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エッセー【沼】シーソーゲーム

愛情貧困者のような精神構造をどうにかしたい。求められているかどうかを肉体と関係性でしか測れない。求められてはいるが愛されていない、みたいな状態にしばらくさらされ続けていると本当に神経が磨り減る。

時々、あの人が夢に出てくるときがある。必ず、話しかけてはいけない状態で私は遠くからあの人の横顔を眺め、立ち去るだけの夢。それなのに目が覚めると胸が締め付けられて苦しい。息ができない。違う人に会いたくて夢の続きを見ようとすると、今度は尋常でないほどエロティックであまりにも現実じみていて恐ろしくなる。

よく考えるとあの人とお別れしてからたったの3か月しか経っていないのに、もう3万年も昔の事のようだ。私はこの3か月で何回セックスをしたんだろう。どこに行っても、過去の情事の屍骸がゴロゴロと転がっている。

私の心はもう誰かのものなのに、あの人が夢に出てくる度にひどく不安になる。誰にも言ってはいけない。人前で触れてはいけない。「セックスの相性がいいだけだし、そんなに私の事を好きにならないと思うよ。あなたは」そんな風に言われると「それは私の事ではなくあなた自身の事なのでは」と不安になる。本人たちが自分の心の所在を把握していないせいでお互いの想いが絡まってほどけない鎖みたいだ。下手にほどけば切れてしまう。

あの人とお別れした時、あの人はとても苦しそうに泣いた。私はあの時から、あの人の事を考えても涙が出ない。私はあの人の身を切るように傷つける事を言って何度も泣かせた。今、違う形でしっぺ返しを喰らっているようだ。

自分の置かれる環境が次々に変化するから何に安定を見出せばいいのか分からない。酒の量は増え睡眠時間は減り、インスタントな愛を食べて夜をやりすごす。見えない自傷行為の繰り返しだ。結局こういう依存的な行為は1本のつながった杭のようで、片方を叩けば反対側が飛び出してくる。沼の底で終わらないシーソーゲームを繰り返しているうちに、気が付けば、もう流れる血はほとんど残っていない。

「死に直面したときこそ、生の歓喜がぞくぞくっとわきあがるのだ。血を流しながら、にっこり笑おう。(岡本太郎)」

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