見出し画像

時は流れて現在の私 5

現在の私 4では、私の生家のお話をしました。よく伝記などで紹介される偉人の生家などは、何か、どこか、カッコよく、威厳を感じさせるものですが、私の生家は、そんな様子は皆無でしたね。寂しいですが、これが事実なので仕方ありません。戦争の爪痕の残る、瓦礫の広場の倉庫跡でした。

そんな南青山で2年余りを過ごしたはずです。そして引っ越しました。引っ越し先は、杉並区和田本町、立正佼成会の普門館のすぐ近くでした。当時の普門館は、何ともエキゾチックな形をしていて、強烈な印象の建物でした。家から毎日見上げていました。

和田本町での記憶は、普門館の他には一つしか覚えていません。ある日私は、何を血迷ったか、姿勢を低くして、家の中から窓に向かって突進し、薄い摺りガラスの窓を頭頂部で突き破って顔を窓の外に出したんです。当然、ガラスは粉々、私は泣きわめいて窓から首を抜いたのです。馬鹿ですね(笑)

その前後の記憶はありません。結局何をしたかったのか判りません。まあ子供は時々意味不明の事をやらかしますが、その時の行動原因、本当にわかりません。突き破る前後数秒の記憶だけが、何故か残っています。行動原因がわからないのは、テレビやラジオの影響ではないってのもあります。だって

我が家は、テレビなし、ラジオなし、冷蔵庫なしだったんですもの。故に、テレビのヒーローものの真似をしたかったなんてこともあり得ません。本当に、一体何をしたかったんでしょうね。ただ一つ確実なのは、バカだったってことでしょうか(笑)。ちいと話、面白く変えますね。冷蔵庫なしの話。

今の若者たち(昭和40年以降生まれは、皆、若者です!)には想像もできないでしょうが。いいですかぁ、テレビラジオはおろか、冷蔵庫もないんですよ! 冷蔵庫なしで生きていかなくちゃならないんですよ! わかります??? いやあ、これは、経験してみないとわからないでしょうね。

夏になっても、アイスはもちろん、冷たいジュースもヨーグルトもプリンもないんですよ! もちろん自販機なんてものは、当時世の中に存在しません。何か買いたければ、お店に行って「おばちゃん、これ!」と言って、買い求めるのです。昭和30年代とは、そういう時代です。

でも、冷蔵庫なんて未知の怪物は、見たことも聞いたこともないし、ほとんどどこの家庭にもなかったから、冷蔵庫がない生活に疑問や不満を持ちようがないです。知らないんだから。そういえば、冷たい飲み物なんて、夏でもほとんど記憶がありません。「ラムネ」という飲み物だけかすかな記憶が。

「ラムネ」という、名称がハイカラな響きの飲み物は確かに存在していました。ところがその当時の私は、駄菓子屋に通って飲み物を買うという習慣がありませんでした。駄菓子屋という名称の店屋は知っていましたし、行った事だってあるし、買い物だってしましたよ。私だって当時のガキですから。

でも私が駄菓子屋に行く目的は、当時「ブロマイド」と呼んでいた、当時のアニメの一画面を求めるためでした。私はいつも、小遣いが少々あると、駄菓子屋に行き、サイボーグ009のブロマイドを1枚買っては大興奮して、恍惚とそれを眺め続けていたものです(う~~む、ほぼ変態ですね(笑))

ラムネには見向きもしませんでした(う~~む、不健全)。当時の小学校の運動会では必ずと言っていいほど「ラムネ飲み競争」というのがあり、私はそのラムネ飲み競争に、一度出た記憶があります。そして飲み方を知らない私は、どうやっても飲めずに、ビリになり、大恥をかきました。

後年大人になって40も過ぎたころ、やっとラムネの飲み方を知りました。アニメ「ラーゼフォン」で、神名綾人君が、飲み方を紫東恵ちゃんに教えている図を見て、ようやくの見方を解明したのでした(笑)。その後はラムネをの見方が判ったのが嬉しくて、よく買うようになりました。

杉並区和田本町のその家の記憶は、やや乏しいです。風呂屋トイレをどうしていたのかも、記憶にありません。冷蔵庫がなかったのは確かです。何故なら、次の引っ越し先で、我が家にとって、冷蔵庫の前身と言うべき物体が登場しますので。

画像1

そして次の住まいは、生家から数えて3つ目。いよいよ、様々なことが今でも鮮明な記憶として蘇る、中野区中野3丁目の住まいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?