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写真をはじめたきっかけ : 知ってしまった快楽

Webマガジンに掲載するということで、インタビューを受けました。そのときのものを再構成したものです。今回はシャッターを切ったときの快感を覚えたころから表現者見習いへの道を歩みだしたきっかけについてのエピソードをまとめました。

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写真をはじめたきっかけ?

カメラのシャッターを切る快楽におぼれたとき、それが私を写真の世界に陶酔した瞬間でした。その快楽へのいざないは、私の住む時間軸との接点ができてすぐのころでした。

そして、カメラは私と写真をつなぐ快楽共犯者になっていくのです。

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家にあったポラロイドカメラ。

お母さんに寄りかかって甘えていた頃の話です。おもちゃ箱の中に、黒くて四角いポラロイドカメラが転がっていました。1cmくらいの長いシャッターボタンを奥まで押し込むと、カシャと小さな音がするレンズシャッターのカメラでした。直径5cmくらいのレンズの目測のピントがついいたのを覚えています。

私はそのカメラを私は得意そうに持ち歩きフィルムが入っていない状態でシャッターを切りまくっていたようです。私にとって人生初のカメラはこのカメラだったのです。そして、このカメラが物心つかないうちにシャッターを切る快感を教えてしまったのです。

最初の写真撮影。

私が4歳ころの話です。家族で旅行に出かけました。新潟県中部にある霊峰弥彦山の山頂ドライブインでの出来事です。この日、お父さんの首にはコニカの小さなカメラがありました。ダイヤルでピントを目測し、ISO設定以外はシャッター優先のものだったと思います。

家族3人でベンチで休憩していたときのことです。私はお父さんのカメラに興味深々でした。そして、初めての写真撮影の瞬間が訪れたのです。お父さんにお願いしてカメラを撮影できる状態にして貸してもらえたのです。

私の記憶にある人生初の写真は、峠道を登ってくるバイクを撮影したものでした。

私の脳内イメージでは、バイクを中心にかっこいい姿の写真ができる予定でした。しかし、出来上がった写真は、どこにバイクがいるのかわからないくらい小さく写っているという残念なものだったのを覚えています。

突然目覚めたジオラマ撮影。

私が7歳ころの話です。その時代は空前のガンプラ黎明期。そして、ドラゴンクエスト1が発売されたころです。

私は本屋さんで見かけたジオラマ撮影のムック本に魅了されました。 ジオラマとは情景模型のことです。この本にはガンダムをはじめキャラクタープラモデルを使って、様々なジオラマをアニメのシーンのように撮影する技術について書いてありました。

しかし、7歳の私。実現できるわけではありません。ただ、このとき写真を作り上げる楽しみを知ったのです。そして、それは一眼レフカメラに対しての憧れにつながります。


弟の幼稚園の運動会でカメラマンデビュー。

私が8歳ころの話です。当時幼稚園児だった弟の運動会でお父さんから専属カメラマンを拝命しました。私が予想した謝礼は「お父さんが大喜びでほめてくれる」というものでした。

そして、コニカの小さなカメラを持ってグランドの走り出したのです。数日後、現像プリントされた写真を見たお父さんに私は怒られました。

写真に写っていたのは、弟の姿ではなく知らない子供の写真ばかりだったのです。泥まみれになり、危険を顧みず、一生懸命に撮影した自信作でした。その写真に対して怒られたのです。そして、言われた言葉が、2度とカメラは触らせないというものでした。あのときの絶望感は今も覚えています。

学校行事などの写真撮影を依頼されたさい、必ずこのエピソードを思い出します。しかも、真っ赤な顔をして怒っているお父さんの顔だけを思い出します。冷静に考えれば、8歳の子供のおかした過ちです。正しく説明しなかったお父さんが悪いと今は思っています。

お父さんはなんであんなに怒ったのか?

つまり、お父さんは弟の写真を撮ってほしかっただけなのです。でも、私は運動会というイベントを撮りたいと思って撮ったのです。結局、お父さんからもらった謝礼は「忘れられない苦い思い出」でした。

 

はじめての一眼レフで惨敗。

私が10歳ころの話です。庭先の1.5平方メートルくらいの強大なジオラマを作りました。いろいろなプラモデルを組み合わせて闘いの後の廃墟的な荒野を再現しようとしたのです。しかし、それは造園予定の庭先の盛土の上でした。いつまでも放置できるわけでもありません。

そこで、私は以前からあたためていた一眼レフを使ったジオラマ撮影することにしました。お父さんに相談すると怒られると思った私は、何の予備知識もなくお父さんの一眼レフを持出し撮影を試みたのです。

カメラは往年の名機。オリンパスのOM-1Newでした。

私はなんとかフィルムを入れることはできました。そして望遠ズームをつけて撮影開始。夢中で撮りました。撮影してときの私の脳内完成図は完璧なものでした。そして、現像プリント。

出来上がってきたプリントは、ピンボケ、ブレブレ、超アンダー。撮影した本人すら何が写っているのかわからないほどでした。そのときのは私は、ピントの合わせ方、露出の合わせ方、ISOの設定。何も知りませんでした。

 

はじめての撮影旅行。

私が12歳ころの話です。私は小学生と中学生だけが参加できる北海道ツアーへ友達と参加しました。このときの記録写真がはじめての撮影旅行となりました。

一眼レフを持っていくことをお父さんに懇願したのですが、もちろんNG。コニカのカメラを持っていったのを覚えています。

大型フェリーでの船旅でした。日本海に沈む夕日の写真をたくさん撮影したのを覚えています。撮影したときの私の脳内完成図は感動の情景をばっちりとらえた素晴らしい出来でした。

しかし、単焦点レンズが着いた28㎜のコンパクトカメラ。出来上がった夕日の写真には小さな丸が海に浮かんでいるだけでした。

 

2度目の撮影旅行。

私が15歳ころの話です。私の住む新潟県長岡市の中学生は中学3年生の春に修学旅行に行きます。当時は京都・奈良への2泊3日が定番でした。私もそうでした。

当時の私は目立ちたいけど目立てない悲しい中学生でした。そこで、一眼レフなら目立つと思って、怒られるを覚悟でお父さんのカメラを勝手に持ち出しました。しかし、残念なことにあんまり操作が分からっていなかったのです。途中で同行したカメラマンに教えてもらったのを覚えています。

そして、修学旅行には少数のグループで行動するワークがあります。そこでは私が記録担当に立候補しました。普段目立たない私が目立つチャンスです。

しかし、後日、このときの写真は思いっきり不評をだったのです。

 

8歳のころのトラウマ再び。

再び、同じ過ちを繰り返しました。当時の私はなぜ不評なのかわかりませんでした。年齢を重ね、他人の旅行写真をたくさんみることその理由に気が付いたのです。

一般的な旅行写真の重要な要素は2つ。

  1. 自分がその場所に実際に行ったという証拠写真。その場と自分が写っていることが重要。

  2. 特別な情景の記録。

私が修学旅行で撮影した写真の多くはどちらでもありませんでした。つまり、記録係としての役目を果たせていなかったのです。弟の幼稚園の運動会と一緒です。私に残されたのは自己満足だけでした。

しかし、その自己満足写真が新しい扉を開いたのです。

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表現者見習いへの道へ。


修学旅行の記録写真を通して私が学んだこと。それは2つ。

  1. 私の撮りたいものが一般的な考え方の中にない独自なものだった。

  2. ファインダーの中の絵作りの面白さ。

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私の撮りたかった就学旅行。

私は就学旅行の記録を自分の撮りたいものを撮れる遊び場と勘違いしていました。修学旅行を理由にした勝手ワガママな撮影旅行だと思っていたのです。

これでは、不評を買って当然のことです。

しかし、私はこのエピソードのあと、本格的に写真をはじめたのです。それは撮りたいものを撮れる快楽とそれを表現できる武器を手に入れたことに対する喜びがあったからです。

 

小さい頃の一番の遊び道具は白い紙。

いつ頃の記憶なのかわかりません。弟が存在しない記憶なの3~4歳ころだと思います。看護師だったお母さんは、たまにある休みに私と近くの河川敷に写生を楽しむために一緒に出掛けるような人でした。私にはその記憶が鮮明にあるのです。

最初は退屈で仕方ありませんでした。でも、次第に私も絵を書くことが好きになりました。理由は簡単です。絵を書くとたくさんほめてもらえたからです。私はただただ褒めらえたい一心で絵を書いていたのかもしれません。そのような創作活動はしだいにいろいろなものに派生しました。ノートに小説を書いたことのありました。版画や習字も好きになりました。

でも、年齢があがると白い紙に絵を書くのが苦手になりました。今にして思い返せば、絵画空間でおぼれているような感覚です。自分の中のイメージが白いキャンバスに合わない気がしてきたのです。

そして、次第に自分の心を満たしてくれる表現手段を探しはじめたのです。

 

京都・奈良で撮りたかったもの。

私が義務教育の過程で学んだ日本の歴史において、京都・奈良とは古来の歴史の中心地という位置づけでした。そんな街を訪れるにあたり、私が撮りたかったのは歴史という時間です。

私の学んだ歴史と私の生きる時間軸において、京都・奈良は私が生まれるずっと前から存在した都です。現在までに想像もつかない時間、実際にそこには時間が流れていたのです。

私はその時間を撮りたかったのです。

 

ファインダーの中の絵作り。

デジタルカメラ全盛の時代になり、写真はフィルムカメラ全盛のころと別のベクトルのものとなりました。その中で、ファインダーの持つ意味も変化してきました。

本文のこの時代はまだフィルムカメラ全盛の時代です。私はその時代の中で、ファインダーの中で現実をカスタマイズする楽しさを知ったのです。

それはファインダー越しの現実を脳内でカスタマイズしたものをカメラとテクニックを駆使して写真に定着するという作業です。

私はこの作業には夢中になったのです。しかし、この作業に没頭している限り、次のステップに進むことはできません。私がそのことを知るには、まだまだ時間がかかりました。

 

私はこのエピソードの後、写真を使った表現者見習いとなったのです。私が15歳のころの話です。

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しかし、この頃思っていた写真表現とは、白い紙に勝手ワガママな絵を書けるだけのことでした。その先に進むまでのエピソードを次に書きたいと思います。


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なんと独りよがりな文章だと笑われるでしょう。でも、それが私です。ほかの歩き方はできません。面白い人間だと思ったかた、是非、ご支援ください。