[メモ]「柴の篇」と「復活」がどう関連してるのかわからない…

"ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。"
出エジプト記 3:2-6

モーセのヤハウェとの出会いの場面。

モーセにとってこの体験はやはり重要で、死に際してヨセフ族を祝福する中でも「柴の中におられた者」を回顧している。

"地とそれに満ちる尊い賜物、しばの中におられた者の恵み(רצונ שכני סנה)が、ヨセフの頭に臨み、その兄弟たちの君たる者(נזיר , δοξασθεις)の頭の頂にくだるように。"
申命記 33:16

柴の中に「おられる(שכני)」方の「おられる」という語は、よく「シャカイナ・グローリー」と呼ばれる神の栄光の「顕現」「臨在」を表す「シャカイナ」と同根のようだ。

「君たる者」と訳されてる言葉「נזיר」は民数記6章で規定されているナジル人の「ナジル」と同根の言葉で、「取り分けられた者」「聖別された者」のような意味合いらしい。七十人訳は「δοξασθεις = 光栄を受けた者」と訳している。マタイの福音書はメシア預言として「彼はナザレ人と呼ばれる(2:23)」というどこから引用したか難解な引用をしているが、有力な一つの解釈としてナザレ人とナジル人をかけているというものがある。(もう一つは若枝(ネツェル)とかけているという説)

モーセは十二部族を祝福する際、自身の出身部族であるレビ族の他に、ヨセフ族(マナセ&エフライム)を特別祝福している。これはやはり、預言が未来的にどういう意味を持つのであれ、当時的にはエフライム族出身の後継者ヨシュアを念頭に置いているだろう。
「ヨセフの頭」たるヨシュアに「柴の中に住まわれる方の恵み」があるようにと願うのは、契約の代表者としてモーセ自身が選出された場面を思い起こして、契約を継承する人々の代表者ヨシュアにも同じ神の助けがあるように願っているように思える。

そしてこの祝福の通り、再び主の使いは、ヨシュアに現れる。

"ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。"
ヨシュア記 5:13-15

最後の発言から、この主の軍の司令官がモーセに現れた主の使いと同じであることが類推できる(とオリゲネスは言っている笑)。少なくともモーセ死没時点でモーセ五書に記述されてる内容が何らかの形でヨシュアらに継承されていないとモーセ五書は後代の創作ということになってしまうので、伝統的な時系列に立つならばヨシュアはモーセの柴の箇所の内容を当時知っていたはずで、この台詞にも聞き覚えがあったはずで、「柴の中に住まわる方」について思い起こしていたかもしれない。

この主の軍の司令官の指示で戦ったエリコでの戦いはまさに荒野の四十年の終わりと次の時代の始まりを象徴する出来事で、実際、第四十回過越の祭りを祝った直後、第一回初穂の祭りの頃(レビ23:10)に起こっている。
ヨシュアはこれ以前から活躍していたが、この時に正式に契約の代表者として「柴の中に住まわる方」と出会うことになった。

さて、「柴の箇所」から抽出すべき重要な要素として、イエスは「復活」をテーマに挙げている。

"死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている"
マルコによる福音書 12:26-27

"死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、これを示した。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」。"
ルカによる福音書 20:37-38

え…なんか言ってる意味がよくわからないけど、
とりあえず単純に解釈すると、
「アブラハム・イサク・ヤコブは当時既に肉体的には死んでいたのだが、それでも『アブラハムの神』という呼称を用いることによって、アブラハムは死んでいるわけではなく、実は生きていること、すなわち復活があるということ、を示している」ってこと?

なんか繋がりそうだけど繋がってない気もする。ちょっとパズルのピースの欠けを感じる。ここまでで揃ってるピースだけ確認して欠けたピース探しはまた今度にしよう…

[モーセと神の邂逅]
・燃え尽きない柴
・炎(神は「燃やし尽くす炎」らしいが…)
・主の使い
・「聖所で履物を脱げ」
・「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
・民の裁き手、救出者として神が任命(cf.ステファノの説教)

[モーセの祝福]
・「主はちよろずの聖者を率いて来る。」
・ヨセフの頭
・柴の中に臨在(=√シャカイナ)する方の好意
・ナジル、栄光を受けた者
・ヨセフ族の長ヨシュアを任命

[ヨシュアと神の邂逅]
・主の軍の司令官
・「聖所で履物を脱げ」
・過越祭(贖罪の予型)
・第一回(!)初穂の祭り(復活の予型)
・荒野からの脱出、約束の地への入植
・エリコの陥落、ラハブ(ボアズの母?)の救出

[福音書]
・ヨセフの長子ヨシュア(イエス)
・「彼はナザレ人と呼ばれる 」
・履物の紐を解くに値しないヨハネ
・天の声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(洗礼)
・モーセとエリヤが「栄光に包まれて」顕現(変貌山、ルカ9)
・天の声「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」(変貌)
・「エリヤは既に来た」
・「死人がよみがえることは、モーセも柴の篇で示した」
・「まだ栄光を受けていなかったので霊が降っていなかった」(ヨハネ7:39)
・「人の子が栄光を受ける時が来た。一粒の麦は〜」(ヨハネ12:23)
・天の声「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(ヨハネ12:28)
・「今や、人の子は栄光を受けた」(ヨハネ13:31)
・「神殿の垂れ幕が裂けた」

[使徒]
・聖霊が降る。炎のような舌。
・柴の篇ついてのステファノの説教…神殿が説教テーマか?
・「モーセのような預言者」の予告(「彼に聞け。」申命記)

[ユダの手紙・ヨハネの黙示録]
・エノクもこう預言しました。「主はちよろずの聖者を引き連れて来る」
・二人の証人は天を閉じ、水を血に変える

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