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宮崎駿、最新作『君たちはどう生きるか』最速レビュー(ネタばれ無し)

昨日、『君たちはどう生きるか』が公開された。私は今日見た。

巷では、「難解で難しい」という声が高い。そこで私の出番かな、と思い、本作について考えてみよう。

その前に、宮崎駿は作品を重ねるたびに一般に分かりづらいような意図が多くなり、パンピーの客には分からないだろうみたいなのをわざとやって、煙に巻いて、知ったかぶりの客に「良かったです」みたいなカッコをつけさせ、無理やり評判を取ろうとするような態度が気にくわない。最近の現代アートと同じだ。そんな下心の意図に価値などない。

それでは、さっそく中身を見ていこう。

本作は死後の世界であるか、主人公の空想、あるいは妄想世界であるか、または実際に存在するパラレルワールドで、母親の愛、または母親への愛とは何かを提示し、その前提の上に宮崎駿が「どう生きるかは自分で考えてね」とか言っているシステムの作品である。

設定としては、舞台は実在するパラレルワールドで死後(生前)の世界でもあるものである。この部分を、宮崎駿は好きなように描いている。この部分は宮崎作品としてはマンネリ化しているものの、さすがの力量なのであり、宮崎駿を初めて見るのなら、「おっ」と思わせる点である。

私が物足りなさを感じた点は、天国と地獄のメリハリが無いことである。全部美しい自然世界になっている。スピリチュアリズムにおいては、そういう2項対立があるのではなく、すべてはスペクトラム状の共通世界なので、天国と地獄の境界もないのであるが、そういう区別も何もない無知なパンピーにとって、何の説明もない場合、その世界観に価値が無い。理解されないからである。パンピーはゾロアスター教しか知らない(自分がゾロアスター教しか知ってないことも知らない)。だから逐一説明を入れる必要があるのだ。私の見解が違うというなら、それはそれで、そういう説明を入れる必要があったのだ。そうすれば、その世界観の価値は蘇るだろう。

とにかく全体を通じて説明が足りない。

ちなみに宮崎駿は、王蟲に「個にして全、全にして個」などと言わせているから、カール・グスタフ・ユングなどを通じてそっち方面への理解があると思われる。『もののけ姫』で美輪明宏を起用したのにも何か関係があるだろう。

それで、物語の本論は冒頭で述べた、母親の愛とは何か、母親への愛とは何かという問題に終始しているのである。その定義は、キャラクターのペルソナによって宮崎駿に固定されている。厳密に言えば、母親への愛の方ははっきりしない。はっきりはしないがキャラクターの心の中には答えが決定されているものであると思われる。

その固定された定義の上で、「それで、どう生きるかは観客のあなたで考えてね」みたいなのが宮崎駿の態度である。

つまり、映画の内容はほとんど「母親問題」である。

これが大きく空振りなのである。

というのも、宮崎駿は名家の出であり、母親も慈愛に満ちた素晴らしいものだったと思われる。主人公を自分と同じ高さの目線で見ていて、友達として見ていて、他者として愛している。そういう、本物の母親である。

母親になろうとはしたが、憎き恋敵の子でもあるという事情のキャラも出てくるが、それとてまともな母親になろうとした。つまり、全部のキャラが母親の本性が何かを知っていたと思われる。

私の母親はそうではない。

私の自我を全部否定し、自分の都合に合わせた私という人格をでっち上げ、「お前はそうである」「お前はそう思っている」という洗脳を刷り込み、そういう自分の都合を「愛している」人間だった。

つまり、今、毒親と呼ばれている人種である。

私の母親が、私のペルソナを愛することは一度もなかった。父親も同様である。つまり、私の親は子供だった。ついに大人になることはなかった。

私は親の愛を知らずに育った。

団塊の世代近辺の親には、そういった人間が多いと思われる。なぜなら、GHQに愚民化させられたからである。

宮崎駿は戦後世代であるが、その親は明治時代くらいかと思われ、明治くらいだと、まだ大和魂の何たるかを知っていた世代である。

私はこの映画に出てくる女性の事を、大人の男として好きである。私がこの映画の女性たちを好きなのは大人の男としてであって、主人公目線ではない。

それで「どう生きるか?」と問われても「ハァ?」となる。母親観が全然違うからである。ちなみに、「どう生きるか?」と問われているのは「君たち」すなわち観客であり、主人公が複雑な事情の中でどう生きるか?と問うているのではない。

じゃあ、誰がその問いに該当するのか?

それは、宮崎駿と同じ母親像を持つ人しかいない。宮崎駿と同じ心理構造を持つ生い立ちの人間でないと、説明なしにこの前提に立つことはできない。

つまり、もう一度言うと、説明が圧倒的に足りていないのである。

だから、宮崎駿は裸の大将にしかならない。この映画は、宮崎駿の個人的な母親を描いたに過ぎない。多くの人は、母親観が違うので「じゃあどう生きるか?」と問われても意味を成さない。

個人個人の事情に即した母親像があって、それぞれの生い立ちという前提の上で「どう生きるか?」と問うべきである。

前提が違うので問いが空振る。

私に残ったのは、その女性良いなということ、ただそれだけである。

それで良いというのであれば、「どう生きるか?」などと問うべきでない。私に題を考えろというのであれば、『つんく♂の言うイイオンナの、究極とは何か?』である。

宮崎駿の活躍は私の生前から始まっており、私が物心つく寸前に『未来少年コナン』、私の幼少期に『カリオストロの城』、小学生時代に『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』が出来た。

ここまで、私は熱烈な彼のファンだった。何十回もVHSを見た。アニメーション技術が革命的で話も明快で神がかっていたからである。最初から今のような煙に巻く感じだったら、決して彼の名声はなかっただろう。

『となりのトトロ』から急に面白くなくなる。

これは私が中学生になったから、自然への憧憬が消えたから、そして宮崎駿の技術を見慣れてしまったからだろうと、長らく思っていた。

しかし、長年疑問には思っていたのだ、何故ならそれまでの作品は今見ても良いからである。

最近、岡田斗司夫がなんやかんや無料はここまでとか何とかで言って行ってからやっと分かった、その正体が。

『コナン』から『ラピュタ』までは全く同じ話なのである。つまり、単細胞な超人の男が、慈愛に満ちたかわいこちゃんを助けるという話である。『ナウシカ』だけは例外で、男女が逆転しているが、型は同じようなものだ。

この、57577という形式の中で織りなされる詩に感動があったのだ。

『となりのトトロ』から急に冒険活劇感が無くなり、キャラの目的がうやむやになり、幼少期の憧憬感にしか頼らないものになっていく。『魔女の宅急便』も同様で、街や自然への憧憬感が第一である。思春期の奮闘を描いたのであるが、憧憬感を失い、思春期も過ぎたらオワコン化するものである。というか、私はその時まだ中学生だったのだが。

『もののけ姫』は冒険活劇ではないのかというが、『もののけ姫』には本物の悪役というのが存在しなく、かつての57577とは違う、煮え切らないものである。偽装57577である。

なぜそうなったか?

勧善懲悪より、煙に巻いた方が客の批判をかわせるからである。分かりやすいものは客に理解されてしまうから、作品の評価を云々かんぬんとされてしまう。難解にすれば、客は面白くなくても、自分の理解力が無いのが悪いのだと思って、発言を躊躇する。

で、岡田斗司夫のようなのに云々かんぬん言わせる経済効果もある。

実態として、『となりのトトロ』以降の宮崎駿は、あまり面白くない。

基本的に、勧善懲悪で超人が慈愛に満ちたかわいこちゃんを助けるという、「猫まっしぐら!」な感じの中で勝負することから逃げると、私の世代はもう反応しなくなる。

ところが本人はそう思ってないだろう。なぜなら、作品の面白さと収入が反比例しているからである。『ラピュタ』までの良さは、「金曜ロードショー」で知れ渡った。その後の映画は知れ渡ったから見られただけである。それを本人は、今作が面白い、理解されているから見られたのだと思っている。否、理解できないことで煙に巻けば、作品の深みになり支持されるのだと思っている。あるいは、理解できない客が悪いという立場の逆転現象によって、無理やり「良かった」と言わせ、やり過ごそうとしている。

宮崎駿は今作のエンディングに米津玄師というボカロP発祥の最近のアーティストを起用している。どうして米津玄師などを御年80何歳の宮崎駿が知っているのだろうか?

たぶん、音楽を選んでいる力はもう残っていないから、誰かが推したのを了承しただけだろう。そこには利権の臭いすらする。

私なら、今作のエンディングにシャ乱Qの『ズルい女』を選ぼう。

反論の余地はあるだろう。映画の詳細を検討してないからである。でも言うとネタバレになるし、バラすほどのことではない。そして、検討するなら複数回見る必要がある。それでも大局は変わらない。岡田斗司夫に細かいことを言われて認識が大逆転するようなことは言ってない。


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