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「適材適所」の人間関係。

自分で書いておきながら、なんて冷めた人間なのだろうと思わずにはいられない。そんな言葉。けどそんな言葉が今、私を救ってくれている。

昔から人間関係が下手だった。

人見知りということももちろん一因だと思うけど、それ以上に問題だったのは「人との距離感がわからない」ということ。

私は、知らない人は「知らない人」としてめちゃめちゃ距離を取る一方で、「仲良くなった人」や「心を許した人」に対してはべったりだった。物理的にべったりするわけではなくて、精神的に。おこがましいけど「私が心を許したんだから、この人も心を許してくれているはず」そんな思考回路だったのかもしれない。

だからこそ、そんな驕りから嫉妬心や独占欲なんかも生まれていた。自分が仲良い友達が他の友達と仲良くしていたらイライラするみたいな。

私の場合、それを相手に直接ぶつけたりする勇気はなくて、そうなったら自分1人で勝手にイライラして、絶望して、距離を取る。そんなことばかり繰り返してたような気がする。そうやって自分で距離を取った癖に「誰もわかってくれない」とかね。

当時、私にとって、人間関係は「0か100か」しかなかった。

それを自覚してからは、むしろ均一に「50」の人間関係に努めてきた。器用じゃないから結局、一択しか選べないのもわかっていたから。

それでもやっぱりふとした瞬間に昔の思考に戻ることもある。

最近、それを感じたのは上司と揉めたとき。
信頼していたし、信頼されていると思っていた。そのうえで、上手くバランスを取っていたつもりがいつの間にか50から100へと切り替わっていた。そしてまた一人で勝手にイライラして、絶望して、0にしようとした。けど、それじゃ何も変わらない。


そんなとき、ふと頭に浮かんだたのが「適材適所」という言葉だった。

どんなに気が合っても、どんなに大好きでも、人間が完全にわかり合うことなんてできない。だって別の人間なのだから。でも、「わかち合う」ことはできると誰かが言っていた。

頭ではわかっていても、近い人であればあるほど、つい入り込んでしまうのが人間で、わかち合うことではなく「わかり合う」ことを求めてしまう。たぶん、それはどうしようもない。

でも、それじゃ0か100かしか選べないから。1人の人に全ての役割を求めるのではなく、1人に求める役割を1つにしてみようと思った。

例えば「仕事上の信頼」は上司に。「頑張るための活力」は両親に。「自分の成長のきっかけ」を生徒たちに。

もちろん厳密に1つである必要はないけれど、余計なことを求めすぎないから、そう思うことで上手く距離がとれて、穏やかでいられるような気がする。

「適材適所」の人間関係。

言葉だけみれば、冷たい人間のようだけれど、むしろ弱くて不器用な私だからこそ必要な考え方だと思う。もっと上手く人と付き合えたらと思うけど、これが私なのだからどうしようもない。

幸せそうな「誰か」になりたいんじゃない。
私は「私のまま」幸せになりたい。

だから今日もこうして「私のまま」幸せでいられれる。そんな生き方を探していく。

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