日本国紀を読むことで思うこと

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日本国紀という小説|ひかわまこと @makotohikawa|note(ノート)https://note.mu/makotohikawa/n/n68559f21e430

日本国紀に日本には民衆の虐殺はまったくなかったと書いてあるが、織田信長の一向宗門徒への行いは虐殺だったのではなかっただろうか。
日本国紀は種類で言えば講談のようなもので、著作権などの存在しない話に推移しているので、コピペであろうと、その話が面白い話かどうかで語っているようである。
源氏物語wikipedia https://t.co/OLsrNLXizw
この記述の一部は日本国紀のコラム源氏物語の項目でもほぼ同じ内容の記述がある。
伝わっている紫式部の評伝なので、wikipediaの記述を流用してそれを踏まえて叙述はいけなくはないんとちゃうかのう。
藤原不比等wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/
藤原不比等が皇胤という記述によるこの説はここにもある。
有力者の血筋に関して天皇や公家や名家の武家の子どもであるということは権威を得るためのファンタジーにこの時代より後にも使われ、藤原家に養子に入った豊臣秀吉や源氏の子孫を称した徳川家康などもいた。
藤原道長のところで権勢が陰るときに一族が次々亡くなると権勢を得るまでに追い落とした者の祟りであるという発想はかなり古くからあり、藤原時平の時には菅原道真はその祟り神扱いを受けて天満宮の雷神として祀られ学問がとても出来たので学問の神となる。
刀伊を撃退した藤原隆家などを国を守った荒くれ者と表現するなどは日本国紀が講談だからであろう。
保元の乱が天皇家や藤原家、源氏や平氏の骨肉の争いとなってその後に平治の乱が起きて平氏の政権となる。異変や疫病や事件はこの祟りを起こす怨霊のせいにされた。崇徳上皇が怨霊になってしまったので鎮魂の祭祀というものは確かにそうで、祭祀というものの本質についての側面は確かにその傾向はあり、皇室は祭祀を行うのでそれは現代にも連続しているという視点は踏まえて読んだ方がよさそうだった。
基本的に面白いと思う話は話題にしており、講談や小説は面白いかどうかなのでそれでいいのであろう。
それは源平騒乱が1ページ、承久の乱が2ページ、元寇が5ページ、応仁の乱が4ページという、元寇や応仁の乱の方に割かれているページ数が物語っている。
そして織田信長のところで延暦寺焼き討ちを日本の歴史上かつてない大虐殺と書いてある。
秀吉が藤原姓を名乗るのは天下統一の途中なので、羽柴秀吉による天下統一というのは正親町天皇から豊臣姓を賜ったからという認識なのであろう。豊臣姓を賜るのが天正14(1586)年、天正18(1590)年に天下統一したので天下統一したときの秀吉は豊臣秀吉である。
朝鮮の役は明らかに侵略行為である。アレクサンドロスやチンギス・ハーンやナポレオンの遠征も侵略と書かねば朝鮮侵略という表記は辻褄が合わないと書いてあるのは少し気になった。
男女の泥まみれをからめた話に興味があるらしく、源平争乱と豊臣と徳川の戦いや戦国の話と男女の泥まみれを引き合いに出すのもそういう叙述の好みのようなものだろう。
律令制度のところでも制度の詳細を述べるのは話としてはつまらないと思っているようなので江戸幕府の政治制度も簡単に触れている。
起こり得なかったことを述べるのは歴史書ではなく小説なので、もし鎖国しなかったらどうだろうというコラムがあるのでやはり日本国紀は講談や小説であろう。
第六章が江戸時代で年数が長かったから記述も確かに多い。荻原重秀の再評価をと推している。
江戸幕府の開府 家光 政治体制 鎖国 身分制度 武断政治から文治政治へ 元禄文化 荻原重秀 世界最高の教育水準 赤穂事件 豪商の出現 街道の整備 都市の発展 江戸の食文化 「五公五民」の嘘と「百姓一揆」の真実 家宣から家継、そして吉宗へ 傑物、田沼意次 寛政の改革 一国平和主義の日本 次々に押し寄せる異国船 右往左往する幕府 シーボルト事件と蛮社の獄 内憂外患、揺れる日本 黒船前夜 黒船来航
となって次章の幕末~明治維新へと続く。
第七章は年数で言えば15年間のことである。
ペリーがやってきて開国してからの激動は確かに興味を持つ人も多い時代のことである。通史と言っていてもこの15年間を詳細に叙述すれば何冊も書いた司馬遼太郎などがいたことでもある。
志士は大半はテロリストであるという観点は政治のことをどうみているかが伺えて興味深い。京都でテロの嵐が吹き荒れる頃に咸臨丸が米国に出航する。
薩摩は英国と戦争し、長州は英米仏蘭の艦隊に下関を砲撃される。
佐賀藩と薩摩藩の近代化でつまるところアームストロング砲を携えて江戸にやがて攻め上る前に西洋式軍備となっていく。佐賀藩や薩摩藩の反射炉がそれを実現する。自前の軍艦も造船した薩摩海軍が幕府海軍とのちの海軍となっていく。
伊予大洲藩は英国から購入したが宇和島藩は自前で黒船を作る。
小栗忠順は米国使節団に入って渡米し帰国してからポサドニック号事件の紛争処理をして、明治政府の政策の雛型を残していく。
水野忠徳は小笠原群島の領有権を国際的に認めさせることに尽力している。この時ジョン万次郎、中浜万次郎が通訳として尽力している。
基本的に日本は如何に素晴らしいかを滔々と語っているという立場が日本国紀の立場らしい。
そして坂本龍馬の仲介で薩摩と長州は連合する。
第二次長州征伐の時に徳川家茂が亡くなり、討幕の密勅が出される。密勅自体は信憑性が疑わしいものだったが討幕へと流れていく。王政復古の大号令のもと鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れ、江戸は無血開城。明治政府は小栗忠順を処刑し、戊辰戦争へと突入する。戊辰戦争が終わり、明治の近代化が本格的に始まる。明治六年の政変や台湾出兵、朝鮮の開国などは触れているが負の遺産や歴史にはあまり触れないので廃仏毀釈は記述されていない。平成の今に仏像を興福寺や薬師寺などの寺院で見ることが出来るのは岡倉天心やフェノロサなどの人々が廃仏毀釈に対する対抗によって破壊から守り、その後たゆまず修復されてきたからである。そして西南戦争の終了で明治維新は終わる。
立憲政治と帝国憲法にまつわる自由民権運動の弾圧を経て、帝国憲法に書かれた条文も第十一条の昭和初期の拡大解釈のことを憲法の運用というものを間違うと大変なことになると書いてある。
幕末に結んだ条約が不平等だったので日清戦争と日露戦争を経てようやく条約の不平等を是正できた。
義和団の乱での柴五郎の籠城戦を書くのも、日本国紀が基本的に日本に貢献した人間にスポットを当てがちであるからだろう。
日露戦争の時の高橋是清の各国外交に触れて、政治家の水準を話題にすることでの行間で語るものというのは叙述で描く表現というものである。
連合艦隊ではなく聯合艦隊と当時使われていた表記を用いて東郷平八郎率いる艦隊が日本海海戦で勝利したことを記すにとどめる程度に日露戦争を書いているが通史であると数回書いているところからみて話が膨らみすぎることを抑制する意図はあったらしい。バルチック艦隊が日本海に到達するまでに散々消耗させられていたことはコラムにしてあった。
日清戦争では多額の賠償金を取ったが日露戦争では賠償金を取れなかったので民衆が暴徒化したことは書いている。(日比谷焼打事件)
メディアが戦争を煽りやがて米国や英国や中国との戦争へと向かうと、書いてしめくくっている。
日露戦争が終わった後に韓国を併合する。
現代の韓国でも日韓併合は一方的なことではなかったのでどうしてそうなったのかを検証して後世に資するためのことをしようという人々はいるので、日韓併合が条約により成され当時反対する国はなかったと書いてはあるが、植民地にしたのも事実である。
大正から昭和へと時代は移り、辛亥革命が起きる。
大正3(1914)年6月28日サラエボ事件が起きて第一次世界大戦になっていく。4年にわたる戦争で当時は世界大戦と呼ばれ、第二次世界大戦後、第一次世界大戦と呼ばれるようになる。
大戦中起きたロシア革命が戦争を終わらせていく。
国際連盟が出来て、日米の対立が際立ってくる。第一次世界大戦では日本も米国も戦勝国だったのだが、日系移民排斥が米国で起きて、日本は国際社会で孤立の道へと向かっていく。
大正時代は民主制が発展して大正デモクラシーと呼ばれる。
大正12(1923)年9月1日関東大震災が起きる。
そして昭和になる。
満州事変で中国との戦争がはじまる。
戦争は双方に起きた理由がありそこで行われたことを一方の側からの被害ばかり述べることもどこか違和感があるが、確かに日本側や他国側ばかりが加害者でもない。勿論被害者ばかりでもない。
領土争いというのは猫の縄張り争いと同じようなものなので、満州は誰が領土にするかがはっきりとしていなかった時代に満州事変は起きたと書いているようである。
五・一五事件と二・二六事件で軍部が台頭してきて中国と本格的な戦争になり、第二次世界大戦となる。
その人間の立場で同じ事を述べていても用語が違うことというのがあるが、中国との戦争や中国という国、第二次世界大戦という呼称を志那事変とか志那とか大東亜戦争という呼称を用いる人々がいて、日本国紀はそちらの立場である。
南京大虐殺はあったなかったと論争しているが、中国と呼ぶ人々はあったという立場で、志那と呼ぶ人々はなかったという立場のことが多い。日本国紀はなかったという立場である。
だから日本国紀は第二次世界大戦の項目のところは大東亜戦争という章である。
無計画に始めた戦争で勝利した国は管見の限りだが見たことも聞いたこともない。
ただ大東亜戦争は日中戦争と太平洋戦争とを含む呼称として昭和16(1941)年12月12日の閣議決定で使用することになり戦争が終わって連合国が使用禁止にする。
太平洋戦争も含めて第二次世界大戦なので日米の戦争になる。
時とともに日本本土に空襲が来るまでに追い詰らめれて原爆を広島と長崎に落とされて降伏する。
敗戦後連合国軍の統治下で復興がはじまる。
日本国憲法が大日本帝国憲法の改正として施行される。
極東国際軍事裁判に対する見解も現代では別れているが不当な報復裁判だったと述べたところで判決は戻らないし処刑された人間がかえるわけでもない。今を生きている我々はその苦い教訓をより良い明日のために使うことしかできないから歴史に学ぶのであってその態度にファンタジーを許していいのは表現作品の中でだけである。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが結果として日本人の精神を粉々に破壊したと日本国紀は書くが、壊されたならまた新たに歴史や文化の良いところに学んで粘り強く作ることが一番良い。悪いところまで前の時代から受け継ぐ必要はない。
占領政策が米国などの都合のいいように行うのは当たり前のことで、それに飲み込まれて植民地人となるか独立を保つために努力するのかは我々日本人次第である。
占領軍の犯罪や朝鮮進駐軍のことを書いているが、昭和20(1945)年8月15日に放送された玉音放送で昭和天皇は「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」国の再建と生活と家族のために頑張ってくれないかと呼び掛けたのはそういうことも想定していたのだろうと平成の今に生きる私は思う。
占領軍も占領をやめて独立が回復する頃に日本は奇跡的な復興を果たす。朝鮮戦争が弾み車だったのはどうやらそうで、米軍が朝鮮半島に派兵されて警察予備隊が出来る。
サンフランシスコ講和条約とともに日米安全保障条約を結び独立を回復して、神武景気がやってくる。
その少し前に韓国との現代まで続く領土問題の発端となった李承晩ラインで幾隻も船が韓国に拿捕される。
それでも日本は経済復興していく。
朝日新聞は戦争中は翼賛報道であった。
日本国紀では、朝日新聞は自虐史観で南京大虐殺と従軍慰安婦と首相の靖国参拝非難の嘘の報道を行ったというが後に従軍慰安婦の報道は事実ではなかったと朝日新聞が否定記事を掲載したことがある。
時代や社会の様子で論調が変わるのがマスコミの体質である。
秋山好古が「自分の意見のないうちから新聞など読むな」と弟の真之に戒めたとは司馬遼太郎の坂の上の雲の叙述である。
戦時徴用工強制労働を嘘と書いているが韓国はどうやらそうは考えておらず三菱重工業に賠償命令の判決を出して日本との間で現代でも揉めている。
昭和28(1953)年12月25日奄美群島返還
昭和43(1968)年6月26日小笠原群島返還
昭和47(1972)年5月15日沖縄返還
サンフランシスコ講和条約で放棄して返還された領土で現代の日本の領土の様子になったのは昭和47年5月15日のことで、今でも年金事務などで沖縄に住んでいた時期が返還前だと多少計算が違うらしい。占領というのは経済の様子も変える。
共産主義を否定的に見るという観点が日本国紀にはあってコミンテルンは国家や民族を溶解させる説のようである。中国共産党やベ平連のことを述べるときに散見する。
戦国時代の記述でキリスト教の布教ということをして国を裏切らせて後に軍隊をよこすのがスペインなどであったと書いてあって、日本という国や日本人や日本文化を脅かすものへの警戒心というものが垣間見える。
好景気は第四次中東戦争で石油価格が値上げされてオイルショックとなって終了する。省エネにシフトして日本は高度経済成長期から安定成長期に入るとある。
日本と中国は用語の理念で対立した立場にあるので、侵略と進出が同じ歴史事象で述べられて問題となったのが教科書問題である。
そして武を忌み嫌う平和ボケになったと書いていっている。
平成はその内に来る。
歴史として語るには冷却期間というような一定の時間の経過を必要とするので平成30(2018)年の時点で翌年の平成31(2019)年4月30日で平成は終わるので、次の元号に改元されて10年程しなければ平成のことを歴史として語る程には冷却していない。日本国紀も平成30(2018)年に出版されたので、平成のことを語るのは時期尚早と書いている。後世の子孫の参考に寄与するような記述に努めて書いたという日本国紀のことを、同時代人だから言えることに私も努めて書いた。
平成になって、オイルショックから立ち直って起きたバブル景気のバブルが弾けて、以降30年の不況である。コンドラチェフウェーブによればそろそろ全体として景気は上げ潮になっていくはずである。
ロシア革命で出来たソビエト連邦もなくなり、ソビエトの血脈は中国や北朝鮮、モンゴル、ベトナムなどで形を変えて存続している。中国の経済成長は目覚ましく、北朝鮮が瀬戸際外交で散々に他国を振り回している。
日本国憲法改正の論議が湧いているが、昭和30(1955)年に出来た自由民主党は二度の政権交代の後も再び与党で、党の綱領に改憲をうたっている自由民主党がその動きをやめることはない。
戦争を抑止力で止めることがいいという立場を取る日本国紀だが、孫子の言葉に「戦争の被害を知る者だけが戦争により利益を得られる」というのがある。確かに日本が未来にも素晴らしい国で存続した方がいいと私も思っているので、この読書記録を書いた。