『弁明』(アクイレイアのルフィヌス)

アクイレイアのルフィヌスは、オリゲネスなどの著作の翻訳でしられる5世紀の著述家である。異端視されたオリゲネスの思想を紹介したことなどから異端の嫌疑がかけられることがあった。以下はローマ教皇アナスタシウス(在 AD 498-503)へ宛てたルフィヌスの弁明。

…以下、英訳からの重訳…

(1)

私の知るところとなったことによると、聖下が信仰に関する議題やその他の諸々の点において起こしてきた一連の論議において、とある人々が私の名に言及してきたとのことである。聖下、つまり教会の厳密な諸原理のうちに幼少から訓練されてきた者は、居合わせない人に対して、そして神の信仰と愛においてにあなたと結ばれている者としてあなたに好意的に知られている者に対して向けられうるどんな中傷をも、聞くことを拒んできたということを私は敢えて信じる。しかしそれでも、私は自分の世評が攻撃されてきたことが報告されたのを聞いて、書き物で聖下に私の立場を明確にしておくことが正しいと考えた。これを対面で成すことは私には不可能であった。私は自分の親族のところへ三十年近く留守にした後に丁度帰ってきたところで、私がこれほど遅く再訪した者たちのところからこれほど早くまた去るのは辛辣でほとんど非人間的であろう。私の長旅の労苦も、私を弱めてしまい、再び旅を始めるのが困難なほどである。この書簡における私の目的は、あなたの精神から何らかの疑いの染みを取り除くことではない。[あなたの精神]を私は聖なる場所として、どんな悪しきことも通過させないある種の神的な聖域として、見なしている。むしろ私は、あなたに為そうとしているこの告白が、あなたの両手の内に杖のようになって、私に対して犬のように吠える妬み深い人々を追い退けるべく[使われて]ほしい。

(2)

私の信仰は、確実に、異端者たちが私を迫害した際に十分に証拠立てられた。その時、私はアレクサンドリアの教会に寄留しており、投獄と追放の目に遭っていたが、それは忠実さの報いであった。それでも私の信仰を試したいと望み、あるいはあるがままを聞き、学びたいと望む者たちのために、私はそれを宣言しよう。私は信ずる。三一が一つの本性と神格から成り、一なる同じ力と本質から成ることを。それで御父と、御子と、聖なる御霊の間には何の違いも全くなく、ただ一が御父、第二が御子、第三が聖なる御霊ということだけ[が違う]。現実で生きている諸々の位格から成る三一と、本性と本質の統一があるのである。

(3)

私はまた告白する。神の御子はこれらの終わりの日々においてかの処女と聖なる御霊から生まれたということを。彼が自身に我らの本性的な人間の肉と魂を着たことを。これにおいて彼は受苦し、葬られ、死から再び起き上がったことを。彼がそれにおいて起き上がったところのその肉は、墓のうちに横たえられたところのものと同じ肉であったことを。そしてこの同じ肉において、その魂と共に、彼の復活の後に天へと昇ったことを。そこから我々は生者と死者を裁くべく来るのを見る。

(4)

しかしさらに、我々自身の肉の復活については、私は以下のように信ずる。すなわちそれはその一貫性と完成のうちにあるであろうことを。それはまさにこの私たちが今その内で生きているところの肉である。私たちはある者たちによって中傷的にも報告されているような以下のことを保持しない。すなわちもう一つの肉がこれの代わりに起き上がるであろうということを。しかしまさにこの肉が、一つの器官も欠けることなく、体のどんな一つの部分を切り落とすこともなく[起き上がるの]である。その朽廃可能性を除いては、その全ての属性のどんなものも欠くことはないであろう。体に関して、聖なる使徒によって約束されていることはこれである。それは朽廃のうちに播かれ、不朽のうちに起き上がらせられる。弱さのうちに播かれ、力のうちに起き上がらせられる。不名誉のうちに播かれ、栄誉のうちに起き上がらせられる。これはアクイレイアの教会における聖なる洗礼を私がその者たちから受けたところの[人々]によって私へと受け継がれてきた教えである。そして私は、それが[ローマの]使徒座が長い慣習によって受け継いできた、そして教えてきたことと同じであると考える。

(5)

私は更に確言する。来たるべき裁きは、その裁きにおいて全ての人が自身の体での生に相応する報いを、彼が善であれ悪であれ為したことに応じて受けることになる。そして人々の場合にはその報酬は彼らの諸々の業に応じてあるならば、悪魔、つまり罪の普遍的な原因である者、の場合にはこれはどれだけ大きなものになるだろうか。悪魔自身について我々の信念は以下である。これはかの福音に書かれていることだが、すなわち、彼と彼の全ての使いたちの両方は、彼らの分け前として永遠の火を受け取り、そして彼と共には、彼の諸々の業を為した者たち、すなわち、彼らの兄弟たちについて告発者たちとなった者たちがいるのである。それではもしある者が、悪魔が永遠の諸々の火に服させられることになるということを否定するならば、その者は[悪魔]と共に永遠の火のうちで自身の分を持つように。それによって彼は今彼が否定している事実を経験によって知ることができるのである。

(6)

私は次に、魂の性質に関する問いについてある混乱が起こされていることを知らされている。この種の議題についての諸々の訴えを、脇に置かれるままにする代わりに歓待すべきかどうかについては、あなたがあなた自身で決めなくてはならない。しかしながら、あなたがこの論題に関する私の意見を知りたいならば、私はそれを率直に述べよう。私はこの問いについて多くの偉大な著述家たち[の著作]を読んできた。そして私は彼らが様々な意見を表現していることを見出している。私が読んできたもののうちのあるものは、魂が、人の種子という経路を通して物質的な体に注入されると保持していた。これについて彼らは彼らが与えられるような証拠を与えている。私はこれがラテン人たちの内のテルトゥリアヌスやラクタンティウスの意見であり、ひょっとすると他の数人の者たちもそうであったと思う。他の者たちは、神は日ごとに新しい魂を造っており、胎の内で組み立てられた諸々の体の内にそれらを注入していると主張する。一方他の者たちはまた諸々の魂は全て長い前に、神が全ての者を無から造った際に造られ、そして彼がいま為すことはそれぞれの魂をその体のうちに、彼に良いと思われるように植え付けることだけであると信じている。これがオリゲネスと、そしてギリシア人の他のある者たちの意見である。私自身については、私は神の面前において以下のように宣言する。これらの意見のそれぞれを読むことの後で、私は現在の瞬間までそれらのうちのどれかを確実で絶対だと保持することができていない。この問いにおける真理の決定を、私は、神と、それを明らかにすることを[神]が嘉する者へと残す。この点についての私の告白はそれゆえ、第一に、これらの幾つかの意見は私が諸々の書において見出してきたことであること、第二にしかし、私はまだこの論題について無知のうちに留まっているということである。ただし以下のことまでは[無知でない]、すなわち神は諸々の体についてと同様に、諸々の魂について創造者であるということを信仰の条項として教会が伝えていることである。

(7)

さてもう一つの議題についてである。私は私に対する諸々の反対が起こってきたのは、以下のことによると告げられている。すなわち、確かにそうなのだが、私の兄弟たちのあるものたちの要求にあって、私がオリゲネスのとある諸々の著作をギリシア語からラテン語へと翻訳したためであると[告げられている]。これを非難するための議題にするのは悪意によってでしかないとあらゆる者が分かると私は思う。というのも、かの著者において何か有害な言明があったとして、なぜ翻訳者の咎へと歪曲されるのか。私はギリシア語の文において書かれてあった者を、ラテン語において示すよう頼まれたのである。そして私はラテン語の諸々の単語をギリシア語の諸々の概念へと当てはめること以上の何も為していない。それゆえもし、それらの概念のうちに何か称賛すべきものがあったとしても、その称賛は私には属さない。そしてそれは非難が加えられるような何かについても同様である。私が私自身の[見解]をその作品に加えたことは認める。私の序文で述べたように、私は私自身の裁量で少ない数だけではない諸々の文を切り捨てた。しかしそれは私がオリゲネス自身によって述べられた通りのことでないのではないかと疑うに至ったところについてだけである。そしてそれらの場合において、その言明は他の者たちによって挿入されてきたものであると私には見えた。他の諸々の箇所では、その著者はその議題を公同的な感覚において述べていることを私が見出したためである。それゆえ、聖なる、尊ばれるべき、また聖人的な師父よ、この理由により悪意の嵐が私に対して起こされるのを許可しないように、また党派心と中傷の行使を裁可しないよう、私はあなたに懇願する。[党派心と中傷とは]神の教会において決して使用されるべきでない兵器である。簡明な信仰と無垢さは、教会の内で守られなければ、どこで安全にあれるであろうか。私はオリゲネスの弁護者でも推進者でもない。また彼の諸々の著作を翻訳した最初の者でもない。私の前の他の者たちがまさに同じことを為し、そして私が、私の兄弟たちの要求にあって、多くの者たちのうち最近にそれを為したのである。もしそのような諸々の翻訳が成されるべきでないとある命令が与えられることになれば、そのような命令は未来において有効であり、過去においてはそうではない。しかしもしどんなそのような命令が与えられるよりも前にこれらの翻訳を成した者たちが非難されることになるならば、その非難は最初の一歩を取った者たちから始められなければならない。

(8)

私については、私はキリストの名において以下を宣言する。すなわち私は、上に提示したことの他のどんな信仰をも、決して保持したことはないし、決して保持することはない。それはローマの教会によって、アレクサンドリアの教会によって、そして私自身のアクイレイアの教会によって保持されている信仰である。そしてそれはエルサレムにあっても宣べ伝えられている。そしてもし別様に信ずる者がいるならば、彼が誰であっても、呪いが彼にあるように。しかし単なる悪意と敵意によって衝突と攻撃をその兄弟たちの間に発生させ、彼らを躓かせる原因となる者たちは、裁きの日においてそれについて申し開きを為すことになろう。

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