[通読メモ]列王記上2章-15章

ヤロブアム1世について。

【ヤロブアムとは】

ネバトの子ヤロブアム(ヤロブアム1世)は、イスラエルの統一王朝が3代目ソロモンの治世の後に南北分裂した際、北イスラエル王国の初代王となった人物である。
列王記を通じて、北イスラエルの王たちは「ネバトの子ヤロブアムの罪を離れず、」と説明されており、北イスラエル王国の数々の悪しきことの元凶のような扱いをされている。

【名前】

ヤロブアムという名の語源は不確定要素がありそう。「ヤロブYaRoB + アム❜M」の後半は「民」「人民」という語と思われ、前半は「ラバブ RaBaB("増える" "増やす")」か「リーブRYB("争う" "勝つ")」の活用という説が強そう。
個人的には後者を支持する。その場合、士師ギデオンの別名「エルバアル YeRuBBa❜L」や祭司ヨヤリブ(YHoYaRiB, 歴上9:10)に含まれるYRBの部分が「争う」と同じ単語の可能性が高い。ヤロブアムさんにも無理に日本名を与えるとすれば「勝人(かつと)」さんみたいな。

"そこでその日、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきです」と言ったので、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。" 士師記 6:32

同名の人物に北イスラエル王国の後代の王ヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム2世)がいる。北イスラエル王国は王朝の交代が激しいが、おそらくこのエフー王朝のヤロブアム2世はヤロブアム1世と同じ部族出身か、ヤロブアム1世の女系を含む子孫かのどちらかと思われる。

【出自】

彼もサムエルと同じく、エフライム人と訳出されるが原語は「エフラタ人Ephrathite」である(列上11:16)。もしかすると、サムエルとヤロブアムが両者ともエフライム地域に居住する「エフラタ人」であったため、聖書翻訳の際にエフラタ人とはエフライム人のことだろうと決め打ち解釈する訳出文化が生まれたのかもしれない。
確かにヤロブアムはソロモンの治世に「ヨセフの家の労役の長」に任じられており、ヨセフの子エフライムの子孫と考えたくなるし、おそらく実際にエフライムの子孫でもあったと思われる。エフライム人のうち、ユダ族と関係深いエフラタ族から出た人物なのだろうと僕は思う。
聖書には4人の「エフラタ人」が登場し、順にルツの舅エリメレク、預言者サムエル、ダビデの父エッサイ、ヤロブアム1世である。サムエルとヤロブアムはエフライム領出身で、エリメレクとエッサイはユダ領出身である。


同節によれば彼の出身地はツェレダとある。ちゃんと検証してないが、このサイトに載ってる地図によると、リュッダからシェケムに向かう道の途上、アリマタヤの近くにあるらしい。アリマタヤとサムエルの出身地ラマタイム・ツォフィムは同一視される可能性があり、アリマタヤとツェレダが近いこととサムエルとヤロブアムが同じエフラタ族であることは整合性が取れているが、これらの地域の比定がどれくらい確実なものなのかわからないので、議論の仮定と結論がごっちゃになってそう。いずれ検証する。


彼の父の名はネバトであり、母の名はツェルアとある。北イスラエル王国の王で母の名が残っているのはたぶん珍しい。ネバトはヤロブアム1世の父の名としてしか登場せず出自のヒントはない。母ツェルアは寡婦だったとある。これが寡婦をネバトが娶ってヤロブアムを設けたという意味なのか、ネバトがヤロブアムを設けた後に早逝してツェルアが片親で育児したという意味なのかはわからないが、おそらく後者に近い意味だろう。ネバトNaBbTは"見る"の意味らしく、ツェルアTseRW'Hは皮膚やテントの異常への対処について規定する律法で登場する「ツァラアト」と同語源らしい。このサイトによると"Leprous, Bi-Colored"の意味とある。


ヤロブアム1世に関係の深そうな地域として彼の建設した二つの町がある。

"ヤラベアムはエフライムの山地にシケムを建てて、そこに住んだ。彼はまたそこから出てペヌエルを建てた。" 列王紀上 12:25

ただしシェケム(シケム)はヤロブアム即位以前から北イスラエル地域の中心地であったと思われ、ヤロブアムと同時期にソロモンの後継者として南ユダ王となったレハブアムは即位の際にシェケムに出向いている。

"レハベアムはシケムへ行った。すべてのイスラエルびとが彼を王にしようとシケムへ行ったからである。" 列王紀上 12:1

また、ヤロブアムは王子アビヤが幼少で死んだ頃ティルツァに住んでいたらしい。

”そのころ、ヤロブアムの息子アビヤが病気になった。ヤロブアムは妻に言った。「立って、ヤロブアムの妻だと知られないように姿を変え、シロに行ってくれ。そこには、わたしがこの民の王になると告げてくれた預言者アヒヤがいる。”
”ヤロブアムの妻は立ち去り、ティルツァに戻った。彼女が家の敷居をまたいだとき、幼いその子は死んだ。イスラエルのすべての人々は主がその僕、預言者アヒヤによって告げられた言葉のとおり、彼を葬り、弔った。”列王記上14:1:2, 17-18

ティルツァはシェケムのさらに北で、マナセ領と思われる(シェケムもエフライム山地だが既にマナセ領と思われる)。シェケムは北側にエバル山、南側にゲリジム山がある町で、そのエバル山を挟んで北側にティルツァがある。ティルツァはマナセの子孫であるツェロフハドの娘の名(ヨシュア17:7)で、この名が地名のもとになっていそうだ。ティルツァはギレアドの子孫のように読めるので、ヨルダン川の東側の地域に嗣業の地があったとも見えるが、ギレアドの子ヘフェルの子孫でもあり、西側の地域に嗣業を得た人々に含まれていたかもしれない。

”マナセ部族もくじで領地の割り当てを受けた。マナセはヨセフの長男である。マナセの長男マキルは、ギレアドの父で、戦にたけ、ギレアドとバシャン地方を手に入れた。他のマナセの子孫、すなわちアビエゼル、ヘレク、アスリエル、シケム、ヘフェル、シェミダの人々も、氏族ごとに割り当てを受けた。彼らはヨセフの子マナセの子孫であって、氏族ごとの男子である。ツェロフハドは、マナセ、マキル、ギレアドヘフェルと続く家系に属していたが、彼には息子がなく、娘だけであった。娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァといった。彼女たちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、および指導者たちの前に進み出て、「主はわたしたちにも親族の間に嗣業の土地を与えるように、既にモーセに命じておられます」と申し立てた。彼女たちは、主の命令に従い、父の兄弟たちの間に嗣業の土地を与えられた。マナセ族にはこうして、ヨルダン川の東、ギレアドとバシャン地方のほかに、十の地域が配分された。マナセの娘たちが、息子たちと共に嗣業の土地を受け継いだからである。ただしギレアド地方は、他のマナセの子孫のものとなった。マナセの領域は、アシェル領からシケムに近いミクメタトに広がり、更に南に延び、ヤシブ・エン・タプアに至った。” ヨシュア記17:1-7
”マナセの子は、アラム人の側女が産んだアスリエル。また彼女はギレアドの父マキルを産んだ。マキルはフピムとシュピムのために嫁を迎えた。その姉妹の名はマアカであった。(マナセの)次男の名はツェロフハドと言い、ツェロフハドには娘たちがあった。マキルの妻マアカは男の子を産み、ペレシュと名付けた。その兄弟の名はシェレシュ、その子は、ウラム、レケム。ウラムの子は、ベダン。これらはマナセの孫でマキルの子であるギレアドの子孫である。その姉妹ハモレケトはイシュホド、アビエゼル、マフラを産んだ。シェミダの子は、アフヤン、シケム、リクヒ、アニアム。” 歴代誌上7:14-19

「マナセの次男の名は」のところは「マナセの」は原文にない補足で、おそらく「マキルの」と補足する方が自然に思える。ただツェロフハドは他の箇所ではマキル→ギレアド→ヘフェル→ツェロフハドという家系であるように見えるのでマナセの次男でもギレアドの次男でもないように見えるし、HSheNY(”第二の者”)の意味はよくわからない。しかもツェロフハドの名の語源は(「第一EChaDの破裂TsaRaPh」で「長子」を意味すると思われている)。


ヤロブアム王家に連なると思われる人物の名を洗い出すと以下のようになっている。〔〕内に同名の人物を列挙し、先行する重要人物を太字で示す。

(ヤロブアム朝)

ネバト ツェルア

ヤロブアム〔エフ―朝のヨアシュの子ヤロブアムと同名〕

アビヤ〔ベニヤミン族アナトトの兄弟アビヤ(歴上7:8)、レビ族サムエルの子アビヤ(サム上8:2)、レビ族で第八祭司団の祖アビヤ(歴上24:10)、ユダ族ソロモン王の孫アビヤ(ム)王(歴下11:22)、と同名〕

ナダブ〔ユダ族エラメルの曽孫ナダブ(歴上2:28)、レビ族アロンの長子ナダブ(民数記3:2)、ベニヤミン族キシュの子孫あるいは兄弟ナダブ(歴上8:30)と同名〕


(エフ―朝)

ニムシ

ヨシャパテ(列下9:2)〔部族不明の補佐官と代官と三十勇士(列上4:3,17, 歴上11:43)、レビ族でダビデの治世の祭司ヨシャパテ(歴上15:24)、ユダ族ヨシャパテ王(列上22:41)と同名〕

イエフ(エフー)〔シメオン族の時代不明の人物(歴上4:35)、ベニヤミン族アナトト人イエフ(歴上12:3)、おそらくレビ族の先見者ハナニの子イエフ(歴上25:4, 歴下16:7, 19:2)、ユダ族エラメルの子孫ナタンの子孫オベドの子イエフ(歴上2:38)と同名〕

ヨアハズ〔ユダ族のヨラムの子ヨアハズ(アハズヤ)王(歴下21:17)、ユダ族のヨシヤの子ヨアハズ王(歴下23:31)と同名〕

ヨアシュ〔ベニヤミン族アナトトの兄弟ヨアシュ(歴上7:8)、マナセ族アビエゼル人士師ギデオンの父ヨアシュ(士師6:11)、ベニヤミン族の戦士ヨアシュ(歴上12:3)、ユダ族のヨアシュ王(列下11:21)と同名〕

ヤロブアム〔エフラタ人ヤロブアム(1世)と同名〕

ゼカルヤ〔ルベン族の頭の一人と思われるゼカルヤ(歴上5:7)、ベニヤミン族キシュの子孫あるいは兄弟ゼカルヤ(歴上9:37)、レビ族の祭司ヨヤダの子ゼカルヤ(歴下24:20)、部族不明のヒゼキヤ王の母方の祖父(列下18:2)と同名、ダビデの治世から捕囚後にかけて祭司を含むレビ族に多く見られる名前〕


エフラタ人サムエルとエフラタ人ヤロブアムはアビヤという同名の子を持っており、エフラタ人エッサイの玄孫もアビヤの名を持っている。やはりこれらのエフラタ人たちは遠縁にあたるような気がする。おそらくこの名前の聖書に出てくる中で最も古い時代に登場するのはベニヤミン族の系図に登場するアビヤである。実際にはこの人物がいつの人物なのかよくわからないが、地名にもなっているアナトトという人物と併記されているということもあり、ヨシュアと共にカナンに入植した世代の人物ではないかと予想する。同じところに併記されている人物の中には、アビヤの他にヨアシュやオムリの名が見られる。

ベニヤミンの子は、ベラ、ベケル、エディアエルの三人。ベラの子は、エツボン、ウジ、ウジエル、エリモト、イリの五人。彼らは家系の長で、勇士であった。二万二千三十四人が登録されている。ベケルの子は、ゼミラ、ヨアシュ、エリエゼル、エルヨエナイ、オムリ、エレモト、アビヤアナトト、アレメト。彼らは皆ベケルの子である。二万二百人の勇士が彼らの家系の長として系図に登録されている。エディアエルの子は、ビルハン。ビルハンの子は、エウシュ、ビンヤミン、エフド、ケナアナ、ゼタン、タルシシュ、アヒシャハル。彼らは皆エディアエルの子孫で、家系の長であり、勇士であった。一万七千二百人の戦闘員がいた。シュピムとフピムはイルの子、フシムはアヘルの子。ナフタリの子は、ヤフツィエル、グニ、イエツェル、シャルム。彼らはビルハの子である。マナセの子は、アラム人の側女が産んだアスリエル。また彼女はギレアドの父マキルを産んだ。マキルはフピムとシュピムのために嫁を迎えた。その姉妹の名はマアカであった。マナセの次男の名はツェロフハドと言い、ツェロフハドには娘たちがあった。”歴代誌上7:7-15

南ユダ王と北イスラエル王のリストを比較して見ると、北イスラエルの数々の王朝のうち、ヤロブアム朝とオムリ朝とエフ―朝は南ユダ王の名前と同名の人物が多いため、これらの王朝とユダ王朝の間には姻戚関係か親戚関係があったと思われる。特に、上述のことから、ベニヤミン族を介した繋がりが想定される。また、接続が不明だが、フピムとシュピムというベニヤミン族の兄弟はマナセ族と繋がりがあるように見える。マナセ族のアビエゼル人ギデオンの父ヨアシュもベニヤミン族と縁戚と思われる。

ヤロブアム1世の居住・活動地域(ツェレダ・シェケム・ペヌエル・ティルツァ)は、エフライム領からマナセ領にかけて広がっている。一方同じエフラタ人であるサムエルの居住・活動地域(ラマタイム・ギレアド・ミツパ・ギベア)はエフライム領からベニヤミン領にかけて広がっており、比較するとヤロブアムの活動地域の方が大きく北に動いている(南北に分裂しベニヤミン領が南ユダ王国についたので当たり前だが)。ユダ族でありおそらくレビ人でもあるエフラタ人のうち、サムエルはベニヤミン族とより近縁な家系の出自で、ヤロブアム1世はマナセ族とより近縁な家系の出自ではないだろうかと想像した。

【ソロモン王家とヤロブアム】

ヤロブアムがソロモンの次代として南ユダ王国のレハブアムに対抗して即位したのは、シロの預言者アヒヤの預言に基づく。

”そのころ、ヤロブアムがエルサレムを出ると、シロの預言者アヒヤが道で彼に出会った。預言者は真新しい外套を着ていた。野には二人のほかだれもいなかった。アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。ただ一部族だけは、わが僕ダビデのゆえに、またわたしが全部族の中から選んだ都エルサレムのゆえにソロモンのものとする。わたしがこうするのは、彼がわたしを捨て、シドン人の女神アシュトレト、モアブの神ケモシュ、アンモン人の神ミルコムを伏し拝み、わたしの道を歩まず、わたしの目にかなう正しいことを行わず、父ダビデのようには、掟と法を守らなかったからである。しかし、わたしは彼の手から王国全部を奪いはしない。わたしの戒めと掟を守った、わたしの選んだ僕ダビデのゆえに、彼をその生涯にわたって君主としておく。わたしは彼の息子の手から王権を取り上げ、それを十部族と共にあなたに与える。彼の息子には一部族を与え、わたしの名を置くためにわたしが選んだ都エルサレムで、わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるようにする。だが、わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。こうしてわたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、いつまでもというわけではない。』」ソロモンはヤロブアムを殺そうとしたが、ヤロブアムは直ちにエジプトの王シシャクのもとに逃亡し、ソロモンが死ぬまで、エジプトにとどまった。”列王記上11:29-40

ソロモンがヤロブアムを殺そうとしたのが随分と唐突に思えるが、このエピソードの前にこのように述べられている。

”ネバトの子ヤロブアムはツェレダの出身でエフライムに属し、その母は名をツェルアといい、寡婦であった。彼はソロモンに仕えていたが、やがて王に対して反旗を翻した彼が王に反旗を翻すに至った事情は次のとおりである。ソロモンがミロを築き、父ダビデの町の破れをふさいでいたときのことである。このヤロブアムは有能な人物だったので、ソロモンはこの若者の働きぶりを見て、ヨセフ族の労役全体の監督に任命した。そのころ、ヤロブアムがエルサレムを出ると、”列王記上11:26-29

つまり預言者アヒヤによる預言があり、ヤロブアムの謀反があったので、ソロモンがヤロブアムを殺そうとしたのであろう。ヤロブアムはもともとソロモンのしもべ(Solomon's servant)であったとあり、ソロモン本人が働きぶりを見てヨセフ族の労役の監督に任命したとされる。

ヤロブアム本人はアヒヤの預言があるが、北イスラエルの民がすんなり彼を王としたのはそれなりの理由があると思われる。王の即位の際には以下ような流れがあったと記録されている。

”すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行った。ネバトの子ヤロブアムは、ソロモン王を避けて逃亡した先のエジプトにいて、このことを聞いたが、なおエジプトにとどまっていた。ヤロブアムを呼びに使いが送られて来たので、彼もイスラエルの全会衆と共に来て、レハブアムにこう言った。 「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」彼が、「行け、三日たってからまた来るがよい」と答えたので、民は立ち去った。列王記上12:1-5
”イスラエルのすべての人々は、王が耳を貸さないのを見て、王に言葉を返した。「ダビデの家に我々の受け継ぐ分が少しでもあろうか。エッサイの子と共にする嗣業はない。イスラエルよ、自分の天幕に帰れ。ダビデよ、今後自分の家のことは自分で見るがよい。」こうして、イスラエルの人々は自分の天幕に帰って行った。レハブアムは、ただユダの町々に住むイスラエル人に対してのみ王であり続けた。レハブアム王は労役の監督アドラムを遣わしたが、イスラエルのすべての人々は彼を石で打ち殺したため、レハブアム王は急いで戦車に乗り込み、エルサレムに逃げ帰った。このようにイスラエルはダビデの家に背き、今日に至っている。イスラエルのすべての人々はヤロブアムが帰ったことを聞き、人を遣わして彼を共同体に招き、王としてイスラエルのすべての人々の上に立てた。ユダ族のほかには、ダビデの家に従う者はなかった。”列王記上12:16-20

この流れを見ると、ヤロブアムはその即位において意外に受け身に見え、北イスラエルの民たちが積極的に彼を擁立したようにも見える。彼が王位を継承するある種の必然性が、アヒヤの預言以外にも存在したと思われる。彼の立場から推測すると、一つの理由は先代ソロモン王と近しかったということがあろう。ソロモンは王なので、民全員が臣民でありしもべであったかもしれないが、ヤロブアムはソロモン本人がその仕事ぶりを見たことで取り立てられていることから、ソロモンの「側付き」みたいなものであったかもしれない。しかも寡婦の子で若者であったことから考えると、読み込みすぎかもしれないが、ソロモンが親代わりのようになった可能性もあるかもしれない。現代で言えば、ある国会議員が引退して空席となった議席を、その議員の子と、その議員の秘書で争うようなものと似た構造が、ソロモンを子のレハブアムが継承するかヤロブアムが継承するかという争うにはあったかもしれない。

また重要なこととして、北イスラエルがユダ王家から離反した主な理由は、労働問題であったことがわかる。ヤロブアムはイスラエルの最大氏族であるヨセフ族の元労役監督者であり、労役の軽減を全イスラエルを代表してレハブアムに嘆願しており、イスラエルの民にとってヤロブアムは即位の前から既に、現代で言えば労働党の党首のような、労働者の立場を代弁してくれる存在として頼られていたのかもしれない。

【北イスラエル王国の祭儀】

モーセに率いられて荒野を移動していた間、神の箱と、その神殿の機能を果たす幕屋も共に移動しており、聖所、つまり人が神に礼拝を捧げる場所は一箇所に統合されていた。
移動式の生活では、もし独自の聖所をある部族が持ったとしても、祭器は引き継げるが場所は必然的に捨てていくことになる。荒野の四十年間は、神の箱の座の上に神が局在しているという神観と同時に、神と、場所や土地との間の切り離しが繰り返し行われ、逆説的に神の遍在可能性についても民は経験することになったと思う。

しかし十二部族が地理的に別れて暮らし始めた士師時代には、やはり聖所が複数乱立することになった。かつて神の箱があり、祭儀が行われた跡などが、神の箱が移動しても眼前に残り続けるなら、そこを聖所と扱いたくなる気持ちはわかる。

ソロモンの時代までに存在したことがあり、長く使われそうな雰囲気を感じる主な聖所は、逃れの町シケム(創12:6, ヨシュア21:21)、逃れの町ヘブロン(ヨシュア14:12-15, 21:13, 士師1:19, サム下6:2)(※逃れの町は聖別された町 ヨシュア20:7)、ベテルミツパ(士師1:22, 士師11:11, 20:26-28, 21:5, サム下6:2)、ダン(士師18:20)、オフラ(士師8:27)、シロ(ヨシュア18:1,6,8-10, サム下6:2)、ラマ(サム上9:7)、キリヤテ・エアリム(サム上7:1-2)、ギベオン(列上3:4)、エルサレム(サム下5:6-7, 6:12)などがある。

このうち、南から順に並べ替えると、ヘブロン、キリヤテ・エアリム、エルサレム、ミツパ、ギベオン、ラマはユダ領とベニヤミン領にあり南王国の領土であり、ベテルは北王国の最南部であり、オフラとシェケムは北王国の中央部、ダンは北王国の最北部になる。

ヤロブアムは結局、シェケムを王都としてそこに住み(列上12:25)、ベテルとダンに二体の金の子牛を設置して公的に宗教都市とした(12:28)。

ベテルとダンに金の子牛を設置したことがおそらく「ヤロブアムの罪」と呼ばれる事柄と思われる(列上12:28-30)。

金の子牛と言えばモーセが律法を授かりにシナイ山に籠っている間に人々が不安になって造った金の子牛の偶像の話を思い出す(出エジプト記32章)し、この物語のヤロブアムは明らかにそのエピソードを踏まえている(出エジ32:4, 列上12:28)。しかしヤロブアムは人々がエルサレム神殿に通ってしまうことを恐れて金の子牛像を造ったとあり(列上12:26-28)、エルサレム神殿に通ってしまうようなある種の信心深さを持っている人々が金の子牛に嫌悪感を持つという予測をしなかったことも、そのような反応が実際に見られなかったことも、少々不思議に思える。でも日本人みたいな精神性を思い出すと、伊勢神宮に崇拝したい人を足止めするために立派な仏教寺院を建てれば事足りるという感じも確かにする。

エルサレム神殿の特権性を否定したヤロブアムは、特定の一地点でしか神と繋がれない、という考え方を否定している意味で、少し開明的な面もある。

”イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。” ヨハネによる福音4:21

神は本当は場所に縛られていないし、全ての場所、ものに神は在る。

”われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。”使徒17:18

しかしまず旧約の長い期間をかけて神が教えたことは、神の不在の現実であり、「神を願望通り便利に使えるということがないこと」であったかもしれない。

神は自然、人間、歴史、書物、聖書などあらゆる被造物を通して十全に自身を現すことができる。「ここに神はいない、ここで神は働かない、ここは神に遠い」と人が決められる場所は被造世界には存在しない。金の子牛像のところにさえも、真なる神は確かにいるのだろう。しかしヤロブアムは自身の目の届く範囲、理解・管理可能な範囲に神を飼おうとした。私たちも、理解可能な範囲に神を無理に押し込めたり、便利な武器や麻薬として神を使役しようとするなら、それが偶像崇拝となるのであろう。神はいつも極限まで近くに在り、しかしいつも徹底的に手元に無い。手元にあるならば、それは既に私の造り上げた偽の神なのであろう。

”そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』” マタイによる福音25:35-40
"こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。" 使徒行伝 17:27-29

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