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眠りの最中で

きっと永い時間が経ったに違いない。
その間ずっと私はあいつの側にいた。
あいつもずっと私の側にいた。

澄み切った空気で町が満たされている。雲一つない晴天の早朝。
優しい白の朝日を浴びた、風に少しだけ湿気を感じる小さな通りで、あちこちから朝の生活の音が立ち始める。
水の流れる音、食器の音、野菜を切る音、焼けるパンの香り、眠そうな声、階段を降りる足音。
それぞれの家庭でそれぞれの暮らしが今日も始まるのだろう。
大きな通りでは、個性的な外観の店に取り付けられた大きなガラス窓から中で開店準備のために用意をする人間の影が見え始めた。
灰色の大小様々な石たちできれいに整頓された道が、迷路のように町の中を縫っている。
少し狭い路地に入ると野良猫が建物の影で包まってまだ眠っていた。
長い歴史とそこに住まう人々によって培われて来た、町に住まう人にとっては見慣れた景色だ。
しかし家々が並ぶその景色の中に一部だけ、異質な空間があった。
そこの空間には、何も無かった。
家の連なる一帯にまるで穴が空いているようだ。
本来、周りと同じように家がすっぽり入りそうな空間にはただ空き地が広がっており、むき出しの地面には雑草すら生えていない。
その空き地の面する通りの道に、一筋の赤黒い血の跡がその空間に向かって伸びていたが、空き地に入った所でぶっつりと突然途絶えていた。まるでそこから先にあったものが突然失われてしまったかのようだ。
その空き地に向かって、一人の人間が通りを走っている。
息を切らせながら走るその人間は、通りに染み付いている血の跡を追っているようだった。しかしその血の跡が空き地で切れているのをみると、愕然とした様子で空き地の目の前で足を止めた。
荒い息を整えようともせず、何が起こったのかまるでわからないといった様子でその何もない空間の何かをとらえようとして、ただ見つめていた。
「お、俺のシャツ…」
間の抜けた顔で、男が一人、ぽつりとつぶやいた。

闇に塗りつぶされた空間で、怪物は一匹でぶつぶつと考え事をしていた。
…脳に傷つけられなかったのは不幸中の幸いと呼ぶべきなのだろう。
簡易の蘇生処置を施そう。
ほとんど仮死状態だが、今はそれでいい。
肝心なのは後の処理だ。
さて、どうするのが最良だろうか。
とにかく人間の体のままであるのは避けたい…。
闇が全てを覆う空間で、怪物は小さな生き物抱えながらそんな事を考えていた。

ここはどこだ。…自宅のベッドのようだ。
自分は今どういう状態なのだろうか。
体は酷く重く鉛の様で、指一本として動かす事ができない。瞼を僅かに開くのだけで精一杯だ。
自分は生きているのか?
刺されて、そのまま出血多量で死んだと思っていたが。
体に毛布や布団の類はかけられておらず、しかし寒くも暑くもない。そもそもここに気温というものが存在するのかどうかが疑わしく思われた。
ベッドから見える窓の向こうに視線を移し、なんとか外を覗こうと試みる。
しかし、窓の外にはただ闇が広がっていた。星が一つもない。近所の家の影はおろか、外灯すら見えない。光、いやそもそも物質等その一切が失われているかのようだ。
そこには始めからそんな物はなかったのかもしれない。
ここは、私の知っている町なのか?いや、そもそも町と呼んでいい場所なのだろうか。
とにかくここは異常だ。私の知っている場所ではない。
窓の外に広がる得体の知れない不気味な景色に、胸がざわついた。
胸。心臓。私の心臓は、今、動いてるのだろうか。
胸に意識を集中させようとしたが、それはかなわなかった。
不意に恐ろしいくらいに強力な眠気が襲ってきたのだ。
視界が奇妙なほどにぐにゃりと歪んだ。窓枠や天井に見える家を支える木材の柱、すぐ横にある棚など、本来絵で描けば直線で構成される物たちの形が、揺れる水面に映る歪な曲線で描かれたように見える。今の私の視界は、そこにある家具たちの存在すら不確かなものなのだと感じさせるようだった。
だめだ。眠い。今は、寝よう。起きたら、…あいつに聞けば良い。
あいつに聞けば、なにもかもすっかり教えてくれるだろう。
果たして本当にそうだろうか。そんな事を考える余裕さえない。
瞼を閉じた。
眠りに落ちる前に、鋭く、冷たい何かが優しく私の首筋に触れた。
なんだろうか?なんとか意識を保たせて、首筋の感触に集中した。
その鋭いものは、徐々に私の首がある方向に圧力をかけてきた。
私の肌がその鋭い物に対する抵抗力をなくすと、それは容赦なく私の首の中に入って来る。
ある程度それが首に差し込まれると、真っ直ぐ、私の首に対して垂直の方向に、それこそ直線を描くように、移動した。やがてそれが私の首の骨に触れると、ごりごりと何かを削る様な音が響いた。
自分の身に何が起きているのか、さっぱりわからない。目を開けて確認し様にも、瞼は固く閉じられ、もはや開く事は不可能だった。
だが、その一連の動きは、首に触れる感覚だけで伝わる情報に頼ると、あくまで、優しかった気がする。
不安は徐々にその優しい動きによって安心に変わった。
大丈夫だ。心配することは何も無い。
そう言われているような気さえする。
なら、いいか。
私は眠った。

この怪物はとても醜い。
ありとあらゆる有機生命体、知的生命体は怪物の姿を見るや否や発狂した。
ある物は叫び、逃げ惑い、泡を吹いて倒れ、または怪物を滅しようと攻撃を加えようとしてきた。
物を投げつけてきた。矢の雨を降らせてきた。燃やそうとしてきた。煮えたぎる油を浴びせてきた。森を焼け尽くす爆弾を投下してきた。その星の科学力を結集させて作られた光線を飛ばしてきた。もちろんそれらの行為は無駄に終わった。
それら全ての生物達は、知能が有る無いに関わらず、あるいはそのまま絶命し、あるいは寝たきりになり、あるいはその余生を狂乱して過ごした。
怪物は気づいた時から己の姿形に絶望していたので、それらの行為は何とも思わなかった。ごく自然な事、当たり前の反応だからだ。
だが、発狂した物立ちの目はことごとく酷く濁っていってしまう。それだけは許せなかった。悔しかった。濁るくらいなら、直前で抉りとって保存しておきたい。
怪物はそう思った。
怪物には同類がいる。同類の中には怪物をみても発狂しない物達がいた。しかし彼らは元々怪物がなんであるかを理解していたので、それもまた当然のことであった。
同類は怪物にとって時に励みにはなったが、同時にそれ以上の脅威でもあった。その励みのほとんどが時として牙を向く事があったからだ。同類からは、怪物と同じくらいの、近付き難い狂気を感じる事等が多々あった。
ゆえにきっと、同類も全て等しく怪物だったのだろう。

ここはどこだ。
とても暗い空間のようだが、自分の周囲だけは、優しい灯りで照らされていた。
自分はとても柔らかい物の上に置き去りにされているらしい。
それも、とても丁寧に。
目を開くと真っ先に入って来たのが赤いビロードのクッションだ。
とても上質な布で、触り心地がとても気持ちいい。
随分ふんわりとした綿が詰まっているのか、とても柔らかい。
自分はその上に置かれている。
体は動くだろうか。そう思い、手と足の指の感覚を確かめる。
ある、ような気がする。しかし感覚がない。自分の体が固まっているかのようだ。
何かがおかしい。視線を下に移した。
自分の体があるべき場所に視線を移したが、あるのは赤い布だけだった。
私の首から下はどう見ても、どう考えても、無かった。
生首…。
そう言う以外、的確な表現はないだろう。
体はどこにいったのだろうか。
考えていると、目が段々と周りの暗さに慣れて来た。
目覚めた時よりは周囲がどういった状況なのかがはっきりと見えてくる。
だが周囲は見えない方が良かったかもしれない。
床は恐らく無い。奈落だ。光を吸収し上から刺す光を反射させることを許さないくらいに底が深いのだろう。
もしかして自分がいるこの場所は浮いているのかもしれない。
そして、自分を取り囲むもの達は目玉。目玉、目玉、目玉、目玉。
茶色、赤、黄色、緑、青、紫、複眼、単眼、球体、楕円、手の平サイズ、小指サイズ、大小様々な目玉がガラス製(硬い素材の透明な膜と言った方がいいかもしれない)の中に収められ、全て綺麗に等間隔に並べられている。
自分には理解できない趣味だ。
しかしこの並ばせ方はとてもあいつらしい、そんな考えが真っ先に浮かんだ。
皿やボタンを綺麗に並べて観察していたくらいだし、元々細かい作業は性格のためだったのだろう。
あいつらしい。そう、あいつだ。
きっと私をこんな場所に置き去りにしたのも、首を切断したのもあいつだ。
何を考えているんだろうか、まったく…。
だんだん考えがはっきりしてきた。
それと同時にするどい痛みが脳に走った。
「…!」
無い筈の体、あの時刺された体の部分から、激痛を感じる。
傷口が熱い、冷たい、痛い。
肺が無いからか悲鳴どころかうなり声は出ず、口から掠れた空気の音しか絞り出せない。
口内はからからでよだれもでない、なのに涙と汗はでてくるらしい。
目を硬く閉じて、歯を食いしばり、痛みが過ぎる事しかできないという、とても嫌な状況だ。
「■■■■■■■■?」
言葉になっていない声が聞こえた。
目の前にあいつが現れたようだ。
痛みに耐えながら、片目だけ薄く開いた。
まるで闇の底から浮かび上がり、体を大きく傾けてこちらに寄って来たようだ。
錯覚だろうか、一緒に生活していたときよりも、体が大きい、気がする。
あいつは虫にも骨にも似た様な足をこちらにのばすと、私の髪を丁寧にどかしてから額に触れた。
痛みがすっと退いた。
私の首から下が存在していたなら、たったいまほっとため息をついていただろうと思う。
あいつはどこから出したのか解らない布巾を足、いや、手に持って私の額を優しく拭いてくれた。
「麻酔が弱かったか」
なんだそれは。ふざけるな。お願いだからもうそんな単純な失敗は犯さないでくれ。
「安心しろ。痛みの記憶は消してやる」
そこまではしなくてもいい…。
痛みがその跡も残さず完全に去った所で、私はあいつを見上げようとした。
材質不明の優しい光源に逆光して、細かくは見えなかったが、禍々しい花弁のような目の数は以前よりも増えているように見えた。
もともとこんな姿だったのかもしれないな。
麻酔によるものなのか解らないが、だんだん眠くなってきた。
私の意思に逆い、目が閉じられて行く。視界が暗くなる…。
「オヤスミ」
あいつが言った。
私は眠った。

目。瞳。目玉は美しい。その生きる物達の力が宿っている。意志が強ければ強いほど、美しく輝く。
怪物にはない物だ。欲しい。とても欲しい。美しい。
怪物は美しい物が大好きだ。景色、現象、自然な成り立ち、作られた物等は問わない。
とにかく怪物が怪物の姿を忘れられるくらい心酔できるモノならそれでいい。
怪物はいかにして、生物たちの手で素晴らしいものが出来上がっていくのかとても興味があった。
だから怪物は何度も、物を作る生物達を観察しようとした。
しかし、当然ながら彼らは一度怪物を見ると発狂したのだ。最悪、物を作ることを忘れる者さえいた。狂乱しても尚、物を作り続ける物達もいたが、狂う前とはあからさまに様子が変わるので、あまり意味が無かった。そういう物達は生物の体と脳の構造を調べるために解剖や記憶の分析を試みるための材料にした。作らない物達とどう違うのかが気になった。
だが結局、脳に疾患があろうがなかろうが殆どの者達にとって、美しい物たちを好む気持ちは共有のようだ。
怪物は人間達にできないことができる。だが、それがなんだ。こんな体では意味が無い。美しいと思った物をかき集める事を繰り返しても、自分自身の醜悪さからは逃れられないのだ。
怪物が行えば、好奇心からの収集という行為すらも醜いと言えるのはないか。
一時期はそれに生き甲斐のような楽しさを見いだした怪物だった、それも今となっては腐りはて溶けてしまった目玉のような虚しさを怪物の中に残すだけであった。
だが、あの人間は違った。
怪物を見ても発狂せずに冷静に回りの仕事をこなすそいつは、怪物にとってかつて無いほど異常なモノだった。その存在は奇跡に近い。そいつは信じないだろう。きっと「そうなのか」程度で終わらせるに違いない。簡単に怪物を放置できるような彼のことだ。
怪物が今、彼の体に施している事を彼が知ったら、怒るだろうか。
今の「コレ」が終わったら、彼の怒りを買うのも悪くないかもしれない。怒るということは、彼が生きている、という事だ。そうだろう。
だが嫌われたあげく、その人間が離れていくのだけは遠慮したいので、控えようか。
まぁ、それは全てが終わってから考えれば良い。
何かを作っている時の彼の手元を観察している時間は誠に至福であった。まるで変化の訪れない悠久の時を過ごす怪物にとっては貴重な時間であった。
こんなあっけないことで失ってたまるか。
怪物はお前達よりも醜くどん欲な心を持っていた。
こんなことで終わらせる訳があるまい。
こんなに弱くて脆い体なら、変えてしまえば良いのだ。
怪物にはそれができる力がある。
目の前で彼が眠っている。
これから行う事は、彼の道徳観念からいうと、非道な行いになるかもしれない。
まぁ、それはこいつが知られなければ良いことだ。
彼がたとえ知ったとしても、どうせ、全ては「あとのまつり」となるのだ。
さぁ、次はどうしようか。

ここはどこだ。どこかを漂っているようだ。
自分は今どういう状態なのだろうか。
ここは暗いのか明るいのかはっきりしない。あちらこちらから光が射している。
何が光源になっているのか、確認しようにも視界がはっきりせず、よくわからなかった。
周りには空気ではなく、よくわからない粘り気のある物で満たされている気がした。
これが液体なのか気体なのかすらわからない。
私は今、呼吸できているのだろうか?わからないが、不思議と息苦しさはなかった。
ここの居心地は悪くない。だが、上も下も右も左もわからない、のは、何故だろうか。
漂っていると思っているが、もしかしたら落ちているのかもしれないし、浮かんできているのかもしれない。
ここはどこだ。なにもわからないじゃないか。
いつか、どこかで、こんなような場所を誰かの口から聞いた様な気がする。
いや、あいつに口なんてなかったか。
私はどうなったんだろうか。
私はどうなっているんだろうか。
体はまるで縛られているというよりも、固まっているようだ。動けない。動かない。
何も解らない。
だから自分の身に何が起こっているのかも理解できない。
まず違和感を感じたのは首のあたりだ。
とても細長いなにかが何本も首に巻き付き蠢いている。
表面は苔むした岩のようにざらざらごつごつとしているが、裏は皮を剥ぎ取られた兎の腹のようにぶにゅぶにゅとしている。温度は感じない。
表面と裏面の境には硬く細長い骨のような足が大量にあるのを皮膚から感じてとれた。
そいつらは、つい先日(果たして本当につい先日なのかはわからない)切断された首の傷口から体の中に侵入しているようだ。侵入した先から、体を内側から這って探り進んでいったり、血液に溶けて体中を隅々まで巡っている。
痛みもくすぐったさも感じない。ただ何かが体内に潜っているという奇妙な感覚だけはあった。
体中を探るそいつらの一部は、私があの時刺された傷口に集まり、空いた穴を埋めようとしているようだ。
一度体内に入った奴らはもはや外に出る気など皆無のようで、このまま私の体に溶けて、血と肉に混ざりあって、私の一部になろうとしている。
それなのに、頭だけは無事のようだ。
首から下には遠慮なく入り込んでくるくせに、頭だけは絶対に侵さんとしているようだ。
変なとこで几帳面のようだ。
こんなおかしなことが自分の体に起こっているのに、私は何も心配していなかった。
首の時と同じで、どこか優しいのだ。
安心している。信頼している。根拠は無いに等しい。
ぼんやりしていると、唐突にまた眠くなった。
起きたり眠ったり忙しいなぁと思っていると、景色が流転した。
何もない空間から、見覚えのある部屋に変わった。
これは夢だ。今、私は夢を見ている。はっきりとわかる。あまりにも唐突だったから少し混乱しそうになったが、落ち着いて回りを見渡した。
眼前に広がるのは自分が育った家の中、両親と暮らした家、祖父のものではない、今はもう私は暮らしていない家だ。
灰色の壁には所々ヒビが入っており、そのいくつかはヒビを埋めるために隙間をセメントで埋めた後があった。
癇癪を起した母が花瓶を投げた時にできたヒビだ。柱には私が幼少期のころにつけた身長の記録の跡がある。
懐かしいものだらけの部屋の中は、全体的にやさしい光に包まれていた。率直に言ってちょっと眩しい。
懐かしいと言っても、私自身がこの家で過ごした時間はそうなかったが。
光に包まれた部屋の風景の中、私は椅子に座っていた。木でできた安物のテーブルの上にはココアの注がれたマグカップが置かれていた。
甘い香りが漂ってくる気がする。ココアなんて、この家で飲んだことあっただろうか。
「いよいよ明日、父さんの家に移るんだな」
父の声がした。顔を上げると、テーブルの向かいに私の父が居た。
懐かしい、疲れた顔の父だ。髭は綺麗に剃られていて、優しそうな顔でほほ笑んでいる。
「なんとなく、お前が父さんの職を継ぐのはわかっていたんだ。お前は父さんによく似ている」
あぁ、こんな会話したかなと思いながら、私は風景の中に溶けてしまいそうなくらい影の薄い父の顔を見つめている。
しっかり見つめていないと、父が夢だけでなく記憶からも消えてしまいそうな気がした。
懐かしさに肩を寄せるようにして、私は父の声に聞き入っていた。
「父さんはな、俺が子供のころは、結構いい所に勤めてたんだよ。でも、頑固な性格だったからさ、職場の人と揉めて独立したんだ。街の端っこにある店にしては、良い仕事をするって噂もあったんだが、それもその筈なんだよな」
あぁ、そういえばそうだったらしい。私は仕立て等の技術をとにかく祖父の手を見て盗めるだけ盗んだ。良く出来ていると、父は褒めてくれたっけ。母は、あまりいい顔をしなかったが、邪魔もあまりしなかったな。
「シャンク、お前の性格は父さんそっくりだよ。だから母さんとも上手くいかないのかもしれない。二人は仲が悪いから」
そうだね。水と油みたいなものだから、仕方ない。幼心にそれは何となく察していた。全く、私の家庭の絆は中々に歪だったと思う。
「私は、父さんには似なかった。だから母さんを愛せたんだと思う。私はそれで幸せだ。だけどな、シャンク」
うん。何だっけ、この後何て言われたんだっけ。父さんの顔をしっかりと眺めて、口の動きに注視し続ける。
「だけどな、父さんだったらきっと化け物なんか部屋に絶対上げなかったと思う」
いや、待て。こんな会話は記憶にないぞ。
私は父の顔をさらに注意深く見た。父の顔は、よく見ようとすればするほど、かき混ぜられていくかのように崩れていった。鼻も目も眉毛も髪の毛もぐるぐると顔の表面に渦を描くように歪んでいく。リンゴのように真っ赤に染まった目が、私の方を向いてニタニタと笑っていた。口元から除く歯は、いつかの通り魔のように黄ばんでいる。
「なぁ、仲良くできるか。あの醜悪の怪物と。これからずっと一緒に過ごすんだぞ」
ガラガラとした不協和音の声が脳に響く。この声は誰のものだったろうか。父ではないはずだ。
「俺は、応援してるんだぜ。お前の母さんだってたぶんそうだ。知らないけれど」
親しんだ者の顔が崩れていくのを見るのは、あまり気分がよくない。私は視線を顔から逸らした。冗談にしても悪趣味だ。
マグカップの中を覗いた。カップの中の液体に映っているのは、私とその背後に母の影。母は寂しそうに、申し訳なさそうに、かつ怒りを込めてカップ越しに私の事を見ていた。別れの日と同じ目だ。なにを考えていたのか、なにをして欲しかったのかわからないあの目だ。母さんのことは私には無理だった。父さんにしかできなかった事だ。
周りの景色が溶け始めた。父さんの顔と同じように渦を巻いて、液体に変わった壁や家具などの思い出たちは上に昇っていく。
いい加減にしろ。赤い目の化け物め。
「どこに行っても、幸せになるんだぞ」
父さん。そうだ。父さんと最後に交わした言葉はこれだ。これだけはしっかり覚えている。
「ああ、上手くやってみせるさ」
最後にそう自分に言い聞かせた。
周りの景色が上昇していく中、私だけは一人奈落に沈んでいった。どこまでも深く、もうあの懐かしい景色は戻ってこない。

怪物はただ待っていた。どれくらいの時間が過ぎたのかわからない。ただ、自分が体を支えている柔らかい肉体を持った生き物の身体を、極力いじらないで自分と同じようにならないか試行錯誤をしていた。
過去に自分が解体した経験を思い出しながら、腕とか血管とか神経とかそういったものを、怪物なりに慎重にいじっていた。
ただ、彼と一緒にもう一度過ごしたいという一心による犯行だった。

瞼が重い。とても重い。
…だが、いつまでも寝ている訳にはいかないだろう。
下の方から、何か物が落ちる様な音がした。
些細な音だった。もし、他の音でこの空間が満たされていれば、聞こえなかっただろう。
私は目を開けた。ここはどこだ。ここは…。
私は勢い良く起き上がった。服は着ている。汗はかいていない。
自宅の寝室のようだ。天井からランプが二つほど吊るされていた。ランプの中には水と光る苔玉のような物が、詰まっていた。
あれがいったいなんなのかどうかは、今は置いとこう。
とりあえず、現状の確認だ。
首筋を確認する。あの時の傷跡は首に輪をしずめたように浮き上がっていた。しかし、触ってやっと解る程度だ。
次に、あの時の通り魔につけられた傷を確認するため、上着を脱いだ。
あの時つけられた傷跡は、塞がってはいたが、生々しく跡が残っていた。いや、それだけじゃない。
まるで傷を縫い合わせるように黒い物が埋め込まれていた。
黒々と、歪で、まるであいつの背中の甲羅を思い出させるような…
あいつ。
あいつはどこだ!
私は上着を着直すと、ベッドから降りて、慎重に窓の外を確認した。
闇だ。
隣の家も、近所の家も、外灯たちの影も形も、地面すら無い。おそらく風すら吹かないのだろう。
この家はいまどこに建っているのか?そもそも建っているのだろうか。ここに空気があるだけありがたいと思うべきなのかもしれないな。
私は部屋から出た。
部屋から出たら、私の家の中は…とても広くなっていた。目の前の壁、短い廊下の壁が、すべて無くなっていた。無くなった壁から向こうは、果てしなく広がっており、目を凝らしても行き止まりになる壁は見えない。広すぎて落ち着かないくらいだ。
まるで迷宮のようだ。この場所の具体的な広さが全く想像できない。
かろうじて以前からある部屋たちは形だけはきちんと存在しているようだ。
部屋の形は…例えるなら四角い箱だった。箱の形は元々の部屋の大きさと同じなのだろう。箱についている扉をあければ、以前と同じ部屋が私を待っている筈だ。
どういうことだ!
私が祖父から引き継いだ思い出の詰まったあの家は、どうやらとんでもない増築、大改築が施されたようであった。増築された部分の床は今まで見た事も無い様なーこれから何度この言い回しを使えば良いのか皆目検討がつかないー材質であった。木目とはまた違った、まるで紙にマーブリングの技法を使った様な模様が表面に浮き出ており、率直にいってちょっと気持ち悪かった。
私は元の家と寸分違わぬ位置に存在する下り階段を見つけると、強度を確かめながら慎重に降りた。
階段は悲鳴に似た軋んだ音を発した。まるで本来の家主が戻って来てくれて、嬉しくて悲鳴が上がったように聞こえた。だが階段の感情なんぞ、私は知らん。
一階も、扉やホールなどの形はそのままに、四方の壁はぶち抜かれ、果てしない闇と空間と床が広がっている。
それぞれの部屋も二階と同じ様子だ。二階の四角い箱の様な部屋は、下からよく見ると四隅に支柱があり、その支柱によって宙にとどまっているようだ。だいぶ不安な建築だ。建築者にはぜひとも文句を言わせていただきたい。
その者は、私の考えが当たっていれば、アトリエと呼ばれている部屋にいる筈だ。アトリエとは名ばかりの趣味の物作りのための部屋だ。
私はアトリエに歩み寄り、扉を乱暴に開けた。蝶番から嫌な音がした。そういえば替えていなかったな。
アトリエの中は、まるで真昼のように明るかった。
他の暗くてどんよりした部屋と廊下とはまるで違う。この優しい光はどうやら窓の外から差しているようだ。
眩しい、そう思い、私は目の前にある窓のカーテンを閉じる為に部屋の中に入って行った。
カーテンを閉じると、ある程度光量が調整され、ちょうどいい明るさになった。
私はため息をついてから、深呼吸をして、部屋の中を確認するように振り向いた。
あいつがいた。
あいつ。
こんな訳の解らない大改築をされた自宅で、あいつの姿を見るのは、正直気持ちがいいとはいえない。この訳のわからない空間にあいつという存在はぴったりだからだ。ぴったりすぎて、犯人はこいつだ、というのを全て物語っている。
そいつはもう一方の窓から差してくる光を受け、長い体をとぐろのように巻いて鎮座している。そしてまるで面白い物を見るかの様な視線を、その禍々しい花のような目から発して、私のことをじっと見ていた。
「…おはよう」
永すぎる眠りから覚めた私の第一声はそれだった。
「オハヨウ」
遅れる事無く、反応を示すボダイの声が、私の耳に届いた。
さぁ、何から質問しようか。
お前には、聞きたい事が山ほどあるんだ。

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