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“効率”の着眼点

ひと言で“効率”と言っても、
どの資本に着目するかによって意味合いが全然違ってくる。

ソーヤー海さんが提唱している上記の記事によると、
イーサン・ローランド(Ethan Roland)とグレゴリー・ランヅア(Gregory Landua)のふたりが考えた、
1. 金融資本 お金、通貨、株: 僕たちの社会ではものすごくパワーがある
2. 社会資本 人とのつながり、影響力: 人と接している限りものすごく重要
3. 物質的資本 石、鉄、木、化石燃料、道具、建物、社会のインフラの原料
4. 生命資本 水、土、動植物、菌類: パーマカルチャーはこれに特化
5. 知的資本 (自分やほかの人の)アイデアや知識、科学など
6. 経験資本 体験を通していろいろなことができるようになること
7. 精神的資本 自分より大きな「何か」を信じることから生まれる力
8. 文化資本 歴史のなかで積み上げられてきた伝統など(食文化、民謡、お祭り)
という、8種類の資本概念が提唱されていて、
彼らは「この捉え方はすべてを網羅しているわけではない」と言っている。

そこで、ソーヤー海さんは、9つ目の資本として“余裕資本”を付け加えた。
以下、再び上記の記事から引用する。

これは例えば、「時間がある」とか「心の余裕がある」とか。資本主義のスピードに追われて恐れや不安を抱えていたら、自分を見つめることも人を助けることもできなくなる。

https://greenz.jp/2020/08/03/sawyer_kai_nine_capital/

だけど、余裕資本があるだけでいろいろなことが可能になるし、余裕があるとほかの資源も活かせるよね。それに、ほかの資源は“あるもの”だけど、実は“ないもの”もすごく資源なんじゃないかな。例えば、何も予定がない自由な日とか。

https://greenz.jp/2020/08/03/sawyer_kai_nine_capital/

イーサンによると、ビジネス界にもパーマカルチャーの世界観を広げるために”資本”という表現を使っているそうなんだけど、気をつけたいのは、“資本”なら何でも商品=お金に換えられると思いがちなんだけど、そういうわけではないこと。

https://greenz.jp/2020/08/03/sawyer_kai_nine_capital/

そもそも“資本”って、「お金や、そのほかの価値のある資源」という意味なんだって。みんなにとって、「そのほかの価値のある資源」って、どんなものがある?

https://greenz.jp/2020/08/03/sawyer_kai_nine_capital/

つまり、現代社会は“金融資本”に特化した運用が進められているけれども、
それは現実における一部分でしかなく、当然ながら、人生における価値のすべてが“金融資本”で決まるわけではない、という話。

これは決して新しい突飛な考えかたではないと思う。
冒頭の話に戻すと、
どの資本に着目しながら“効率”を考えるか、ということは人それぞれ違う。
言い換えれば、人それぞれ、その人が重視している資本に着目しながら“効率”を考えているのではないか、と思える。

何を重視するかは人それぞれだ。
全員が全員、お金のために生きているのではないし、最終的な価値をそこに見出しているわけではない。
にも関わらず、多くの事柄が「お金に換算して」価値が測られている場合が多い。
この感覚は、「まずお金(=金融資本)が基準」という捉え方に相当するのではないかと思う。
実際、日々の暮らしのなかで、現代資本主義社会の構造は、
あらゆる価値を金融資本に換算しながら日々運用されている。

食糧(=生命資本)にも値段が付いているし、
ありとあらゆる道具(=物質的資本)にも値段が付いている。
どの会社に入れば、いくらの収入が入る(=社会資本)と考えるし、
発明には特許権があり、知的財産(=知的資本)として使用料が発生する。
最近よく見る体験型アトラクション(=経験資本)、
宗教的な献金(=精神的資本)、博物館の収蔵品に付けられる鑑定金額(=文化資本)。
すべて、金融資本に置き換えて数値的に処理されている。
労働時間の提供は、すなわち「余裕資本」の提供に他ならない。

AIの急激な発展に伴い、人々が「余裕資本」を提供する必要がなくなってくる。
最近の経済学者や評論家が、よく指摘しているテーマである。
そうなると社会が困るのは何故か。
現代社会における資本主義経済が、多くの場合、
人々の労働時間に対価が支払われる形で流通する金融資本のネットワークによって成り立っているからに他ならない。

ちょうど、オール家電の生活環境に似ている。
電気が止まると、水道やガスが通っていても湯を沸かすこともできなくなる生活。
この脆弱性は、東日本大震災の時に社会的に認識され、現在ではガスが見直されている。
しかし、単純にガスを見直せばいい、という話ではないと思う。
世の中にエネルギー資源はたくさんあり(例えば太陽エネルギー、水車のような位置エネルギー、発酵などの化学エネルギー)、
うまく活用すれば、ほとんどの場合で電気エネルギーよりもエネルギー効率(余分な熱エネルギー損失を出さずに仕事をこなす効率)が優れているのだ。

同じことが、お金についても言える。
お金を電気に置き換えて考えてみれば、すぐにわかる。
何もかもをお金に依存していたら、その社会の脆弱性が高まるのは自明のことだ。
経営の世界でもリスクヘッジの重要性が説かれているが、
これは社会の運営でも同じである。

会社経営と社会の運営の違うところは、
特定の責任者が割り当てられていない点。
だから、誰も責任を負いたがらない、というか、自分のこととして感じられない。
社会の運営を自分のこととして感じられなくしているのも、
まるですべての事象を金融資本に換算できるかのように振る舞っている、現代資本主義社会の構造そのものによる錯覚から生じている。

周りのほとんどの人がその錯覚を錯覚と思うことすらなく生きている中では、
なかなかこのことは指摘しづらい。
ちょうど、地動説を唱えたガリレオが裁判で激しく糾弾されたように、
世の中に浸透している一般常識と大きく異なる指摘をすることは、
指摘する本人にとって多大なリスクとなる。
だから言えないだけで、
実は、もう既に多くの人たちが気付いているのではないか。
あとは勇気を出して意見表明するだけなのではないか。

選挙だけが投票でない。
日常生活をどのように過ごすか、ということそれ自体が、
9つの資本のどれをどのように重視していくか、という投票行為に他ならない。
世の中、急には変わりません(急に変わった時代もありましたが、大抵、大恐慌になってしまいました)。
そもそも私を含め人間は、大きな変化を嫌います。
少しずつで構いません。
むしろ少しずつのほうがいいと思っています。

たとえ少しずつでも、その日々の行動が共振していけば、
程なくして大きな力になるでしょう。
私は占い師でも預言者でもありません(笑)。
「共振」というのは物理学の用語で、
現実世界の至る所で起きています。
大きな出来事の大半は「共振」によって発現している、と言っても過言ではありません。

動きが小さい間は、誰にも観測されません。
それどころか物理現象として表面化することさえありません。
しかし、少しずつでも熱を加えられた水がやがて沸騰するように(これは「共振」とは違いますが)、
一定の時間「共振」すると程なくして爆発的なエネルギーを生じることが知られています。

多様性の世の中です。
どのような価値観が「共振」するか、予想もできません。
それでも、多様だからこそ、「共振」の場の可能性は増しています。
今後どのような資本がどのような組み合わせで共振していくのか、
今から楽しみです。

あなたは、“効率”を考える時、どのような資本に着目していますか?

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