Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、ア…

Makoto Shirasu

「毎日をていねいに暮らす」を大切に。 興味の中心は「生命・自然・調和」。哲学、アート、デザイン、サイエンス、音楽、ヨガなど幅広く。 総合商社 → AIエンジニア → 事業統括・PM・事業開発・サービスデザイン@startup → 自由に。

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「情的にわかる」ということ

身体というのは本当に不思議なもので、自分で自分の身体をどうやって動かしているのか説明ができないのですが、でも動いている。目や口や鼻、手足指先など、目に見えて意識の届く範囲ならまだしも、身体の内側はまったくもって、どうやって動いているのかわかりません。けれども、生命を支える数多の働きが、自分の意識の外で調和しながら進んでいる。本当に不思議なものです。 毎日ストレッチをしても、朝起きて目が覚めたら元通りに固くなっている。 またじっくりじっくりとほぐしてゆくわけですが、最初は不

    • 沈黙とは「語ることなく語る」こと。

      時折、言葉に詰まってしまうことがあります。決して語る事がないのではありません。語る言葉が見つからないのです。 ふと、「沈黙」とは「語ることなく語る」ことではないだろうか。そのようなことを思うわけです。 そして「語ることなく語る」ことは、生物も無生物も関係ない。身のまわりには、語ることなく語っている物事にあふれています。 例えば、日常的に使っているものの様子の変化。靴の踵のすり減り、食器の輝き、服の生地の質感(張りやシワ)、皮製品の色の変化などなど。それらは語ることなく自

      • 肯定でも否定でもない〜両否の論理・静観・中庸〜

        あれかこれか。白か黒か。 物事を「二項対立」的に捉えることは、日常生活の隅々に根付いているように思います。このように捉えることは「どちらかを選ぶ」いや「どちらかを選ばざるをえない」構造や力学を生み出して、ある意味では「割り切る」というか、何かしらの形での状況の打破をもたらすわけです。 ですが、時にそれは「無理」を生み出すことにもなるのではないか、と思うわけです。本来は割り切れない物事でも割り切ってしまうのですから。世の物事、簡単に単純に割り切れるようなことばかりではなく、

        • 言葉との距離を縮めてゆく、ということ。

          ふと「もっと適切な言い表し方があるのではないだろうか」と思うことがあります。 「前も同じ事を話したような気がする」とか「同じ事を繰り返し言い続けている」と感じる時、おそらくその物事は自分にとって何か大切な引っ掛かりがあるのですが、同じ言い回しを続けていると単調に感じてしまうのです。 はっきりとは姿の見えない「大事な何か」を中心軸として、周回軌道する衛星のように眺めてみたい。物事の眺め方というのは、言葉の引き出しの数だけあると思うと、言葉の引き出しを日々増やす習慣を身につけ

        「情的にわかる」ということ

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        • 生命
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          「足るを知る」ということ。〜細く長くゆっくりと呼吸する〜

          何か大きな変化の渦の真っ只中にいる時というのは、余白を作り、ゆったりと構える。呼吸を止めないように自分の内側を静かに見つめていると、自然と落ち着きを取り戻してゆくように思います。 「あれもこれも」を手放して、まずは空っぽになると、大切な物事が自然と引き寄せられてゆく。 今日もヨガに取り組みましたが、呼吸が深く入らない日でした。呼吸を入れようと入れようとすると、逆に身体が緊張して呼吸が入らなくなるのです。 そのような時は多くを求めず、身体をリラックスして「細く長くゆっくり

          「足るを知る」ということ。〜細く長くゆっくりと呼吸する〜

          教育とは「教わり、育つ」ことではないだろうか。 〜使い慣れた言葉を新鮮に感じる〜

          「教育とは教わり・育つ」ということなのではないだろうか。 穏やかで爽やかな青空のもと、春の嵐のように吹き荒れる強い風に抗うように必死で歩いていると、ふとなぜか思い浮かんだのです。 教育の考え方は様々あると思いますが、「誰かが誰かに何かを教え、育てる」という一方向的なイメージを描くことが多いのではないでしょうか。ですが一方向な関係性だけではなく、本当は「双方向的で対等な関係性」も含まれているけれども、暗黙のうちに捨象されているということなのかもしれないと思うわけです。 「

          教育とは「教わり、育つ」ことではないだろうか。 〜使い慣れた言葉を新鮮に感じる〜

          「物」を取り囲む環境まで含めて「事物」という。

          春。 道端に色とりどりの花が咲きはじめ、外を歩いているだけで気分が和む季節になりました。 晴れの日、曇りの日、雨の日。 いつもの同じ道を歩いて、今日もまた咲いている花をじっと眺めていると、降り注ぐ光の明るさによって、花々の鮮やかさ、印象は変わってくることに気がつきます。 風のそよぎ方によっても印象は変わってきます。 風の強い日、やわらかな風がそよぐ日、無風の日。 風の強い日はじっと耐え忍んでいるような揺れ方、やわらかな風がそよぐ日は優しく語りかけるような揺れ方、無

          「物」を取り囲む環境まで含めて「事物」という。

          言葉は便利であるがゆえに不便でもある。

          言葉は便利である。便利であるがゆえに不便でもある。そんなことを思うわけです。 もしも言葉が存在しなければ、自分を取り巻く世界、環境は混沌としたものになっていて、あらゆるものが「それ」「あれ」と表現せざるをえない、いや「それ」とか「あれ」とすら表現することができません。 言葉は物事、事物にラベルを与え、混沌とした世界を文節化することで秩序を生み出してゆくわけですが、では「あらゆる物事、事物を言語化することはできるのだろうか?」という問いが浮かんできます。 言葉による文節化

          言葉は便利であるがゆえに不便でもある。

          変化と状態が織りなす円環〜呼吸は姿勢に従い、姿勢は呼吸に従う〜

          "Form follows function." とは、建築家のLouis Sullivan(ルイス・サリヴァン)による格言で「形態は機能に従う」と訳されることが多いようです。 今日もまたヨガを通して感じていることを綴りたいと思うわけですが、ヨガにおいて大切な「呼吸」が「姿勢」つまり身体の状態と密接に関係していることと、"Form follows function"という言葉が重なっているのではないかと思うのです。 「呼吸は姿勢に従い、姿勢は呼吸に従う」 一方通行ではな

          変化と状態が織りなす円環〜呼吸は姿勢に従い、姿勢は呼吸に従う〜

          日常生活に偶然性を取り入れ、自分の枠を超えてゆく。

          今日もまたヨガを通して感じたことを綴ります。 自分の身体は日々変わり続けていて、だからこそ毎回何かしら新しい発見や気付きがあるので、いつも新鮮な気持ちで飽きることがありません。 私が通っているヨガのレッスンでは、いつも決まった順番で決まったポーズを取っていきます。シークエンス(進み方)が固定的であるがゆえに、それをモノサシとして自分の変化に気付いてゆけることは、ルーティンの楽しみだと感じています。 反面、固定的なシークエンスは次の動作を予測可能にするとともに、過去の体験

          日常生活に偶然性を取り入れ、自分の枠を超えてゆく。

          守破離、秩序と無秩序のあいだ、表と裏。

          先日、「生命は秩序と無秩序のあいだにある」ということを綴りました。 「秩序と無秩序のあいだ」は、空間的・静的に捉えるのではなく、時間的・動的に捉えてゆくことが大切なように思います。秩序をつくり、環境変化に応じて築いた秩序を壊していく。その円環、繰り返しの連続、螺旋的な発展によって生命は自らの存在を維持している。こうした円環構造は「守破離」の精神にも通じているように思います。 「守破離」は何かしらの「型」を学び、その型を熟知する(守る)。型とは構造であり、構造には中心軸とな

          守破離、秩序と無秩序のあいだ、表と裏。

          「比べようのないことを比べない」ということ。

          「あの人のようにできたら…」 憧れ、うらやましさ。そのような気持ちは、自分が前へと進む力になることもあれば、時として自分を縛る足枷になることもある。いわば諸刃の剣のように思うわけです。 今日も少しばかりヨガの話です。私はヨガスタジオに通って、色々な方と同じ時間、空間を共有して、身体を動かしています。スタジオには一面に鏡があり、皆さんそれぞれ自分の身体が映っていて、いま自分の身体がどのような状態か外から観察しつつ、時に姿勢を修正しながら、それぞれのヨガを深めておられます。

          「比べようのないことを比べない」ということ。

          生命は「秩序と無秩序のあいだ」にある、ということ。

          「安定ゆえに不安定、不安定ゆえに安定」 昨日はそのようなことを綴りました。 型にハマりすぎると窮屈で飽きてしまうし、型がなければそれはそれで方向性が定まらない状況が続いて疲れてしまう。そのようなことを思うわけです。 それはつまり、自然に任せておくと、いずれにせよ物事、事物は「崩壊に向かっていく」というのか「沈んでいく」ような力が働いているのではないか、と思うわけです。 崩壊するから再生がある。菌による物質の分解、循環を思わせる世界がある一方、生物の命は失われてしまえば

          生命は「秩序と無秩序のあいだ」にある、ということ。

          安定ゆえに不安定、不安定ゆえに安定。~身体と呼吸の観察から~

          生きていく中で最も大切なことの一つは「呼吸を続けてゆくこと」であると思います。呼吸が止まった時間がある限界を超えてしまえば、たとえ呼吸を取り戻したとしても、身体には深刻な影響が残ってしまいます。 ヨガを続けていてよかったと思うことの一つは、呼吸の大切さを身をもって知ることです。 たとえば、デスクワークなどで同じ姿勢が続くと身体が固まってしまい身体が思うように動かないとき。そのようなときに頑張って身体を伸ばそうとすると、身体が力んで、緊張で呼吸が止まってしまうことがあります

          安定ゆえに不安定、不安定ゆえに安定。~身体と呼吸の観察から~

          「地域性」とは「場の呼吸」ではないだろうか。

          地域、ローカルという言葉がありますが、この言葉にふれた瞬間に何を想像するでしょうか。どことなく緑豊かな田園風景、ゆったりした田舎、活気ある下町。たとえば、そのようなイメージでしょうか。 一方、私は無意識のうちに区別してしまっているような気がする高層ビルが並び立つような、いわゆる「都市部」や「都心」は地域、ローカルに含まれないのだろうかと考えてみると、それはそれで違うように思います。 地域性、ローカルという響きからは、虫眼鏡や顕微鏡で範囲をしぼりながら解像度を上げてゆくこと

          「地域性」とは「場の呼吸」ではないだろうか。

          「適切な量を測る」ということ。

          植物が育つためには少なくとも「水・光・空気」が必要だけれど、これは人も同じではないかと思うのです。 当たり前のことのように思われますが、「ではどの程度の量があれば十分なのだろうか」と考えると、少なすぎても多すぎてもいけない、適切な量があるはずです。 水がなければ枯れてしまうし、与えすぎても枯れてしまう。光がなければ光合成ができず、強すぎる光は有害であるし、空気がなければやはり光合成はできないし、(二酸化炭素のように)多すぎても害となります。 この「適切な量」はどのように

          「適切な量を測る」ということ。