さようなら、マギー

 時は19世紀、ロンドン郊外。沈みかけた月の明かりが、レンガ造りの街並みをかろうじて照らしている。
 すっかり人気のなくなった大通り、そこから少し入った路地裏に、月明かりを避けるように走っていく人影があった。時に物陰に隠れ、時に屋根を渡り…人目を避けた移動には随分慣れているようだ。影はしばらく進んだ後、とあるフラッツ(当時のイギリスによく見られた、レンガ造りの庶民のアパート)の前で立ち止まった。
 フラッツの2階では、やせ細った老婦が一人、ベッドで眠っている。顔から血の気は失せ、息は弱く、すでに死の淵に近づいている様子だった。そんな彼女の部屋の窓から、先ほどの影が顔を覗かせる。影は、足音を消して侵入し――2階だというのに、梯子も使わずどうやって入ってきたのだろうか――ベッドに近づき、ベッドサイドに手を伸ばし……そこにあった一輪差しに、可愛らしい野花を一本生けた。
「…………デイビッド」
 突然、しわがれた声がして、影──デイビッドと呼ばれた青年は、ベッドを振り返った。
「……マギー。起こしちまったか」
「デイビッド、顔を見せて…」
 老婦…マギーは、デイビッドの声がした方へ、皺だらけの手を差し伸ばす。デイビッドは、優しく、少し寂しそうに「ああ」と返事をして、その手を取った。ベッドの隣に屈み、彼女の強張った手を自分の頬に添える。
「…私、もう…長くないみたいなの」
「……そうみたいだな」
 デイビッドは穏やかな声で答えた。
「だから…最期に会えて良かったわ、“兄さん”」
 兄さん、と呼ばれたら、胸がずきんと痛む心地がして…デイビッドは思わず、マギーの手をぎゅうっと握った。
「皆……あっという間にいなくなっちまうな…」
「兄さんからすれば…そう感じるのかもしれないわね…」
 マギーは話す体力もほとんど残っていないのだろう。ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そうだな……俺の時間は、…永い」
「でも、私…間違ってなかったと…思うわ」
 マギーはそう言って微笑み、デイビッドの顔をしっかりと見た。
「兄さんが…吸血鬼になるって…決めたこと」
 マギーの目には、とがった耳にとがった牙、人間から外れた青白い肌をした吸血鬼が――デイビッド兄さんが、今にも泣きそうな顔をしているのが映っていた。

 この夜から何十年も前、デイビッドはロンドンに生まれた。5人兄弟の長男で、面倒見が良く、女癖が悪いのが玉に瑕だったが…家族や友人に愛され、人望もあった。
 当時のイギリスは産業革命の真っただ中で、各地で工場が隆盛を極めていた。デイビッドもその波に乗り、工場に勤務していたが、25歳の時、不治の病に倒れた。
 日々喀血を繰り返しながら、考えるのは家族のことばかり。父親は若くして他界していた。ここで自分も死んだら、家に稼ぎ手がいなくなってしまう。そんな中で、偶然にも出会った“とある吸血鬼”に血を分けてもらい――不老不死の体を手に入れたというわけだ。
 怪我も病も恐れずに済む最強の肉体、しかし代償はあった。愛する人たちの死を、必ず経験しなければならないということだった。まず母親、尊敬する先輩に友人、そして兄弟。マギーことマルガリータは、家の中で一番下の妹であり、デイビッドの最後の家族であった。

「…じゃあ、俺はもう行くぜ」
 デイビッドは、マギーに背を向け、窓の淵に手をかけた。
「“あっち”に行ったら…親父たちによろしく伝えておいてくれ」
「兄さん……、死ぬとき…兄さんが傍にいないのは…寂しいわ」
 掠れた声が、デイビッドを引き留める。
「……いくつになっても甘えん坊だな、マギー」
 振り返り、マギーの白髪頭を優しく撫でた。
「お前の死に際に俺が居合わせてみろ――あのバアさん、吸血鬼と縁があったのかッ!?いや吸血鬼に殺されたんだ~ッ!!…ってな。街中大騒ぎになるぜ」
 芝居じみた口調でおどけて見せる吸血鬼は、マギーにとって最後まで、自慢の兄であった。
「ふふっ、そうね…、………さようなら、兄さん」
「………ああ」
 ぶっきらぼうに、振り返りもせず返事をした。最後に見せるのが泣き顔では、兄として格好がつかないから。
 吸血鬼はそのまま、2階の窓から、姿を消した。
 彼が人間としての名前を捨て、キュラソーと名乗るより、ずっとずっと前の話である。

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