私の及川徹論① アマデウスサリエリコードを超えて

フォロワーさんに触発されて、私も私の「取るに足りない」人生と及川徹について書こうと思った。


久しぶりのノートに何を投下するんだ。お前翻訳はどうしたんだ?と言われたらその通りなのだが許してほしい。だって、及川徹がいなければ、この6年間わたしにとって大切な出会いのすべてがなかったのだ。それは他ジャンルや人間との出会い、精神科に行く決意など含めてである。私は及川徹のためにそれまでとは別のツイッターアカウントを初めて、そして、そこで本当に限りないありがたいとしかいいようのない出会いを得た。それは物語の展開とは関係ない、取るに足りない私の人生についての話なのだが、私にとっては、自殺をしたい数々の理由にうもれながら、自殺しないための理由を提供してくれる場所を提供してくれるものであった。
 話がそれるが、アレルギー表記をしておく。私は及川受の中では特に影及、作品を書いたことはないが、牛及を愛好する人間であり、比較的及川徹を殺しがちなR18Gを好むオタクでもある。その時点で読まれたくないと思う方もおられるだろうから、先に記しておく。

 ハイキューを読んだきっかけそのものは残念ながらきれいに覚えていない。だが、2巻を読んだ時点で「及川徹、君に決めた!」だったことははっきりおぼえている。なぜなら、その時点では私は及川徹は「ちゃらくて才能だけでやってる初期のイケメン小物」、

では絶対にないキャラクターだと思ったからだ。
 そう思った一番の理由はハイキューの文法にある。文法という言葉を使ったが、作風というべきだろうか。ボールが消えないスポーツマンガとして話題になった初期のハイキューだがボールも消えないなら、県有数の強豪校の主将が努力しないタイプなのはりあえないと感じたからだ。天才を嫌う程度に人事を尽くしているはずであり、そのうえで及川ははっきりと「正々堂々と勝負したい」とも口にした。そこに私は新しさを勝手に感じたのである。
 その後の及川と言えば「及川徹は天才ではない」。である。以降の及川徹はしばらく特に影山との対比でアマデウスとサリエリ的な、天才秀才問答の中で語られることもファンの中ではあったと思う。しかし個人的にはこれにも反発していた。及川徹は天才ではないかもしれないが、秀才でもない。むろん、及川徹はハイキューという作品の舞台装置としては影山飛雄の成長のためにいるキャラクターである。だが、天才に超えられて嘆くうめくため、天才をより輝かせるためのあだ花としての存在とはどうしても思えなかった。なぜなら、作品内でいわゆる天才の対比としての秀才という言葉は使われなかったからだ。
 結果はご存じの通り、ベストエピソード、「才能とセンス」であり、読者の予想を超えたアルゼンチンでのプロリーグ入りである。

はぁ??????すきなんですけど???????
すきなんだが。

 天才秀才のテンプレートを覆すキャラクター。真面目さをちゃらさのメッキにかくした及川徹という人間がすきだ。私には二巻からそのキャラクター性は提示されていたように思われる。

 ハイキューが終わるまでの一週間、読み返しつつ及川徹について語っていきたい。

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