文化の個人差

上馬キリスト教会がツイッター伝道を展開して、今年のクリスマスは日本の各地の教会には例年より多くの人が訪れたという。
キリスト教やキリスト教会というものに私は一言で言い表しにくい複雑な感情を持っている。
そもそも人生を生きていくときの理不尽からキリスト教会の門を叩き、求道者という人間に宗教というものは好意的であるので、来るもの拒まず去るもの追わずのキリスト教会は一時の私が通う場所であった。
キリスト教会というところははっきりとしている。協調性や人と関わっていくという社会性というものが実に求められ、人の間違いを指摘せず寄り添うとか、自分を誇示してマウンティングせぬようにいるということがよく求められ、それははっきりとした言語でではなく態度や空気というもので求められてくる。
心を閉ざしたり、心の温度の異なる人間に優しいかというと冷たいところがある。
私が人生で求めるものの中にはないことばかりが展開して私はやがてキリスト教会には行かなくなった。
上馬キリスト教会のツイッターというものを見ていて感じたのは、イソップ寓話の北風と太陽という話だった。
自分の精神文化を人に押し付けるのではなく、自分の精神文化を控え目にユーモアを交えて紹介する地味で地道な姿に多くの人の感情が動いたので、上馬キリスト教会のツイッター伝道が効果を発揮しだす頃には、私が以前感じていたキリスト教やキリスト教会というものの冷たい側面より、暖かい側面の方が感じられるようになっていった。
私の人生で求めるものとキリスト教というものには根本的違和があるのでおそらくキリスト教会に行くことはあまりないだろうと思う。
だが、礼拝堂のあのなんとも言えぬ清々しい感じとか、美しい建築を、各地の教会や聖堂で見るたびに、その甘美さには魅了されている自分をよく見つける。
上馬キリスト教会のような単立教会というのはどこの利害からも自由なので思い切りがいい。
若い頃に徳島県鳴門市にあった単立教会に通っていた時はとても楽しかった。
私は私で人生を地味に地道に生きていくだけであるので、キリスト教会で地味で地道な伝道をしている姿を見るのは隣の険しい山を登山している同時代の人を見る思いで、このままその登山がうまくいけばいいなとだけ思う。