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江原スピリチュアリズムー人は何故生まれいかに生きるのかー

人間は、いやあらゆる存在は霊性進化のために生まれる。霊性進化とは精神性の向上のことである。魂の中に存在する悪の部分、つまり劣った部分を解消し、光に変える作業である。

魂はみなすべて神という一者の一部であり、神は自らの成長のために濁りのある自己の分身を現世に派遣して浄化させ、再び霊界にそれを戻し、自らと融合させる。そうすることで神は悪を排除し、無限に霊性進化していく。それが、個々の魂にとっても成長になる。

霊的完成はない。成長は無限である。霊格の高さも無限にある。上には上が必ずいる。

なぜ魂は霊性進化しないといけないのか?

それは高級霊界にも分からない問題である。人間に知ることはできない。ただ、霊性進化は幸福なのだ。現世で苦しい思いをしても、霊界では苦しくない。幸福だ。それは一種マゾヒズム的である。

だから、この霊的真理を知ったところで、その原因は謎に包まれている。神の領域でしか納得しえない何かが背後にある。

魂の濁りを浄化させて天上界に戻るという発想はグノーシス主義からある。マニ教などはグロい描写と共にそういう説明があるから特に印象的である。

根本的事情がそういうことだから、私はスピリチュアリズムのことを「霊性進化の哲学」と呼んでいる。

現世において、魂は切磋琢磨する。現世の苦しみは魂の磨き砂である。現世で苦しみを体験することによって魂の成長が起こり、光が増す。それを類魂(自らの過去生の集合体)に持ち帰ると、類魂全体の霊性が上がる。類魂はそれを繰り返して、神に帰還し、完全な光だけとなる。

では、現世で何をすれば良いのか?

ここで勘違いする人は、瞑想とかヨガの修業とかで苦行する。それは無駄である。人間は自然に生きることによって、適切な課題が霊界からもたらされ、自動的に成長するように出来ている。だから、自然に自らの意思の赴くままに生活すれば良いということになるのだ。現世にありとあらゆる困難、災難が色とりどりに散りばめられているのはそのためなのだ。その中から、魂が自分の意思の赴くまま自由に課題を選択し、チャレンジしていく。

引きこもりニートはチャレンジがないからダメだということもない。それにはそれなりの苦難が待ち構えている。

ただ、江原は引きこもりニートを良くは言っていない。自己保身の親の責任で子供を犠牲にしているという。子供には旅をさせるのが親の愛情であるべきだという。確かに、その方が霊性進化しやすいのかもしれない。

だが、アニータ・ムアジャーニはありのままの自分で良いというから、カルマの関係性から言って、何をどうしても帳尻が合うのなら、引きこもりニートでも構わないのだ。カルマのシステムの観点から言ってもアニータの方がより高い視点から述べているような気がする。

逆にやってはいけないのは、自分の霊性を低下させる堕落した行為だ。面倒だから悪を意識的に取り込んでやり過ごそうとすること。たとえば、威嚇的態度や恰好をしていれば、人を委縮させることができるから我儘したい放題だなどという根性を霊界は見ている。自分が正しいと思ったことに従うのではなく、意図的に悪を利用する者は堕落者として、極端に学びのない人生の者は、魂を分解されて類魂に吸収される。つまり、個我としては消滅する。

個我の消滅が出てきたが、類魂に融合すると、基本的には類魂の意識となるのであるが、個我も残っているのである。ただ、近い霊性の存在はみなテレパシーで意思疎通できるから、一つの心だとも言えるのである。ちなみに、自らより高い霊性の存在とは意思疎通できない。上位霊から下位霊へのお達しは出来る。

現世では自由意思がある。霊界には神の意志が喜びと共に降ってくるから、自由意思があるとは言えない。そのため、個我は霊界と切り離され、霊界のことを忘れるように現世は設計されている。

私は江原の、いや近代スピリチュアリズムの自由意思論に異論がある。意志は環境と遺伝子によって決められているだけだからだ。それは予定説である。

もし、霊界からのインスピレーションがあるというのなら、それも自由意思ではない。苦難の選択も霊界が行っているということである。

自由意思がある以上、人間にはどこまでも自己責任があると江原は言う。だが、私は人間に自由意思などないと思うから、責任など存在しないと思う。

私が江原と考えを違えたのは、アニータ・ムアジャーニを支持してから、現代科学の認識と照らし合わせても、その方が筋が通っていると思ったからだ。

自由意思と予定説の問題は別に考えよう。ここでは霊性進化のために人間は生まれ、自らの善性に従って生きるべきだという、江原の思想の骨子を説明した。

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