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海路と日本

参照:古代マレー人|阿蘇山 @makotohikawa|note(ノート)https://note.mu/makotohikawa/n/n39f23ec0260f

「道」という観念自体が陸路と海路を総称して「道」という。

古代マレーや南米には栽培される以前の原産の芋があった。
古代マレー人はポリネシアぐらいまで拡散した海洋民族である。
島崎藤村の歌に椰子の実という歌があるが、愛知県の伊良湖岬に椰子の実が漂着したことがあって、インドネシアぐらいから愛知県と静岡県の海岸には海流でやって来られる海の道がある。
古代マレー人はその海の道を船に里芋などを積んで日本に来たらしい。
メラネシアやミクロネシアやポリネシアの人々は芋が主食であったので、古代マレー人が芋を船に積んで拡散して住み着いたことがわかる。パラオ人やハワイ人は芋を食べる。ジャガイモとかではなく里芋やタロイモなどである。
サーフィンのサーフという言葉はハワイ語で寄せる波という意味で、古代マレー人はアウトリガーカヌーなどでサーフィンの操船をして航海をしており、サーフィンポイントは古代マレー人の文化が伝播している可能性がある。

ジャガイモはインカのめざめや馬鈴薯などの栽培品種の特性からみると寒冷地で育つ芋で、北海道やヨーロッパぐらいの気候でジャガイモが育つのは原産地が南米の山岳部で、古代マレー人が太平洋や海洋アジアに持ち込んだ品種とは生育条件が少し違う。
ジャガイモは生育条件の似ているヨーロッパに持ち込まれてヨーロッパの飢餓を救う。ヨーロッパ人がフィッシュアンドチップスなどでジャガイモを食べるのはその飢餓体験が刻まれているからだと思われる。

日系人の先祖の地方は沖縄、南九州、四国、和歌山、静岡が多く、台湾沖縄ルートと古代マレー人太平洋ルートを逆さに出て行った人々であったのであろう。
以前の商業捕鯨時代に高知の船は南極海まで捕鯨に行ってペンギンを連れて帰ったのだが、高知出身の漫画家の西原理恵子氏が高知市内をペンギンが歩いていたことがあったと著作で述べていた。
マレー人は南アフリカにインド人などと同じくらい居たといい、マレーシアからインド洋を渡るとインドから東アフリカ、南アフリカまで至る。
ポルトガル人は明の鄭和の遠征ルートの最遠点のモザンビークまで南アフリカを周ってやって来てインドからマラッカ、マカオに至る航路を通る。このルートと台湾沖縄ルートに接続してフランシスコザビエルが鹿児島に至る。インド洋からマカオまでの寄港地を植民地や租借地にしたのでモザンビーク、インドのゴア、マカオがポルトガル領や租借地だったのである。そして本来の目的の胡椒の産地の東チモールも領有していた。ポルトガル人は古代マレー人の海路を使っていたのである。
米国のペリー艦隊も日系人の移民船も古代マレー人の海路を使っており、ペリー艦隊も日系人移民船も喜望峰を周ってインド洋を渡っている。

愛知県の渥美半島や静岡県は海流の影響で温暖であり、ハワイなどより高緯度ではあるが古代マレー人の持ち込んだ芋が育てられたのだと考えられる。
ハワイはコーヒーベルトなので熱帯である。
古代マレー人は基本的に熱帯の人間たちなのだが、熱帯系の栽培品種が日本で栽培できたといえば米がそうである。ジャポニカ米のような適応をした熱帯系の芋があってもおかしくはない。芋を海路で渥美半島や静岡県などに持ち込んだ古代マレー人がそのまま住み着いたと考えるのはハワイ人の様子をみると有り得なくはない。
古代マレー人太平洋ルートの上陸地は西から三津七湊の三津の1つの安濃津、渥美半島の伊良湖岬、静岡の御前崎、伊豆、相模湾と三浦半島、房総半島の安房地方が想定される。ペリー艦隊の来た浦賀や日米和親条約で開かれた伊豆の下田などは古代マレー人太平洋ルートの海路と東海道の接続地点であろう。

海流が人間や食べ物を運ぶルートになるといえば朝鮮半島の東南岸から海流に乗ると山陰から北陸、出羽地方と北海道に至る。島根県の美保関にはハングルが記されたブイがいくつも転がされており、山陰地方の海岸には朝鮮半島からの漂着物がいくつも流れ着く。北陸から出羽地方、北海道には北朝鮮の漁民海賊がやってくることがしばしばある。人間たちも古い時代から長期間波状的に朝鮮半島から山陰や北陸にやってきており、日本という国は海流に乗って4つの道を通りやってきた人間が混ざりあって出来た国で、1つ目は朝鮮半島から対馬を経て九州と下関に至る海路と朝鮮半島東南岸から山陰に至る海路で、2つ目は台湾から沖縄を経て九州や四国や和歌山に至る海路で、3つ目は古代マレー人の太平洋からの海路で、4つ目は沿海州とシベリアから千島と樺太から北海道を経て至る海路である。

図:日本列島に至る4系統の海路

朝鮮半島南部に古代にあった国とヤマトというのは同じ領域の国だったらしく、3系統くらいの人間たちのグループが作った3つの国、馬韓、弁韓、辰韓が朝鮮半島にはあったので、馬韓とツクシ、弁韓とヤマト、辰韓とイヅモがゆるく国だった時代を経て、朝鮮半島にあった弁韓が馬韓と辰韓に滅ぼされ、馬韓と辰韓と扶余があって朝鮮半島は三国時代となる。山陰地方にあった国は朝鮮半島の対馬九州下関ルートであった国とは違い、対馬九州下関ルートの国がツクシとヤマトで山陰地方の国はイヅモである。古事記などが語るようにヤマトはツクシやイヅモを征服するのだがツクシは馬韓と領域を同じにしていて、ヤマトは弁韓と領域を同じにしていて、イヅモは辰韓と領域を同じにしていたと考えられる。海流によって至る地点からみてツクシとヤマトとイヅモはそれぞれ別の朝鮮半島の国とリンクしていたのであろう。
愛知県の渥美半島や静岡県などにあったであろう古代マレー人の国はツクシともヤマトともイヅモとも海流で至るルートが違う別の人間たちのグループであったようである。
台湾から沖縄を経て至る海路でやって来た人間たちの国は南九州と南四国、和歌山にあったようで、奈良時代に整備された国道の五畿七道は4系統の海路と接続している道でその国道で国の系統が違っていたのであろう。南海道が和歌山と淡路と四国を通るのは東海道とは接続する海路が違うからだろう。山陰道と北陸道も接続する海路に多少の区別があって沿海州シベリア千島樺太ルートと朝鮮半島東南岸ルートは北陸道で最終的に接続し山陰道は朝鮮半島東南岸ルートという対馬九州下関ルートの支線と接続する。西海道と山陽道は対馬九州下関ルートと台湾沖縄ルートが接続して瀬戸内海を通るルートである。南海道は台湾沖縄ルートと接続し東海道は古代マレー人太平洋ルートと接続する。東山道は沿海州シベリア千島樺太ルートと接続する。
沿海州から樺太、北海道に至る海路でやって来た人間たちのグループの国も違う。
古い時代の日本には少なくとも4系統の人間たちの国があったのであろう。それを古墳時代くらいにヤマトが統一していき、沿海州シベリア千島樺太ルートの人々の国を北上して飲み込んで行って明治時代にその経営が完了する。沿海州シベリア千島樺太ルートの人間たちから見ればエスニッククレンジングで、沿海州シベリア千島樺太ルートの人間たちは千島ルートという支線があったので後の時代にロシア人のエスニッククレンジングも同時に受ける。
北千島の沿海州シベリア千島樺太ルートの人間たちはロシア人がやってくる頃にハリストスに改宗したりロシア風の風俗や家屋に住んだことを記す記録や絵が残っている。
奈良時代には北陸道と東山道と東海道の経路上に都の手前に三関、北陸道は愛発関、東山道は不破関、東海道は鈴鹿関があったが平安時代に廃止されて逢坂関が置かれる。また平安時代には北陸道に念珠関、東山道に碓氷関、東海道に足柄関が置かれる。
攝津職があったときには海の関の関津は攝津にあったようで、唐令には関と関津を規定するものがあるが大宝令には関の規定しかなく攝津職が廃止になったので関津はなくなっていたので規定がなかったのであろう。

海路が五畿七道と接続していたのなら山陰道、山陽道、南海道、西海道にも関があったはずだが、歴史的文化人類的に山陰道、山陽道、南海道、西海道とリンクする海路は領域の境界の外への道ではなく、それぞれリンクする領域に明確な境界のない海路がリンクしていて、北陸道、東山道、東海道は領域に明確な境界のある海路がリンクしていたので奈良時代には三関が置かれて国境警備の兵隊も置いていたのではなかろうか。平安時代には日本の領域も東北に拡大したので念珠関、碓氷関、足柄関が置かれたのだろう。征夷大将軍は関の外に派兵されて駐留したので坂上田村麻呂は多賀城、鎌倉将軍は鎌倉に居たのではなかろうか。古墳時代から日米修好通商条約調印までの長い大きな時代を征夷大将軍時代と呼ぶことにする。
古墳時代から平安時代にかけて何人もの征夷大将軍が派遣されるほどに国境は緊張してたのであることも三関が置かれる理由となったのであろう。そして源頼朝以降も征夷大将軍は基本的に東海道と東山道に居て、東海道とリンクする海路と東山道とリンクする海路とを防衛することは軍事的意味があったのだろう。室町将軍が征夷大将軍の時代でも東海道には征夷大将軍に次ぐ留守番の関東管領が置かれていたのである。
廻船式目にある三津七湊の立地をみると七湊の三国湊は朝鮮半島東南岸ルートの海路、他の六湊は沿海州シベリア千島樺太ルートの海路が接続し、三津の博多津は対馬九州下関朝鮮半島東南岸ルート、坊津と堺津は台湾沖縄ルート、安濃津は古代マレー人太平洋ルートが接続しているとみることができる。
米国のペリー艦隊が東海道とリンクする海路を通りやってきたので征夷大将軍が日本を防衛出来なくなって征夷大将軍時代は終わる。
さらなる拡大防衛の理由から北海道を置くのが明治時代で沿海州シベリア千島樺太ルートの海路とリンクする東山道の延長線として北海道がつながっていく。

奈良時代に東海道の古代マレー人系統の国との間には鈴鹿関があったのであろう。
北陸道には朝鮮半島東南岸ルートと沿海州シベリア千島樺太ルートの国があったので愛発関があったのであろう。
東山道にも沿海州シベリア千島樺太ルートの国があったので不破関があったのであろう。刀伊のやってきたルートは沿海州シベリア千島樺太ルートだったがその最南ルートぐらいになる。
南九州に再三に渡り兵隊を派遣していた飛鳥時代から奈良時代にはそこが台湾沖縄ルートの海路とリンクする領域で、そのルートで来た人間たちが住み着いていた別の国で、最終的に島津氏が統一するまで別の国であったようである。
南四国と淡路の台湾沖縄ルートの国は蜂須賀氏と山内氏がそれぞれ領国とするまで別の国だった形跡があり、和歌山は徳川氏が領国とするまで別の国だったようである。
東海道の古代マレー人系統の国はそれよりもずっと早い時代に飲み込まれていったようではある。


図:日本列島へ至る4つの系統の海路と五畿七道と関(含む三関)

図の解説

a 対馬九州下関朝鮮半島東南岸ルート
a0 朝鮮半島東南岸から三国湊方面
a1 朝鮮半島東南岸から山陰方面
a2 洛東江河口から対馬下関方面
a3 朝鮮半島南岸から対馬北九州方面

b 台湾沖縄ルート
b0 坊津方面
b1 油津方面
b2a 八幡浜宇和島方面
b2b 土佐清水方面
b3 和歌山白浜方面

c 古代マレー人太平洋ルート
c0 安濃津方面
c1 渥美半島伊良湖岬方面
c2 静岡御前崎方面
c3 伊豆方面
c4 相模湾三浦半島房総半島安房方面

d 沿海州シベリア千島樺太ルート
d0 沿海州から三国湊方面
d1a 沿海州から佐渡新潟方面
d1b 沿海州から佐渡直江津方面
d2a 樺太から北海道西岸十三湊秋田湊方面
d2b 十三湊から三陸方面
d3 千島から北海道東岸三陸方面
 
五畿七道
①山陽道②山陰道③南海道④西海道
⑤北陸道⑥東山道⑦東海道

関(含む三関)
ア.愛発関(三関) エ.念珠関 キ.逢坂関
イ.不破関(三関) オ.碓氷関 ク.勿来関
ウ.鈴鹿関(三関) カ.足柄関 ケ.白河関

a0ルートは北陸道、a1ルートは山陰道、a2ルートは山陽道と山陰道、a3ルートは西海道とそれぞれ接続し、b0とb1ルートは西海道、b2とb3ルートは南海道と接続し、cルートは東海道と接続し、dルートは東山道と北陸道に接続する。
北陸道の関はア.愛発関とエ.念珠関、東山道の関はイ.不破関とオ.碓氷関とケ.白河関、東海道の関はウ.鈴鹿関とカ.足柄関とク.勿来関がそれぞれ比定されるとみられる。αは平安京、βは平城京である。

aルートで人間がやってきたことを最初に指摘したのは江上波夫の騎馬民族征服王朝説である。(江上波夫1948年)
東海大学がPCシミュレーションで朝鮮半島から日本への人口動態を解析したことで長期的波状的な人口動態であったろうと言われている。
やって来た人間たちが混ざり合っていくということは統一や征服と簡単に言ってしまえるようなものではなく文化人類的遺伝子が長い歴史が経っても根本の食文化などに残存していて、鯨食の文化や芋食の文化などが文化人類的遺伝子の食文化である。和歌山や静岡、宮城などで沿岸捕鯨をしているし、沿海州シベリア千島樺太ルートの国の人間たちにも古代マレー人太平洋ルートの国から芋食文化が伝わったことは東北地方の芋煮などにその残滓をみることができる。
支倉常長の慶長遣欧使節の太平洋ルートは宮城からまっすぐ東のメキシコに至るルートである。
沿岸捕鯨船の基地は宮城県女川町にある。台湾沖縄ルートの南九州、南四国、和歌山と古代マレー人太平洋ルートの渥美半島、静岡は沿岸捕鯨の地帯である。和歌山の太地では沿岸捕鯨が行われている。商業捕鯨の再開を待っていたこのいくつかの地方では鯨食の文化があったのである。

奈良時代くらいには日本は一つの国家であるという認識はあまりなく東国に征夷大将軍を派遣するということからみて領域の境界が明確にあった東国と西国というものがあり、飛鳥時代に起きた白村江の戦いで西国の対馬九州下関ルートとその支線の朝鮮半島東南岸ルートで朝鮮半島の国とゆるく国であった時代が終わり、防人が置かれた九州が国境となったのであろう。馬韓も辰韓に滅ぼされて難民が大挙日本にやってきて住み着いていく。朝鮮半島は辰韓が扶余も滅ぼし、統一国家の新羅となる。
防人に東国の人間が多かったのは西国の人間を防人にするとそれぞれリンクする海路で外とつながりやすかったことと境界のない海路でやって来て西国に住み着いた人間たちが少なからず居たので防衛の実効性に疑問があったからであろう。

三関の設置理由となった壬申の乱の様子からみても関で敵対勢力を押し止めるという役割を持たせるためのものであって、実際に恵美押勝の乱の時には愛発関がその役割を果たす。
勿来関とは「来るな」という意味の関で、勿来関だけでなく古代関はその関より中にみだりに人間を通さないという種類のものであった。古代関はその地点が出入国検査の地点であったとみることが出来る。
碓氷関と足柄関の設置を布告した太政官符をみると治安維持の側面もあったが、本来はその関の地点で関の外から敵対勢力が入って来ないようにするためのものであったので古代関は軍事的側面の強いものであった。
内乱予防や治安維持の他に防衛目的というものが関にはあったので、日本の古代関は海路との結節と敵対関係にあった人間たちを考慮して設置されていったのであろう。西日本に目立った関がなく東日本に多い理由は古代関を設置した人間たちと敵対関係にあった人間たちがどこから来ると想定していたかを如実に示している。
西日本の海路と五畿七道との接続地点は海路を通りやってくる人間たちと畿内の人間たちとの間には文化的共通性があり、敵対関係もさほどない人間たちがやって来ていたので関を設置して通ることを制限せずとも良く、必ずどこかの港に上陸するので検査もしやすかったのである。
東日本の海路と五畿七道との接続地点は海路を通りやってくる人間たちと畿内の人間たちとの間に文化的違和があって、敵対関係も強かったので関で交通を遮断してみだりに畿内方面に行かせなかったのである。
古代マレー人太平洋ルートの海路の接続地点が東海道なので鈴鹿関が国境ゲートとなっていたのであり、その後東北の経営が進行して、念珠関、白河関、勿来関で遮断して、敵対関係のある人間たちを関の中に入れないためのものとして設置されていたのである。