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深い底へと

閉められた窓たちがガタガタと震え、どこからか隙間風が入り込み、家の中では笛のような音が響いている。風が強く、雲の多い晴れの日である。それなりに古い家なので、若干の隙間風などは仕方がない。
昨日の疲れのせいか、体が重い。起き上がりたくない。
今日の仕事は休みだ。いつもより起床を遅くするもしないも好きにしていい。私はしばらくの間ベッドの上で風の音に耳を傾けながら、天井を眺めていた。
昨晩の出来事が夢のようだ。
月明かりに照らされた寺院と川、初めて出会った異国の景色たち。
あの不思議な夜間旅行は実際の出来事だ。頬に触れた冷たい風と煌めいた景色が思い出される。
ボダイはまた私が望めば、どこかへ連れて行ってくれるだろうか。いや、是非とも連れて行ってもらおう。あんな素晴らしい体験に出会える機会をみすみす逃す様な真似はしたくない。
それに、あいつにとっても悪い事ではないだろう。
次はどこに行こうか。

起床して外出の準備をすると、次に旅行する場所の目星をつけるのと、情報を集める為に書店に向かった。
書店には中古のものだが所狭しと本が棚にぎちぎちと詰まっており、通路には本の上に本が置かれそのまた上に本が置かれ…、といった具合に平積みされている箇所さえある。
私は数多くの本たちの中から、異国の地を紹介している物が集められた場所で目当ての物を探し始めた。古めの本ばかりだが、できるだけ新しいものがいい。紙が劣化して黄色に染まっている物は全て除外。なるべくうっかりしたボダイが目撃される事を避ける為に、あまり知る人のいない秘境なんかが好ましいのだが…。それでは条件が厳しすぎるだろうか。
そう考えながら本棚に並ぶ商品を物色していると、聞き覚えのある陽気な声に名前を呼ばれた。振り向くと、積まれた本と本の間の通路から美術館で警備員をしている知人の男が現れた。赤く艶やかな頬をした男の手には、女性の写真集が数冊あった。あー…。
「…なにか用か?」
「珍しくご機嫌な様子だったから、声をかけてみたのさ」
「そうか」
昨晩の事を軽く自慢でもしてやりたいと小さな衝動に駆られたが、そんな大人げない事をするのは控えるべきだと考え、堪えた。
しかし、男はとくに言及してくるわけでもなく、勝手に笑って頷いている。…ろくな事を考えちゃいなさそうだ。業務的な連絡をつげて、その笑顔に別れを告げようとした。
「頼まれていたシャツだが、いつでも取りにこい」
「おう。わかったぜ。ありがとさん。ところでよ…」
男は私に小声で雑談を求める事をやめなかった。よく動く口だ。口周りが筋肉痛にならないのだろうか。いっそ雑談相手をする事で金を請求しようかとも思ったが、この男とは付き合いがそれなりに長いので、それはまたの機会に持ち越すとする。
私は男の長々とした雑談に、手頃な合間を見つけては適当に相づちを打ち、さよならをいうタイミングを見計らい続けた。
しかし陽気にくだらない雑談をしていた男の口調は、警備の仕事に話が移ったあたりで、珍しく少しだけ真剣味を帯びてきた。
「ところで、ここらへんの治安、本当に悪くなってきてるみたいでさ。強盗とかひったくりが多発してるみたいだぜ。人口増加が一因にあるとか新聞に書かれててよ」
「…そうか」
新聞というのは、世間の情勢等を読み取る為の手段だ。新聞社から印刷されたぺらぺらした灰色の紙束を、駅前などを中心に小遣い稼ぎのため少年たちが売っているのを見る。基本的に家の中で全ての仕事や作業を済ませるような私にとっては、貴重な情報源だ。人口増加による治安の悪化は前から言われていたが、そんなにもひどくなってきているのだろうか。
「つい、この間も私の家に泥棒がきたな」
「聞いた。ぐるぐる巻きにして窓の外に放り出してたんだろ?流石だな」
男はうんうんと頷き、純粋に私に対して感心しているようだ。この男は私のことを、あらゆる物事に冷静に対応ができる、よく出来た大人としてみているようだった。
「いや、運がよかっただけだ」
そうだ。運が良かったのだ。正直言うと、泥棒と面と向かって対面なんていうのはごめんこうむりたい。私は周りの住民と比べたら身長は高い方だが、特別力があるわけではないのだ。あの時は泥棒が勝手にボダイに出くわして発狂してくれたおかげで無難に終わらせれたが、ボダイがいなかったとしたら、ああはいかなかっただろう。相手が刃物なんかを所持していれば、私は大人しく白旗をあげよう。
「まぁ、夜の道とか気をつけろよ。お前は一人暮らしなんだし」
警備の仕事をしているからだろうか、この男は治安の悪化を身近に感じているのかもしれない。同業者からの口から伝わる情報網なんかもあるだろう。男の言う通り、用心にこした事は無いだろうから、家の戸締まりは徹底するか。
「お前は、夜に仕事があるだろう。そっちの方こそ気をつけるんだぞ」
そう言葉を残すと、私は男と別れを告げた。
治安の悪化か。美術館に本当に絵画泥棒なんかが現れないといいのだが。
この時、私は自分に被害が及ぶ事はあまり考えていなかった。

本を一冊だけ買って家に帰ってくると、長い体の表と裏をひっくり返し、天井を這うように歩くボダイに出くわした。
「ただいま」
「ヲカエリ」
空を飛ぶ様な奴だから天井を這うなんてのは朝飯前なのだろう。通路が狭くならないからこれはこれでいいかもしれない。
私はさっそくアトリエに入ると、購入した本を本棚にしまった。
さて、今日という一日をあの男の雑談と本の買い出しだけで終わらせるのも、なんとなくもったいない。せっかくの休日だ、何かつくろうか。
そう思いながら椅子に座り、目の前の机についている引き出しの中を適当にあさっていると、ガラスでできた人形用の目玉を二つ見つけた。私や私の祖父はとくにいらない物でもなにかの材料になりそうだと考えたら溜め込むという似た癖があった。私と祖父のそういった根拠のない思いつきで、とくになんの意味も無いものがあちこちにしまわれており、時々そこらへんを漁るとこうしてまるで偶然のように発掘される。この目玉もそういったものの一つだ。少しホコリや汚れがついているが、丁寧に磨けば綺麗になるだろう。
私はふと思いつき、ピアスの部品を取り出して簡単な作業を始めた。
いつの間にかボダイが私のすぐ後ろまで来ており、背後から私の手元をじっと見つめている。
今から私の手元で何が作られるのか楽しみでしようがない、といった雰囲気が背中越しに伝わってくる気がした。
作業をゆっくり進めながら、私はいつものように質問を投げかけてみた。
「お前は、昨日の寺院のような場所に住み着こうとは思わないのか?」
「今は思わない」
「何故だ?」
「私がいると気づかれると、そこは大抵混乱するのだ。酷い場合はその混乱に乗じて争いが起きる」
「人間たちに混乱されるのは嫌か?」
「いや。あたりまえの反応だ。慣れてる」
「なら…」
「発狂し理性を失ったものどもは遠慮がないからな、混乱のまっただ中では物がたくさん破壊される。そのなかに、ああいうものがあると、私はとても嫌だ」
「なるほどな」
つまり、以前はそういう事もしていたが、自分を撃退する事に躍起になった人々によって、そこが荒れてしまった経験があるから、控えているといったとこか。
なかなか論理的な理由だった。
だとしたら、今こうして私という家主に許可をもらって平然と住み着けているのは、こいつにとってはだいぶ稀なことなのだろうか。恐らくそうなのだろう。
そう考えると、こうして身近で物が作られる制作行程が見れるというのも、こいつにとっては貴重なことなのかもしれない。
ボダイの禍々しい目に、今の私の目は輝いて見えているのだろうか。
目玉をきれいに磨き終えると、ピアスの部品を取り付ける。目玉の表面を覆う薄いガラスにヒビが入らないように気をつけながら作業をすすめる。作業に真剣に、慎重に、集中する。
細かい作業をするときは、体の僅かな揺れさえも邪魔になるので、呼吸を止めて手を動かすことがある。
できた。息を軽く吸い込む。
「お前にやろう」
私は完成品である目玉のピアスをボダイに差し出した。
本物の目玉ほど綺麗とは思われなくとも、お前の大好きな目玉を模した物だ。
ゴボッという音とともに、ボダイの体が石像のように固まった。微動だにしない。驚いているようだ。しかも、今まで見た事が無いくらいに。
ようやく動き出したボダイは恐る恐るといった調子で腕を振るわせながらこちらに伸ばすと、器用にピアスを受け取った。
「お前は私の家に来てから驚いてばっかだな…」
「オドロク、ソレ、家にきてから、バッカダナ?私は来てから、お前の家でばかり、驚いている?」
「…おちつけ」
初めて話した時のような、酷くまとまりの無い解答が返ってきた。これは、混乱しているのだろうか。もしかして、こういったプレゼントは初めてだったのだろうか。そうなのかもしれない。いや、そうなんだろう。
「ピアスではあるが、どこに飾ってもいい。そもそもお前に耳なんてものは見えないしな。好きにしてくれ」
私がそういって笑いかけると、ボダイは「わかった」という代わりにゴボゴボという音を立てた。
ボダイはその晩、アトリエに籠り、私が寝るまでピアスを眺めていた。
私は晩御飯に、トーストに野菜と肉を挟んで食べようとしたが、トーストが切れていたため、茸サラダと肉と茸をボイルして、少量のスパイスをかけた物を食べた。

ひんやりとしたベッドと布団に体を預けると、私の体の温度が伝わって徐々に温かくなっていく。
ベッドという限られた領域のなかで、温かい布団に包まれると安心する。次第に心の緊張も解かれていくようだ。
考える事もなくすぐ眠りに着く日もあれば、今日のように色んな事を思い出す日もある。
夜。
夜は静かでいい。
五月蝿いのは嫌いだ。
静かで穏やかな時間を過ごせる、ということは、自分のまわりにそれだけ厄介な事がない、という事なのだから。
厄介な事が嫌いな私は知り合いなどを持つ事は、極力最低限の域で抑えているつもりだ。
特に感情豊かな奴は、それだけつきあうのが面倒くさい。
母がそうだった。
母と父は仲が良かった。愛し合っていたんだろう。私のなかではそういうことにしてある。
しかし、母は何かとヒステリックになりやすい人だった。
何か不満があると声高らかに不満を言い立て、悲しい事があると泣きわめいていた。
キンキンとした高い声で、耳が痛くなる事が多々あった。
母の感情には倫理もへったくれも関係なかった。
とにかく自分が気に入らないからと叫んでいた。
甲高い叫び声はやがて獣の雄叫びのようになり、最終的には何を言ってるのか理解できなかったくらいだ。
酷いと手当り次第に物を壁に投げつける事だってあった。窓辺に置かれていた花瓶は毎週形が変わり、ふと気づいた頃には窓辺から消えていた。
父はそんな母をなだめる事が得意だったが、父が仕事にいっている間はどうにもできなかった。
私はというと、母の扱い方を心得ていなかったので、ほとんどお手上げだった。
一種の障害かなにかだったのかもしれないが、私は詳しく知らなかった。
近所の人たちが、そんな母を理解して、私と父に優しく接してくれたのは今思うととてもありがたい事だろう。避けてくれてもよかったのだが。夜の食卓で、父は疲れた顔を窓からさす月光に晒す姿を月に一度は必ず見た。しかし、そんな優しい人たちに囲まれていたから、父と母は最期まで愛し合えていたのだろう。
…ともかくそんな家庭だったからか、私はよく離れた所にあるこの町の祖父のもとに預けられていた。
母のヒステリーが悪化して、私に酷い怪我をさせる事を、母は恐れていたと父が話していた。
私は母の五月蝿い声によって耳と頭を痛める事が減って良かったと、軽い気持ちでそう思っていた。
父と母と接するより、一日を祖父と過ごした時間のほうが長かった。
祖父はとても静かな人で、必要以上の事を話さなかった。
業務的な連絡、質問に解答。家庭の話は一切しなかった。
面倒くさい家庭の事情から解放してくれた祖父。私は態度ではあまり示さなかったものの、心では祖父にとても懐いていたと思う。
自分の職である仕立ての作業に真剣に取り組む祖父はかっこいいと、幼心に私はそう思って眺めていた。
あの頃は何かを作り上げていく祖父の手は金色に輝いてさえ見えたのだ。
私は祖父の傍らで、祖父から服に使われなかった余った切れ端を貰い、何も考えずに布と布を縫い合わせる無意味な作業にいそしんでいた。今思うとなんとも微笑ましいことだ。
祖父が亡くなった日、私は祖父の家で仕立ての仕事に着く事を父と母に話した。父は反対しなかった。母は私に対して言葉にならない叫びを浴びせていたが、父のおかげで落ち着いてくれた。
私がすっかり祖父の家を自分の家として過ごせるようになったころ、父と母はぱたりと亡くなった。
手紙で知った。死に目には立ち会えなかった。
父と母は仲良く一緒に過ごし、仲良く一緒に逝った。
結局最期まで母が私に物理的な暴力を働く事はなかった。
母は苦手だったが、悪い母にはならなかった。
私の周囲は本当の意味で静かになった。
心に穴が空いたような寂しさは、やがて日常とともに埋まり、毎日を快適に過ごしていた。
私の手元にあるのは、この祖父からついだ仕立て屋だけだ。
ところが、最近長くて大きいボダイという名の同居人ができた。
時々ドアの向こうからゴボゴボと何とも言えない音が聞こえてくる。同居人は私からの贈り物にとても喜んでくれたようだ。また、どこかへ連れて行ってくれたらお礼として作ってやろうか。
何を作るかぼんやりと考えていた私の意識は、しばらくすると微睡みとともに夢という名の無意識の世界へと沈んでいった。

朝、窓から入ってくる日の光が雲によってほとんど遮られている。分厚すぎる雲が空一面を埋め尽くしている。カーテンを開けて空を見上げると、鳥の群れが黒い線になって空を飛んでいくのが見えた。
私はいつものように顔を洗うと、朝食にマッシュルームと野菜を小さなクラッカーに挟んで食べてた。流石にクラッカーだと物足りなさを感じる。今日は食料を買い出しに行かなければ。
その前に仕事だ。店内を軽く掃除して、依頼された品の整理と確認をする。
その間ずっとボダイはアトリエで壁にかけられた絵ではなくてピアスをあらゆる角度から吟味していた。
ほとんど骨のようにさえみえる脚を器用に使ってピアスを転がして遊んでるようにさえ見える。
「楽しいか?」
声をかけてみる。
ゴボゴボと低い音が、まるで猫がごろごろ鳴くように響いた。
雨と休日が続いたせいか、今日はいつもより客足が多い。といっても、注文した商品を受け取りにくる客ばかりだ。
まぁ、個人で営んでいる仕立て屋だから、酷く忙しいなんて状況にはそうそうならない。
しかし、いつもより多いとなると流石に疲労がたまった。
欠かさなかった仕事向けの笑顔を時々忘れてしまうほどだ。
修理された小物を受け取りにきた女性客に、すこし元気がなさそうだと心配されてしまった。「ご心配ありがとうございます」とは返したが、そういった気分や感情などはあまり仕事などの表向きの態度で明かすのは日頃から気をつけていただけに、自分が少し情けなく思えてしまった。
閉店すると、まずは軽く店先を掃除した。床についた砂と足跡が、今日の苦労の証だったが、箒で全てきれいさっぱり掃除した。それから会計までやって、仕事内容を整え、やるべきことを終えたらそのままとっとと寝てしまいたかったが、今日は食料の買い出しに行かねばならない。今晩はまだしも、明日の朝まで食料が無いとなると、さすがに辛い物がある。クラッカーは昼にお菓子代わりに食べるのはいいが、朝ご飯の代わりにはならないと解っているのだ。
私は疲れた体を引きずって、お金の計算などの雑な仕事は後回しに、買い出しに出かけた。

仕事の終わりに出かけ、トーストのためのパンと野菜と、先日からまるで減っているように見えないマッシュルームを漬けるために酢を購入した。肉も買おうかと思ったが既に荷物が多くなっていたのでまたの機会にしておこう。トーストがあれば、まぁ困る事はないのだ。
ふと見上げると、空は黒くて分厚い雲に覆われていた。所々から地響きの様な音とともに光が発生している。雷雲だ。降ってきそうだな、せっかくの食材が濡れてしまうのは困る。急いで帰らねばなるまい。私は若干小走りで家路に着いた。
帰ったら、ボダイはまだピアスを眺めているのだろうか。そういえば、ボダイには自分だけの家、住処等を持っているのだろうか?聞いた感じだと、なきにもしもあらずだろう。
しかし、帰る様子は今の所、ない。本当にボダイはシャンクの家にずっと居続けるのかもしれない。
別に不便はない。むしろ先日のこともあって頼もしい。もう少し話し合えば、もっとボダイのことがわかるだろう。この星の上で、あんな奴とこんな奇妙な生活をしているのは私だけだろう。まだまだ知らない事がたくさんあるのだ。例えば、…道徳。
そういえばそういう話はしていない。まぁ、次の機会に聞けば良いだろう、そう考えながら歩いていると、脇道から小柄で薄汚れた人物が飛び出してきた。
急な事だったので避けることができなかった…というより、その人物はこちらへぶつかってきたようにさえ見えた。汚れた灰色の帽子を目深に被っており、その人間の顔は見えなかったが、口元から黄色く変色した汚い歯を覗かせて小さく笑っているのだけは確認できた。
そいつは錆びのついた銀色に光る金属製の物を手に握っており、私にぶつかると同時にそれを私の脇腹の部分に押し付けてきた。ぐにゅっと、奇妙な感覚がした。
そいつは素早い動作で手と腕をひねらせると、その銀色に光る持物を私の肩の部分まで無理矢理走らせた。服が雑に裂かれる音が耳に入ってくる。すると、そいつは私に押し付けていたものを乱暴に引き抜き—それは何故か赤く濡れていた—、油断した私の持っていた買い物袋を乱暴に奪うと、小さく下品な笑い声を残して向こうへと走り去っていった。私は途中まで目でその人物を追おうとしたが、やめた。
私は立ち尽くしたまま、自分の脇腹のあたりを手で探った。手の平が濡れている感覚がした。確認すると、手の平にはべったりと赤い血がついている。
ああ、これは。
傷口が熱い。血がとまらない。口に鉄の味が広がる。体が震えている。呼吸が荒い。急に頭がぐらついた。
人を呼ぶべきか…?いや、もうこの傷では…。
そう考えている間にも、傷口の熱は増すばかりだ。
私は壁にもたれると、傷を押さえ、体を引きずるように歩き出し、家に向かった。

腹からゆっくりと溢れてくる血が、冷たい道路に私の歩んだ道を淡々と記録していた。
もうこの傷では助からないだろう。刃物の錆びは時として人体に有毒と読んだ事があるが、これもそうなんだろうか…、専門に学んだ訳ではないからわからない。
人を呼ぶ、病院に行く、警察を頼る、そういう考えも巡ったが、それらの次に、ある大きな問題が、私の頭の中に大きく浮かんだ。私が亡くなった場合…あの家はどうなるだろうか。
遺品整理だとか、空き巣だとか、私の知らない人間が入って、家の中が漁られたりするかもしれない。
それは、なんだか嫌だな。
それに、あいつは未だにあのピアスを一匹で、アトリエと私が勝手に呼んでいる部屋で、眺め続けているかもしれない。私が帰るのを待つ、という事を、ボダイはしてくれるだろうか。
いずれにせよ、あまりいい結果が浮かんでこない。
家に着くまで誰にもすれ違わなかったというのは幸運なのか不運なのか、それさえ判断できない。
だんだん寒さが増してきた道を歩き続けると、灯りの消えている自宅までなんとか着いた。
家の扉に体重をかける。震える手で鍵をにぎり、扉を解錠すると、軋む音とともに扉が開いた。扉を開け放しにして、私は床を血で汚しながら家の中へと入ろうとしたが、家に二、三歩だけ足を踏み入れた時点で足が止まった。もはや足を動かすことはできない。
「ボダイ…」
口に広がる鉄の味を我慢しながら、家の入り口付近で名を呼ぶと、暗い家の奥から禍々しい大きすぎる花びらがひょっこりと現れた。
「どうしたんだ」
ボダイは私の異常を察したようだ。足音をたてながらこちらに近づいてきた。
霞んでいく視界に世にも恐ろしい怪物が映った。見慣れすぎてもはや愛らしさまで感じる、というのは言い過ぎだろうか。
ついに立っているのが限界に達した私の体が、崩れるように倒れた。
「情けないだろう。…通り魔に襲われたんだ…」
だいぶ呼吸が辛い。酸素が充分に体中に行き渡っていないというのをはっきりと感じる。
「そうか。出血が多いな」
ボダイは淡々と私の現状を受け入れているようだ。五月蝿く喚き立てないところが本当にいい。
自分の周りに少しずつ赤くて温い水たまりが広がっていくのが感じられた。鉄の臭いさえなければ気持ちよいのだが。
「…すまない」
「何故謝るんだ?」
ほとんど無意識に謝罪の言葉が漏れた。思い当たる理由はいくつかあったが、もうあまり多くない時間が惜しい。すまないが、今はその質問に答える余裕はない。
最期。最期の言葉に相応しいシャレた台詞なんか、私には当然思いつくはずもなかった。
私は血の混じった咳を吐き出すと、声を絞り出すように言った。
「おやすみ」
そうつぶやくと、ふっと笑い、私は目を閉じた。視界は闇に包まれた。
全身から力をぬいた。体が重く、そして冷たくなる。ひどく深い湖に落ちていくようだ。もはや体は動かない。
ボダイは今どんな目で私をみているのだろうか。
「オヤスミとは…」
ボダイの声が聞こえた。この期に及んで質問か。お前らしい。
私は深く、そして酷く永い眠りについた。

シャンクが横たわっている。
顔はただ眠っているように見えたが、生気のないただの人形のようにも見えた。かつてこんな静かな死に顔を私の眼前に晒した者がいただろうか。そんな記憶は、いくらこの星のあらゆる生き物よりも永い時を過ごした私でさえ、なかった。
服を作る仕事をしていたシャンクが、服を自身の血液で酷く汚したまま永眠してしまった。シャンクは毎日朝と閉店後に店内の掃除を欠かさなかったのに、床は今やこいつ自身の血でべったりと汚れている。床に広がる血の色は深紅で、このまま放っておいたら、床一面赤く染まりそうだ。
肉体は温度を発しなくなり、少しずつ冷たくなっている。温かかった手は温もりをどこかへ置いてきてしまったかのようだ。
あっけないな。見ろ、この体の傷口を。こんなに小さい。体の半分ほどもないじゃないか。私は体にこんな傷がついてもすぐに治せる。そもそもこの星に存在する素材で作られた刃では私の体を切る事はおろか、かすり傷もつけられまい。それなのにシャンクはこんなにも柔らかい。ほら見ろ、ふにゃふにゃじゃないか。頭についてる毛なんかさらさらしている。装甲としての役割は期待できそうにない。
軽く腕を持ち上げると、先日の盗人の男や鼠のようにシャンクの腕はだらりとしていた。腕を動かそうとすれば、体の主は逆らう事その一切をやめたかのように、すんなりと私の操るままに動いてくれる。持ち上げたまま腕を離すと、当たり前の事だが床に落ちた。血の水たまりが軽く跳ねて、水面には波紋が生まれたが、しばらくすると、波紋は止んだ。
人間にしては背の高い方だったが、体の丈夫さに大きさなんて関係ないのかもしれないな。なぜもっと硬い体を持たなかったのだろうかと疑問を覚えずにはいられない。そうすればこんなあっけなく逝く事はなかっただろうに。自然淘汰の結果だろうか。質問をしたいが、シャンクの口は話すことをやめて、閉ざされている。腕を使えば単純に口だけは開く事はできるだろう、しかし、それでは何の意味も無いのだ。こいつの口は、物を食して、呼吸をして、鳴き声又は言葉を発して初めてその役割を果たす物の筈だ。
その他、全ての生きる為の機能がこんな傷のせいで、全ての活動を停止してしまった。
あっけないな。ああ、あっけない。
もう少し何かあると期待していたのだが。
こんな最期になるのか。最期。
果たして本当に、これが最期なのか?
ソレ、を、決める、の、は、誰だ…?
自分か?シャンクか…?
こいつは、今なんと言った?
ああ、そうか。
さて、これからどうしようか…。
「それでは私の好きにしよう」
ボダイは家の扉をゆっくりと閉めてから、血に濡れたシャンクの体を優しく抱き上げると家の奥へと入っていった。大量の足音が遠慮する事を忘れて家の中に響いた。

やがて外の道に生々しく残った血の跡を辿って来た警察官たちが、シャンクの家を訪れた。しかし何度も扉を叩いたが、扉は硬く閉ざされ、どうしても入る事ができなかった。
窓から家の中を覗き込もうと試みても、手持ちのランプの灯りも、月の明かりも、家の中に吸収されるだけで、なにも見えない。まるでその家自体が外から何者の侵入も干渉も許そうとしないようだった。
警察官たちは奇妙な雰囲気を纏い始めた家に酷く不気味な印象を覚えずにはいられなかった。
いくら仕事だからといえど、完全に暗黒に包まれた未知なる物に触れる事を、体が拒否するのはいたしかたないだろう。
やがて警察官は諦めて、来た道を戻ると、周りは静かな夜に包まれた。
すきま風の音さえ聞こえない。雷雲はいつの間にか去っていたようだ。
夜の闇に覆われたその町の様子は、まるで町自体が眠っているようにさえ見えた。

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