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三枝成彰先生とのお仕事。プロの仕事の厳しさを知る。

良い経験、よい思い出となった仕事です。プロの仕事が、どのくらい大変なものであるかを思い知った日々でした。三枝先生から感じ取れたことは本当に貴重な貴重な体験でした。この記事は音楽をしようとする人たちへの何らかの指針となってくれれば嬉しいです。

確か1988年頃だったと思います。三枝成彰先生の新作発表が、埼玉県の二つの会場で催されることになりました。曲は「川よ とわに美しく2」。混声合唱、管弦楽、ピアノ、シンセサイザーという大規模で不思議な編成。私は最初、シンセサイザー奏者として依頼を受けました。

これの更に数年前、「川よ とわに美しく」という、2の前の1にあたる曲の、やはりシンセサイザー奏者としての演奏経験があったためか、この「2」でも、奏者としての依頼が来たのでした。この曲も合唱曲ですが、この時は男声合唱とピアノとシンセサイザーでした。

「2」は編成が大型でした。管弦楽は日フィル、指揮は大友直人先生。合唱は埼玉合唱団という名の人数の多い合唱団でした。ピアニストがいて、その他にシンセサイザー奏者を必要としました。演奏を頼まれたのは、本番の1カ月ほど前だったと思います。

充分な時間の余裕がなかったため、一生懸命音色つくりと練習に励み、本番やリハーサルに備えました。その曲は、当時まだ新しく作られたばかりの、ポリフォニックシンセサイザーを必要とする曲で・・1980年代はまだ、シンセサイザーと言えば、単音しか出ないシンセが主流だった時代です。

デジタルシンセもまだまだ珍しい時代でした。私はこの曲の演奏の為に、従来型のアナログシンセ1台と、最新型のデジタルシンセを3台用意し、この曲の演奏に備えました。そして最初のリハの直前、本番の2週間前になって信じられない連絡が入りました。

「すみません、言いにくいんですが、ピアニストが行方不明になっちゃったんです」・・・「はぁ?」と思った。「あなた、ピアノも弾けますよね? シンセと同時に、ピアノ弾いてくれませんか? あ、いやいやピアノと同時に弾けるように、三枝先生に書いていただきますので」ときた。

「はぁぁ??何それ??」である。原因は知らないがとにかくピアニストがバックレたのです。そして新しいピアニストを探すのなら話はまだ判りますが、私にピアノも同時に弾けというのです。今、シンセパートの練習だけでヒイヒイ言っているこの私に、ピアノも弾け?

今の私だったら、2週間で、20分の合唱曲のピアノパート、何とかなるか、と引き受けたかもしれません。しかしこの時はまだピアニストとしては、ペーペーの私です。寒気がして鳥肌が立ちました。しかし電話の向こうのマネージャーも困っている様子で、とても断れる空気感ではありません。

三枝成彰先生の新曲発表、オケは日フィル、指揮は大友直人先生。物凄いチャンス!もう一生、こんな機会はないかもしれない。いや、これ断ったら、もう2度とこんなチャンス巡り合えないだろうと思いました。「やります」と言ってしまいました。そしてその瞬間から地獄の2週間の始まり。

どんな譜面が、どのように送られてきたかは、実は記憶が定かでないです。とにかく送られてきた譜面を片っ端から練習して頭に入れていく作業です。必死を通り越して、顔面蒼白、他の事は何も考えることのできない2週間でした。譜面を見ながら弾くなんてことができる速度ではありませんでした。

シンセパートは完全に暗譜。そもそも所狭しと4台も並んだシンセスタンドの傍に譜面台を置く余地なんてありません。さすがにピアノの譜面台には、譜面を置きましたが、もともと初見の不得意な私です。見ながら弾くなんて器用なことできません。基本暗譜。心理的安定のため置いてあるだけです。

大友直人指揮の日フィル、これだけでもう凄いプレッシャーでした。こんな人たちと一緒に演奏できる喜びも大きいですが、有名人です。ミスなんて許されるはずもありません。ミスした途端に、次からの仕事はなくなるでしょう。「あいつ、使えない」と思われて。

できる限界まで準備して、最初のリハーサルの日を迎えました。日フィル。コンマスが怖くて怖くて・・なんか私を睨むんです。なんか恨みでもあるかのように。怖かった・・。三枝先生を生で見ました。リハが始まりました。三枝先生は、指揮者の横で大きな机で一心に何かを書いていました。

リハの音を聴きながら、その場で音を修正していたのでした。それはリハの最後まで続きました。私は必死でした。ピアノとシンセをアクロバティックに同時に弾くのです。何とか演奏をこなすのが精一杯。そして突然三枝先生が、私に向かってタッタッタッと駆け寄ってきました。

「柔らかい弦の音、欲しいんだけど・・・」こう聞いてくるので、シンセで一番柔らかい弦の音を呼び出して弾いて「いかがでしょう?」返答は本当にドキドキしましたが「うん、いいね」と言ってもらえてホッとしました。そしてまた三枝先生は、机に戻って一心に書き始めるのでした。

その日の帰りがけだったと思います。マネージャーが「明後日の最終リハは、この譜面でお願いします」ときた。「はぁっ??」と声を出しそうになりましたが「はい」と発音しました。オケのメンバーにも同様に譜面を渡しています。三枝先生は、ほぼ全パートをリハ中に書き直していたのでした。

また練習と暗譜のやり直し。明後日のリハまでに? うわあ、死ぬ・・・。すぐに明後日の最終リハの日になりました。リハは前回と同様に進みます。今度は三枝先生は私に走り寄りません。何とか事故なく最終リハが終わりました。そして次の日は本番。本当の地獄は、本番の日に起こったのです。

本番の日、ゲネプロが終わり、あとは本番を迎えるだけの状況になった時、マネージャーが来てこう言いました。「本番はこの譜面でお願いします」と。「はぁぁぁ???」いや、もう最終のゲネプロ終わってるんですけど、と言いそうになりました。しかし「はい」としか言えませんでした。

ゲネプロの最中も、三枝先生は譜面を書き直していたのでした。そして奏者は、それを練習なく本番で、初見で弾けなければいけないのでした。オケのメンバーたちは平然としていました。きっと日常茶飯なのでしょう。私はそんなの初めてでした。練習時間はもうなし。本番で初見。うわあぁぁ・・・

本番が始まりました。何をどうしたのか、どんな演奏をしたのか、正直言って覚えてないです。終演後、別に非難されなかったので、きっと何とかこなせたのだろうと思います。そして思いました。ああ、プロの人たちというのは、毎日がこういうんだと。厳しい、本当に厳しい日々です。

今日はここまでにします。前回記事から少し間が開きましたが、今他の事で少し忙しいので、あと少し、このようなペースでご勘弁ください。実はこの「川よ とわに美しく2」は、あと一回公演がありました。次の記事はこの2回目の公演と大友直人先生のお話です。お楽しみに。


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