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看護界の常識は世間の非常識

  22になる年に看護師国家資格を取得して社会に出た訳ですが、途中海外でフラフラしていた時に糊口をしのぐためにいくつかの仕事を経験した以外は、ずっと病院で仕事をしてきました。

  看護短大に通っていた頃から、看護師としてのメンタリティを叩き込まれ、利他の心を植え付けられて、それが当然のことだと思ってきました。

  周囲を見渡すこともなく、ただひたすら閉じられた空間の中で、患者さんのことだけを考えて学び、仕事をする日々の中で培ったものは、専門的な知識と技術と、偏った常識観念でした。

  世間の休日は休日ではなく、人が働いている時に休むのが常。人が寝ている時に働いて、昼間遊んだり眠ったりするのが普通。夜勤明けの日がごみ収集の日であれば、前日にゴミを出さざるを得ないし、休日に開かれる自治体の会合にも滅多に顔を出せないという、社会に居ながら社会から隔絶された人生を送ってきました。でも仕方がないんだ、これが私の仕事なんだから。人とは違う、公共性が高い他者を救うという特殊な仕事をしているのだから、生活リズムも人と違って当然だと、そう思っていました。

  それでもやっと、子供が生まれ、一般の人々と同じサイクルで仕事をするようになって、初めて「社会」というものに触れ、社会の仕組みを実感するようになりました。我々は一人で生きているわけではなく、有形無形の様々な他者からのサポートを常に受けて生活しているという、当たり前なことすら感じることができないまま、本来であればある程度の分別が付いているはずの年齢まできていたのです。こんなことも知らなかったのか。いや、知る必要性を感じなかったし、そんな機会もなかったんだから仕方ないと言い訳しながら、相変わらず仕事と育児に忙殺される毎日を送っていました。

  将来のことを考え、スキルアップのために大学に編入したり、大学院で学んだりしたことで、将来は看護系の大学で教鞭をとることも視野に入れ始めたのがこの頃でした。しかしそんなとき、目の前に高い壁が立ちはだかります。友人の看護系大学准教授から聞いた話によると、看護師としてどんなに経験があって、知識や技術を教える力があったとしても、教員としてはスタートラインに立つところから始めなければならず、給与待遇が一気に新卒レベル程度に下がってしまうというのです。他の医療系の職種は、臨床経験があれば横スライドで大学で教えることができて、臨床に戻りたければそのまま戻ることが可能です。でも看護だけは違うんです。横スライドはできません。一気に立場も給与も下がり、一からやり直さなければならないのです。

  子供を自分一人の稼ぎだけで育てて生きていかなければならなかった私にとって、とてもそんな冒険はできませんでした。だから教員になることは諦めて、看護管理者としての道をそのまま進むことにしたのです。

  看護部長になり、労基で定義されるところの使用者側になってみて初めて、世間と比べたときだけでなく、病院という括りの中の看護の立場もまた、特殊なものであることを実感することとなりました。

  業務時間は患者のベッドサイドにいることが優先されるため、看護記録や委員会の仕事、会議や自分たちの係の仕事などは時間外にするのが当然な世界。若い頃からずっとそれでやってきたし、あたりまえと思っていたのに、他職種はそれらを全て業務時間内にやっていると知りました。

 本当は業務時間内に、そういった「自分の仕事」ができるのが普通です。ですが私達は、業務時間内はすべて患者さんに直接対応するという「チームの仕事」しかできず、自分に割り当てられた書類仕事や係の仕事はすべて後回しにしなければなりません。大きな病院で、看護師の数が十分に揃っていて、業務分担がクリアに分かれているところであれば可能かも知れませんが、民間の中小病院でギリギリの人数で毎日の業務をまわしている施設にとってみれば、分刻み、秒刻みで次々とやってくる外来患者さんや入院の対応、手術、検査、処置、清潔ケア、医師の指示受け、患者さんからのナースコールの対応と、まるで座っている時間などありません。やっと一段落して記録を書こうと思っていると、面会に来た患者さんのご家族に声をかけられて対応していたら、結局次の処置やおむつ交換なんかの時間になっていて全く何もできなかった、などということもしばしばです。

 ではなぜ、他職種は時間内労働があたりまえで、看護師は時間外に仕事を残すのがあたりまえという、常識を逸脱した状態になってしまったのか。

 日本はこれから、老いて死んでいく国家です。子供が生まれず、高齢者人口が増え、その人達が大量に死んでいく多死社会を迎えます。生産人口が減少することがわかっているので、国は医療費を抑制しようと躍起になっています。医療費抑制のための方策はいくつかありますが、単純に考えれば病院を受診する患者数を抑制できれば、全体的な医療費は抑えることができるため、国は病院の数(ベッドの数)を減らそうとしているのです。中小病院はそのターゲットとなっていて、国が目指す医療の方向性と違う診療を続ける病院は、自然とやっていけなくなってしまうシステムを作り上げています。診療報酬という形で締め付けを行い、医療費のかかる急性期病院を減らそうという考えです。

 病院の中でも一番人数が多いのが看護師であり、診療報酬の基本的な部分は、看護師一人あたりの患者の数で決まります。看護師の数が多ければ一人当たりの看護師が受け持つ患者の数が少なくなり、必然的に看護の質が上がるため、診療報酬は手厚くなりますが、看護師の数が少なければ一人でたくさんの患者を看なければならないので、質が劣るとみなされ診療報酬は抑制されます。診療報酬の中の入院基本料と呼ばれる土台部分が多いか少ないかによって、その病院の収入は大きく異なってくるため、生き残るためにどの病院も、できるだけたくさん収入が得られる入院基本料を取りたいところですが、人件費は最も経営を圧迫する支出項目のため、たくさん入院基本料を取れるライン以上に多く看護師を抱えることはしません。診療報酬が多い入院基本料を取るということは、つまりその分看護師に求められることも多いということです。しかし、前述したように看護師の仕事というのは、その日の患者の数や手術や検査、入退院数や患者の重症度、転院や転棟などの数によって大きく変わってきます。それこそ、お昼休憩を取る暇もなく、夜勤では仮眠は愚か食事も取らずに夜通し働き詰めということもあります。たとえ看護師の人数が多かったとしても、必ずしも余裕があるかというと、そんなことはないのです。

 なので、きりきりと忙しく働いて、勤務時間が終わったあとで、ゆっくりと自分の仕事に集中して取り掛かるというパターンが、ずっと昔に出来上がってしまいました。電子カルテが主流になった今では、看護記録を患者ラウンドを行いながら書くことができるようになりましたが、中にはPC操作が苦手なスタッフもいますし、端末の数が不足することもあります。要するに、労務環境が整っていないところもあるということです。

 このような社会情勢の中で、病院で働く看護師たちは、その日自分が担当する患者と向き合い、なんとか時間内でマルチタスクを終わらせようとしています。その間に患者や家族からいろいろな要望があり、すぐに対応できないとクレームという形で帰ってきてしまうこともあります。彼らは必死で日々の業務をこなし、疲れ果て、やがては離職という選択肢を選びます。人員が減少し、その分を補うために今いる人達が必死になって働き、その人達がまた疲弊してやめていく。慢性的な人員不足のスパイラルの中で、「今」のことしか考えることのできない看護師たちに、視野を広くもてというのは、なかなか難しいことなのかも知れません。

 過酷な状況で飼い慣らされて、病院側からは人件費削減のターゲットにされ、考える力すら失っていく看護師の、なんと多いことか。こうやって思考力を奪われ、非常識な環境の中でそれが普通だと刷り込まれていく。私が新卒だった平成の始まりから約30年、平成が終わろうとしている現在までその図式が大きく変化していないということは、危機的な状況であると私は思います。

 そうやって世間を知らず、一生懸命病む人々に尽くす彼らは、ある意味非常に純粋です。こどものメンタリティのまま大人になり、老いていくので、偏った考え方の年寄りになってしまった一部の人達を、私はたくさん知っています。

 そういうふうにはなりたくないなぁと、だからこそ組織を離れよう、離れたいという気持ちが加速度的に強まっていく、今日このごろなのです。

 

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