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時は流れて現在の私 4

一番よく思い出す昔の光景、小学校時代と中学校時代。次によく思い出す昔の光景、2~3歳の頃から小学校に入るまで。このころの記憶って、考えてみれば、あまり世間に毒されていない頃の記憶。つまり、あまり嫌な思いに捉われていない頃の記憶。少ない言葉で言うなら、純粋だったころの記憶。

この世に生を受けてから、最初のうちは、そうそう嫌じゃなかったようだ。だんだん嫌になっていったみたいだ。この世は私が生きるには適していないのか? そりゃあそうだ、全然適していない。だって今、生きていて楽しくない。嫌なことだらけ。わずかで微かな楽しみを糧に、やっと耐えている。

シンジ君を思い出す。「嫌なことから逃げ出して、何が悪いんだよ~!!」その通り、逃げ出したい。そして事実、可能な限り、嫌なことから逃げ出す方法を探し、逃げ出す実践をし、嫌なことに遭遇しない方法を模索してきたし、嫌なことを、何とか他人に押し付けて回避する選択をしてきた。

他人に押し付けて回避? これは可能な限りやってきた。誰かがそれを引き受ければ、自分は嫌な思いをせずに済む、これ、真実。だがどうしても回避できない場合もある。その場合は、仕方なく自分が引き受ける。だがその場合も「誰かが引き受けなければ」などという心にもない大嘘は言わない。

こんな人間が、この世に生きるのに、適しているはずもなく、世の中を嫌悪しながら生きてきたし、この姿勢は今後も死ぬまで変わらないだろう。もっとも、あとそうそう長く生きることはないと思うが(笑)。いや、今のところ特に内蔵の病気とか、コロナとかに罹っているわけではありません。

長く生きられないと思う理由は二つあり、一つは単純に年寄りだから(笑)。満63歳です。これだけで、死んでいてもおかしくない理由になります。もう一つは、63歳だから、身体のあちこちが故障しています。それも、多くの人がまだ故障しないような器官の故障が、人より早く始まっています。

これはおそらく、中年時代に無理をしたせいと思われます。多くの人が63才ならば残っているはずの部分が、物理的に摩耗したり、消滅したりしてるんです。膝とか足とか股関節とか。あとは眼。治療は受けていますが、これ、かなり不安です。明日も眼医者に行きます。うわあどうなるんだろう。

身体の故障の事も気になりますが、だからこそ音楽をやる身としては、フルアルバムを3枚残してから死にたいなと。つまりあと2枚作り終えるまでは続けたいなと。アルバム2枚って、DTM得意な人にはなんて事のない量かもしれませんが、私にとっては大変。1枚目に2年かかった人ですから。

というわけで、否応なく死を意識しながら生きている今日この頃。だからなんでしょうか、思い出の映像が頭をよぎることが多くなり、それがつまり、2~3歳から小学校入るまで、そして、小学校時代と中学校時代です。純粋だったころの思い出が頭をよぎるなんて、やはり死が近いのかな(笑)。

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一番よく思い出すのは、小学校時代と中学校時代ですが、話を進めやすくするために、最初の記憶である2~3歳の頃の光景、情景から、順を追って、お話しさせてください。では参ります。当然ですが、誕生の瞬間の記憶はありません(笑)。誕生後1~2年の記憶もありません。当然ですね(笑)。

私の最古の記憶は、朧気ではありますが、生まれた時に住んでいた家です。生まれたのは、親からの話で、渋谷の日赤病院と知っています。そして、住んでいたのは、住所でいうと南青山。今聞くと大変カッコイイ住所ですが、当時の南青山がどんなだったか、おぼろげな記憶があります。

昭和33年です。今の若者の皆さん(私にとっては、昭和40年以降に生まれた方は皆、若者です(笑))には想像できないでしょうが、戦争が終結したのは昭和20年です。ボロクソに負けて、東京は大空襲され焼野原でした。大空襲って、焼夷弾を雨あられとばらまかれるんです。凄いんです。

焼夷弾とは今で言うナパーム弾です。ゲル状ガソリンをブン撒く爆弾です。それ以上は、あまりに悲惨な表現になるのでここまでにします。あ、私、兵器にはそれなりに詳しいです。特に航空兵器は詳しいです。趣味です。まあそんなわけで、焼け野原の13年後の東京で生まれたんです、私。

だから、南青山に限らず、当時の東京は、焼夷弾が落ちた場所は、13年経っても、戦争の跡がそこかしこに残り、瓦礫の山もありましたし、私が生を受けた家など(誕生の瞬間はさすがに病院でしたが)あんなのは家とは言いませんよ家とは。倉庫ですよ倉庫、戦時中の倉庫だか弾薬庫だったんです。

それに、申し訳程度の仕切りを作って長屋のようにした場所でして、中央の廊下の両側に、居住室がありましたが、中央廊下には照明もなく、昼でも真っ暗でした。居住室に、一応畳はありましたが、ただの箱ですよ箱。建物全体の端っこに共同トイレ(もちろん非水洗)があり、当然風呂なし。

お風呂は、近所のお風呂屋さんに歩いていきます。夏は帰り道で汗かいちゃうし、冬は帰るまでに冷え切っちゃいます。でも、それ以外の生活を知らないわけだから、疑問も持ちませんでした。ほぼ生まれたてだし。その倉庫の前には、瓦礫の空き地、コンクリートの破片が散乱してました。

その瓦礫の空き地が子供たちの遊び場だったようです。私はあまりに小さかったため、他の年長の子供たちが遊んでいるのを見るだけだったような気もします。居住室は一家族一部屋、昭和33年頃です。テレビなし、ラジオなし、冷蔵庫なし、今思うと、一体どうやって生活してたんでしょうね。

これが私の生家です。結構鮮明に覚えているものですね。よほど印象的だったんでしょうか。今青山とかいうとカッコイイ印象ですが、当時はこんなんだったんです。子供たちは瓦礫の空き地で遊び、倉庫を仕切っただけの、風呂もトイレもない一部屋の居住室に一家族が住む。これが当時の青山です。

現在の私の脳内には、以上のような映像がたくさん流れます。その後、中学を卒業するまでの映像も流れます。今日は、生まれた場所についてのお話だけで終わってしましました。この続きは「現在の私 5」で、また、お会いしましょう、では。

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