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【Book Review:4】分かり合えないかもしれないけれど、分かり合いたい。まずは同じ時間と空間を共にすることから。

1. はじめに

目に留めてくださり有難うございます。

私がある本と出会うことで「それまでの自分の思い込みがどのように壊れたのか」「何かと何かがどのようにつながったのか」について綴りたいと思います。

今回は「わかるとは?」について書かれた本を読んで、感じたことを綴ります。

2. 今回取り上げる本

「わかる」とはどういうことか -認識の脳科学-(山鳥重)

<目次>
第1章:「わかる」ための素材
第2章:「わかる」ための手がかり - 記号
第3章:「わかる」ための土台 - 記憶
第4章:「わかる」にもいろいろある
第5章:どんな時に「わかった」と思うのか
第6章:「わかる」ためにはなにが必要か
終章 :より大きく深く「わかる」ために

みなさん、どのようなことが思い浮かんできましたか?

例えば、第5章。
「どんな時に "わかった"と思うのか?」と問われると、自分の過去を振り返って、「そう言われてみると、どんな時だったかな...」とつい考えてしまいます。

例えば、幼い頃に補助輪を外して自転車を漕げるようになった時。

それまでチグハグだった頭と体の全てが一つになって、「乗り方がわかった!」という気持ちになった記憶があります。
「わかった後」というのは、「わかる前」の自分とは別人というか、感じる世界が全く異なっている気がします。

目次から本の内容を想像してみたり、思い浮かんできた何かについてほんの少しだけでも自分の心と時間を配ってみるのも、本の楽しみ方の1つだと思っています。

3. なぜこの本を手に取ったのか?

前回は「漢字の字形」を取り上げ、ルーツを辿り本来の意味に触れることは価値がある、シンプルに抽象化することの意味について触れました。

私たちは親しんだ文字を見ると、その文字が何を意味するのか「わかる」のですが、そもそも「わかるって、どういうことなんだろう?」という疑問が湧きました。

脳科学的に考察した本書は「人が"わかる"上でのメカニズムを解き明かしてくれるのではないか」と期待して、手に取ってみました。

4. 感じたこと

①差異の積み重ねがモノサシを創り、モノサシで測ることによって世界を分かつ(分かる)ということ。

筆者は「わかるの基礎は区別なのです」と説きます。
該当する箇所を引用してみましょう。

知覚のもっとも重要な働きは対象を区別することです。
(中略)
この、「違いがわかる」という能力が知覚の基本です。
そもそも、わかるとは「分かつ」と書きます。わかるの基礎は区別なのです。
ランドルトの環や色合いの違いはいちばん単純な例ですが、刺激がうんと複雑になっても、原理は同じです。
(中略)
味でもそうです。
利き酒の専門家がいます。ワインの世界ではソムリエとか呼んでいます。お酒の微妙な味の違いを区別し、評価出来るひとたちです。何百ものよく似た味を舌で区別出来る人たちです。誰も初めから出来るわけではありません。筆者など、どのお酒も似たような味にしか思えません。似たような味を区別し続けることで、もともと備わっている区別の能力を高めてきたのです。

近頃、ふと「言葉の差分」を考えるようになりました。

例えば、「データと情報の差分は何だろう?」とか「豊かさと幸福の差分は何だろう?」などなど。

差分を考えてみると、「日常的にいかに自分が言葉を曖昧に使っているか」ということに気付かされます。

そして、思い返してみると、何かの違いが分かるようになった時というのは確かに「自分の中に差異を蓄積していたのだな」と思うことがあります。

学生時代に楽譜も全く読めない状態からサクソフォーンを始めたとき、プロの奏者のCDを何度も何度も聴き込んだり、コンサートに足を運びました。

すると、ある日突然「この音は●●さんの音だ!」とか「このプレイスタイルは●●さんだ!やっぱり」と違いが分かるようになっているんですね。

同時に「この人の音は透明感があって、しっとりしているな」とか「この人の音は少し乾いた感じがするな」という音の個性にも気付いて、何かしら言葉で表すようになっていました。

「実際に聞こえる音」と「自分の記憶にある音」を重ね合わせているのだと思います。

また、「差分は自分の外側だけではなく、自分の内側にもある」のだと思います。

私はかれこれ7年ほどヨガスタジオに通っていて、毎回決まった時間内に同じ動作をするのですが、その動作がモノサシとなって「自分の身体の変化(差分)」に気付くことができるのです。

「ルーティーンとは、自分の内側にある差分に気づく営み」と言えるのかもしれません。自分の身体の調子は日々変わるからこそ、同じ動作をしていても全く飽きないのです。

差異を積み重ねて自分のモノサシを創る。
モノサシで測ることで世界を分かつ(分かる)。

そうやって、人は自分の内と外、世界を分かろうとしているのですね。

さて、横道に逸れますが、街を歩いていると、たまに親子のこのような会話が聞こえてきます。

親「いい?わかった?わかったら返事して。」
子「はい」

どこか虚しさを感じるのは私だけでしょうか。
相手に分かってほしいと思うとき、皆さんならどうしますか?

②「分かち合う」ということが「分かり合う」ということ。

わかる、わかったという経験の第一歩はこのように、まずなんといっても言語体験です。ある音韻パターンと一定の記憶心像が結びついていれば、その音韻パターンを受け取った時、心にはその記憶心像が喚起されます。

つまり、わかるためには自分の中にも同じ心像を喚起する必要があります。ひとりよがりの心像を喚起したのでは相手の言葉はわかりません。そして、相手と同じ心像を喚起するためには、その手段である言葉と言葉の意味を正しく(言い換えれば、社会の約束どおりに)覚えておく必要があります。

単純なことですが、記憶にないことはわからないのです。

言葉(記号音)の内容(記憶心像)を形成しておかないと、相手の言葉を受け取っても、心には何も喚起されません。相手の発した言葉はそれだけでは単なる音です。聞き取る側にも同じような音がむなしく反響するだけです。

「わかる」は言葉の記憶から始まります。そして言葉の記憶とは名前の記憶ではなく、その名前の「意味の記憶」です。

「単純なことですが、記憶にないことはわからないのです」

この言葉に触れた時、吹奏楽部で音楽に打ち込んでいた学生時代の頃の記憶が甦ってきました。

もし誰かが私に「あなたにとって練習するとはどういうこと?」と聞いたら、私は学生時代の練習を思い返しながら答えるんだと思います。私の意味の記憶です。

相手には"ありのまま"は伝わらないかもしれないし、分からないかもしれない。
ですが「同じ時間を共に過ごした仲間との間では、分かり合える気がする」んです。あの時の練習の意味が。

話は横道に逸れますが、現代社会は、無数の言葉や情報に溢れています。
どんなに離れていても一瞬でやり取りが出来てしまう。
不特定多数の人とつながることも出来てしまう。

オンラインとオフラインの流れの中に生きる私達にとって「わかるとはどういうことか?」を超えて「わかりあうとはどのようなことか?」という問いを立てる意義は大きいように思います。

自分と他の誰かは別人であり、究極的には分かり合えないかもしれないけれど、それでも「わかりあう」ために必要なことがあるとすればそれは何でしょうか?

共に楽しんだり、悲しんだり、悩んだり、笑いあったり。
何かを「分かち合う」「共有する」ということ。
その中でカタチづくられた「意味の記憶」が、人と人の間に「わかりあう」状態をつなぐ架け橋のように思えます。

そして「意味の記憶が熟成する時間」とでも言いましょうか。
共有されていると言えるに足る意味の記憶が作られる上では、相応の時間の積み重ねが必要な気がしてなりません。

最後に、出会った中で印象深かった言葉を引用させて頂きたいと思います。

教えてくれ。
わたしは忘れるだろう。
見せてくれ。
わたしはきっと覚えない。
巻き込んでくれ。
わたしは理解するだろう。

出所:心に残る、ネイティブ・アメリカンの言葉21選。「知識は過去。 知恵は未来だ」

5. お礼、次回取り上げる本(プレイ・マターズ)

今回は、「わかるとは?」について感じたことを綴りました。

さて「意味の記憶」が共有される時とは、どういう時なのでしょう?

私は、「一緒に創意工夫をしながら取り組んだ経験を伴っているのではないか」言い換えれば「遊びの要素があるのではないか?」と考えています。

次回は「プレイ・マターズ」(著:ミゲル・シカール)を読み、「遊びとは何か?」という問いを掘り下げ、感じたことを綴りたいと思います。

最後までお付き合い下さり有難うございました。

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