないが、"his lord"と訳される呼称(おそらく「エン・シュ」)が新アッシリア帝国の多くの文書に見られる。

さて、ホバブ=メレデ説を仮定して考えてみると、ケニ人とユダ族の接続点はこのメレデのもう一人の妻であると思われる。

次のものはメレデがめとったパロの娘ビテヤの子らである。すなわち彼女はみごもってミリアム、シャンマイおよびイシバを産んだ。イシバはエシテモアの父である。彼の妻はユダヤ人で、ゲドルの父エレデとソコの父ヘベルとザノアの父エクテエルを産んだ。

現代では「ユダヤ人」という概念は「ヘブライ人」「イスラエル人」のような意味で使われてしまうが、当時は十二部族が健在であり、「ユダヤ人」とは「ユダ族の人」の意味である。士師記によればホバブの子孫がケニ人であったらしいが、歴代誌によればファラオの王女の夫メレデはユダ族から妻を得ていたらしいので、ホバブ=メレデとするとケニ人は半分ユダ族ということになる。ケニ人がユダ族と行動を共にした理由もこれで説明がつく。この「ユダ族の妻」が誰なのかわからないが、系図の位置関係的にはエフンネの子カレブの縁者である可能性が高いと思われる。

【出自:北方のケニ人】

さて、ユダ族サルマの家系とレカブ家の関係やケニ人とユダ族の関係についていろいろと妄想してみたが、そもそもの問題として、レカブの子ヨナダブはエフー王の記述に現れるのだから、北イスラエル王国の人物である。しかも、エフーが北方のイズレエルから王都サマリアに向かう途上で出会っているので、北イスラエル王国の中でもそれなりに北側である。

ケニ人の居住地域ネゲブは南ユダ王国の中でも最南部であり、ヤベツ居住のケニ人と同祖であるレカブ人が北イスラエル王国に居住していたことは説明が必要な事柄になる。ヤベツ居住のケニ人とレカブ人が同祖であったことは必ずしもレカブ人がケニ人であったことを意味しないかもしれないが、一応ここではレカブ人もケニ人であったと想定してみる。また、ヨナダブ一族の北方居住はバビロン王ネブカドネツァル(2世)の遠征期まで続いたことがエレミヤ書の記述からわかる。

"しかしバビロンの王ネブカデレザルがこの地に上ってきた時、われわれは言いました、『さあ、われわれはエルサレムへ行こう。カルデヤびとの軍勢とスリヤびとの軍勢が恐ろしい』と。こうしてわれわれはエルサレムに住んでいるのです」。 "エレミヤ書 35:11

ネブガドネツァルのシリア・パレスチナ北部遠征(おそらくヨヤキム王の治世前半)においてヨナダブの子孫はエルサレムに移動した。彼らはレビ人のような「嗣業の土地」を持たない氏族であるように見える。

”すると、彼らは答えた。「我々はぶどう酒を飲みません。父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまでぶどう酒を飲んではならない、と命じたからです。また、家を建てるな、種を蒔くな、ぶどう園を作るな、また、それらを所有せず、生涯天幕に住むように。そうすれば、お前たちが滞在する土地で長く生きることができる、と言いました。”エレミヤ書35:6-7

これはあるいみユダ領に「戻ってきた」とも言える。ではいつケニ人ないしレカブ人はユダ領を出て北上したのだろうか。一つのヒントとして、ケニ人ヘベルの北上が士師デボラの治世の前にあったようである。

”バラクはゼブルンとナフタリをケデシに呼び集め、一万人を従えて上った。デボラも彼と共に上った。時にケニびとヘベルはモーセのしゅうとホバブの子孫であるケニびとから分れてケデシに近いザアナイムのかしの木までも遠く行って天幕を張っていた。” 士師記4:10-11

重要情報として、彼も天幕(テント)生活をしており、嗣業の地を持たないレビ族と近いあり方が既に見られているということが述べられている。

ケデシ(ケデシュ、カデシュ)はイスラエルの最北の地域の都市であり、レビ人の町であり、「聖別」という意味の町であり、入植の際に「逃れの町」として聖別された六都市の一つである。

”彼らは、ナフタリの山地ではガリラヤのケデシュ、エフライム山地のシケム、ユダの山地ではキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。エリコの東、ヨルダン川の向こう側では、ルベン族に属する台地の荒れ野にあるベツェル、ガド族に属するギレアドのラモト、マナセ族に属するバシャンのゴランをそれに当てた。以上は、すべてのイスラエルの人々および彼らのもとに寄留する者のために設けられた町であり、過って人を殺した者がだれでも逃げ込み、共同体の前に立つ前に血の復讐をする者の手にかかって死ぬことがないようにしたのである。” ヨシュア記20:7-9
レビ人の一氏族であるゲルションの子孫に与えられたのは、マナセの半部族からは、殺害者の逃れの町であるバシャンのゴラン、ベエシュテラとそれぞれの放牧地など二つの町、イサカル族からは、キシュヨン、ダベラト、ヤルムト、エン・ガニムとそれぞれの放牧地など四つの町、アシェル族からは、ミシュアル、アブドン、ヘルカト、レホブとそれぞれの放牧地など四つの町、ナフタリ族からは、殺害者の逃れの町であるガリラヤのケデシュ、ハモト・ドル、カルタンとそれぞれの放牧地など三つの町である。” ヨシュア記21:27-32

しかしこのヘベルの系統がレカブ人ヨナダブまで続いているとしても、今度はこの場所では北方すぎるという問題がある。ナフタリ領はイッサカル領の北であり、ケデシュはナフタリ領の中でもかなり北方で、イスラエル全土を「ダンからベエル・シェバまで」と表現する際に出てくる最北端の都市ダンに近い山地である。エフーがヨナダブと会ったのはイッサカル領の南側にあるイズレエルからその南方のマナセ領サマリアへと向かうどこかである。彼らは天幕生活で嗣業の地を持たないのだから、北王国内で場所を変えて現れるのはそれほど不自然なことではないし、もしかするとケデシュに住みつつも、その宗教的地位の高さゆえに王都の近くに「出張」していたのかもしれないが、一応居住地自体が北王国内でケデシュより南に再移動した経緯も考えてみる。

というのも、ケデシュはイスラエルのかなり北端に近い地域であるということから、イスラエル王朝がケデシュを完全に領有していなかった時期もあると思われる。それで、その付近に嗣業の地を持つ人々は征服下でもその地に居住したり、イスラエルが領有し返すたびに嗣業の地に戻るなどしたかもしれないが、天幕生活をするケニ人/レカブ人はケデシュが危険な地域となれば南方に移住して北方には戻らなかったという可能性が十分考えられる。

デボラの即位以降、エフーの即位以前で、ケデシュがイスラエルの士師や王の支配下になかった可能性の高い時期を考える。ダビデとソロモンの治世前半はイスラエル全土がダビデ王朝の支配下にあったと思われる。士師時代はかなり異民族の侵攻が記されているので北方が侵攻を受けていた時期もあるかもしれない。まずデボラの築いた四十年の太平の後、ミディアン人が七年間侵攻し、ギデオンがそれに抗した。ミディアンの侵攻した地域は南西のガザを含む領域である。

”イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった。” 士師記6:2-5

「ガザに至るまで」という侵攻地域の起点がよくわからないが、どうやらミディアンの侵攻はヨルダン川の北部を渡って来るものだったらしい。

”ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が皆結束して川を渡って来て、イズレエルの平野に陣を敷いた。” 士師記6:33

つまり北イスラエル王国の北部イズレエルから南ユダ王国の西部ガザまで侵攻があったとなると、北王国にあたる地域の全土が荒らされていたようである。ただケデシュなどのあるガリラヤ地域が侵攻されていたのかどうかはわからない。

その次の記述では、ヨルダン川の東側ギレアド地方がアンモン人の侵攻を受け、また川を渡って南部にも侵攻したとあり、ギレアド人エフタがこれに抗した。

”敵は、その年から十八年間、イスラエルの人々、ヨルダンの向こう側ギレアドにあるアモリ人の地にいるすべてのイスラエルの人々を打ち砕き、打ちのめした。アンモン人はヨルダンを渡って、ユダ、ベニヤミン、エフライムの家にも攻撃を仕掛けて来たので、イスラエルは苦境に立たされた。” 士師記10:8-9

この頃も北方より南方の方が荒れていそうである。

その後ペリシテの支配があるが基本的にガザなど南西部が中心となっている。ただし祭司エリの時代の戦いではアフェクにいるペリシテ軍に対してエベン・エゼルにイスラエル軍が陣取っているので、この構造から見るとペリシテ人はイスラエルの西部をかなり北方まで支配地域を広げていたようにも推測される。

リンク先の地図ではダン領とエフライム領の間の少し北にアフェク(Aphek)とエベン・エゼル(Eben-ezer)がある。しかしこの時期も北方はあまり侵攻を受けていないように見える。その後サムエルやサウルの治世となるが、その記述の前半ではヨルダン東部のヤベシ・ギレアドでの戦い以外はイスラエル南部のベニヤミン領・ダン領・ユダ領の地名が多く出てくる。

しかしダビデがガテの王アキシュのもとにいた頃からイスラエルの北方が戦場となっている。ガテはイスラエルの南西の地域の筈だが、イスラエルの西側全体を侵攻して北側から侵攻するようになっていたと思われる。

”アキシュはダビデに言った。「それなら、常にあなたをわたしの護衛の長としよう。」サムエルが死んだ。全イスラエルは彼を悼み、彼の町ラマに葬った。サウルは、既に国内から口寄せや魔術師を追放していた。ペリシテ人は集結し、シュネムに来て陣を敷いた。サウルはイスラエルの全軍を集めてギルボアに陣を敷いた。サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心はひどくおののいた。サウルは主に託宣を求めたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。サウルは家臣に命令した。「口寄せのできる女を探してくれ。その女のところに行って尋ねよう。」家臣は答えた。「エン・ドルに口寄せのできる女がいます。」サウルは変装し、衣を替え、夜、二人の兵を連れて女のもとに現れた。サウルは頼んだ。「口寄せの術で占ってほしい。あなたに告げる人を呼び起こしてくれ。」” サムエル記上28:2-8

シュネムとエン・ドルはイッサカル領イズレエルの北東であり、ギルボア山はイズレエルの南東である。このギルボア山の戦いはサウル軍の壊滅、サウル王と王子ヨナタンらの戦死という結果であり、イスラエルの北方の支配圏はかなり失われた可能性がある。

この後、ダビデはエルサレムよりかなり南方のヘブロンで即位し、サウル王家の生き残りのイシュ・ボシェトがマハナイムで即位する。マハナイムはおそらくヨルダン川の東である。この時サウル王家についた人々のリストが興味深い。

”サウルの軍の司令官、ネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェトを擁立してマハナイムに移り、彼をギレアド、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。” サムエル記下3:8

このとき、エフライム領とベニヤミン領の南方にユダ領があり、そこの地域はダビデを王としている。マハナイムとギレアドはヨルダン川の東側の領域で、イズレエルはエフライム領の北のマナセ領とイッサカル領の境界にある。またアシェル領はイッサカル領の北西に広がる領域である。ここで言及されていない領域は当時の「全イスラエル」の領域に入っていない可能性が高い。ここで無視されているのがゼブルン領とナフタリ領であり、つまりはケデシュを含む地域である。ただしアシェル領がサウルの支配下にあったということは、西側から侵攻するペリシテ人がアシェル領の東側のゼブルン・ナフタリ領を制圧していたわけではないように思える。おそらく北方の他の国に取られていたのかもしれない。サウルからダビデの治世にかけての期間はレカブ人が南下した時期として有力かもしれない。その後、ダビデはサウル王家の勢力を吸収し、西のペリシテを討ち、東のモアブを討ち、北のツォバの王ハダドエゼルとアラム軍を討った。この時ツォバと交戦中のハマテの王トイが王子をダビデのもとに遣わしたとある(サム下8章)。ツォバとハマテはダンよりもかなり北方で、ダマスコに対してヘルモン山系を挟んだ北西の道を北に進んだところにある。レボ・ハマト(ハマテの入口)という地名もイスラエルの全土を表す言葉としてあるが、これはツォバやハマテの手前の地域のことを言うようである。

この語しばらくナフタリ領ケデシュはイスラエルの統治下にあり、ヤロブアム1世がダンを宗教都市としようとしたことからもしばらく安定していたことが予想される。

その後、北王国ヤロブアム朝を滅ぼしたバシャ王朝の頃に明確にケデシュは異国の支配下に入る。

アサは、神殿と王宮の宝物庫に残るすべての銀と金を取り出して家臣たちの手にゆだね、彼らをダマスコに住むアラムの王ベン・ハダドに遣わした。その父はタブリモン、祖父はヘズヨンである。アサ王はアラムの王にこう伝えさせた。「わたしとあなた、わたしの父とあなたの父との間には同盟が結ばれています。わたしはここに銀と金の贈り物をあなたにお届けします。イスラエルの王バシャとの同盟を直ちに破棄し、彼をわたしから離れ去らせてください。」ベン・ハダドはアサ王の願いを入れ、配下の軍の長たちをイスラエルの町々に送り、イヨン、ダン、アベル・ベト・マアカ、キネレトの全域、およびナフタリの全土を攻略させたバシャはこれを聞くと、ラマの構築をやめ、ティルツァにとどまった。” 列王記上15:18-21

この時、アラム・ダマスクスの王ベン・ハダド(1世)がナフタリ領を攻略している。この時おそらくケデシュはアラムの支配下に移ったと思われる(ケデシュはダンとキネレトの間にある)。

エフー王朝が滅ぼしたオムリ王朝はアラムの王との戦いで何度か勝っており、かなり遠方で領有権を失いがちなラモテ・ギレアドの領有に拘っていることから、おそらく北方もある程度の領域を回復していたと思われる。

”イスラエルの王は家臣たちに、「お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる」と言った。” 列王記上22:3

よってデボラからエフーまでのイスラエル北部(ガリラヤ地方)の様子をおさらいすると

デボラ時代 → ナフタリ領としてイスラエル人の支配下

ミディアン侵攻時代 → イズレエルは侵攻されているがそれより北のガリラヤについては不明

ギデオン時代 →  おそらくイスラエル支配下?

アンモン侵攻時代 → おそらくイスラエル支配下?

エフタ時代 → おそらくイスラエル支配下?

ペリシテ侵攻/エリ&サムエル時代 → おそらくイスラエル支配下?

サウル時代(後半) → ペリシテによる圧迫が北方まで到達しガリラヤの領有もペリシテか別の民族によって奪われたかもしれない

イシュ・ボシェト/ダビデ時代 → ガリラヤの領有は失われているかも

ダビデ&ソロモン時代 → アラムを撃退し、ガリラヤの北方ダンや更に北方レボ・ハマトまでの支配を回復

 ヤロブアム朝時代 → ガリラヤの北方ダンの領有が継続している

バシャ朝時代 → 南ユダ王国のアサ王と呼応したアラム・ダマスクスがガリラヤを占拠

オムリ朝時代 → アラムに対する優位が続きガリラヤの領有も回復したかもしれない。イズレエルがアハブ王の居住地になっている。

少なくともバシャ朝期にガリラヤ一帯はアラムに征服されているため、ケデシュに移住したケニ人がエフ―朝樹立期までに南下していた可能性が十分考えられる。

「北方のケニ人」を考える上でもう一人考えておくべき人物がいる。先述の、ケニ人の祖ホバブと同一視できるかもしれないエテルの親族メレデの子孫である。

”エズラの子は、イエテル、メレド、エフェル、ヤロン。メレドがめとったファラオの娘ビトヤの子は次のとおりである。彼女はミルヤム、シャマイ、またエシュテモアの父イシュバを身ごもった。メレドのユダ人の妻は、ゲドルの父イエレド、ソコの父ヘベル、ザノアの父エクティエルを産んだ。” 歴代誌上4:17

ゲドルとザノアは南方の地名である(歴上4:39, ヨシュア15:34)のに対して、ソコは三か所に似た地名が残る。三か所のうち一つが北方にある。

”ベン・ヘセド――アルボト、ソコとヘフェル地方全域も彼の担当。”列王記上4:10

先ほどの地図によれば、アルボト(Arubboth)はサマリアの北にあり、ソコは(Socoh)はそれらの西にある。

ソコは地名に名が残る人物であるということは、カナン入植後、ヨシュアから士師にかけての時代の人物である可能性が高いと思われる。もしこれらのソコの建設者が同一であるとすると、ソコという人もユダ領のある南から北へ移動したと考えることができる。すると、ちょうどソコの父ヘベルが南から北へ移動したホバブの氏族のヘベルと同名であることから、この二人を同一視できる可能性があるかもしれない。

”カイン人のヘベルがモーセのしゅうとホバブの人々、カインから離れて、ケデシュに近いエロン・ベツァアナニムの辺りに天幕を張っていた。” 士師4:11

ソコは地名になったということはある程度は子孫がそこに定住したと思われるので、天幕生活するレカブ人とはまた別の系譜かもしれないが、ケデシュに向かった天幕生活するケニ人の系統が、ガリラヤが異国に占拠されるに際して、もしかすると同族かもしれないソコの近くに向かったかもしれない。

するとソコはサマリアより西ではあるが北でもあるので、イズレエルからサマリアへ向かうエフーを迎えに来たレカブ人ヨナダブの居場所の候補になるだろう。

【レカブ人に関するラビ・ユダヤ教の伝承】

ラビ・ユダヤ教の伝承では、レカブ人はユダの子シェラの子孫の系譜に登場する「陶器職人(歴上4:23)」と訳される語(ha-Yotserim)と結びつけて考えられており、その理由が先祖の教えを遵守する(She-Natser)ためとされる。つまり"Yotserim"でなく"Notserim"と読んでいる。「見張りの者」という意味もあることから、「見張りの塔(ミグダル・ノツェリム)」という地名(列下17:9, 18:8)とも結び付けられ、また生活様式と単語の関連から「ナジル人(Nozerim)」とも結び付けられている。

また、「レカブ人の歴史」と呼ばれる正典外書物が存在する。ギリシア語訳には後代の加筆も多いとされるが、一部の内容は紀元1世紀程度までは遡る記述である可能性があるとされる。

【ヨナダブの誓い】

エフーはレカブ人ヨナダブに自分の「熱心な信仰」を見てほしかったらしい(列下10:16)ので、ヨナダブは北イスラエルのヤハウェ信仰において何かしら重要な立場を持った人物だったのかもしれない。

エレミヤ書35章によれば、彼以来、レカブ人は子々孫々は固くぶどう酒を飲まなかったらしい。これはまた断酒して自身を聖別するナジル人の規定(民数記6章)のことを言っているかもしれない。

ヨナダブはエフーの「熱心な信仰」に賛成しただろうか。実際のところは不明だが、ヨナダブは虐殺現場の凄惨な光景を心に焼き付け、生涯悔やんだのではないかと僕は思う。

なぜなら、彼が子孫に遵守を定めたと思われるナジル人の規定の一つは「死体に近づくことの禁止」であり、生涯を誓願期間とするナジル人となるということは、「"同胞を"殺してはならない」という十戒以上の強さを持った無条件的な「不殺の誓い」でもあるからだ。

祭司などと違ってナジル人は血統によらずに神と個人の間で関係を結ぶ制度であるのに、ヨナダブはそれを子孫の選択の自由を半ば制約するような形で託した。賛否はあるだろうが、いずれにせよ彼にある種の強烈な改悛があったことの証左なのではないか、と僕は思う。

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