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「HSP」がもたらす安らぎと絶望と。

久々にぐっすり眠って目が覚めた朝。
結局私は、2度寝、3度寝をしてしまった。

こうなることはわかっていたのに。「あの時、起きていれば」と後悔せずにはいられない。

その瞬間に、
ぐっすり眠れたはずの朝は消え去り
起きなかった自分を責めて、
大きな絶望から、1日が始まってしまう。

大げさと思われるだろうけど、これが私にとっての普通だった。
昔から「ネガティブ」な感情に対して、人より少し敏感な子どもだった。

些細なことで、考えすぎじゃない?ってくらい色々なことを考えて落ち込んでしまうし、自分以外の誰かが泣いていたり、怒っていたりする場面にいるとすごく疲れてしまう。初めて会った人でも、だいたい自分や他の人にたいして、どんな印象を持っているのかわかってしまうし。

もちろん、それが役に立ったこともあるけど、特に自分にいい印象を持ってない人とどう接すればいいのかわらなくて、悩んで、色々考えて、疲れてしまうことのほうが多い。

そんな自分が嫌で、何度も変わろうとしたけれど、変わることなんてできなくて、その度にまた、そんな自分を責めて、絶望したこともあった。

そんな絶望も「HSP」という言葉を知って、少し和らいだ。

「同じような人たちがいる」そのことが、誰にもわかってもらえない絶望の中で救いになったし、「特殊なことじゃない」という定義が変わらなくてもいい安心をくれた。

…はずだった。

その安らぎは一時的で、結局いま私は「HSPであること」に苦しんでいる。

まるで出口のない迷路。

上司の些細な「イラ立ち」
生徒の「わからない」という不満や
授業を「やめる」という選択。

そんな小さな「ネガティブ」な感情を敏感に察知する。さらに、受け取ったそれを「自分に」向けて、自分を責める。そして、そうやって自分を責める自分を、また責めてしまう。

そんな悪循環の繰り返しにまた、苦しんでいる。


目が見える。音が聞こえる。
それと全く同じように「ネガティブ」を受け取ってしまう。
そして、その受け取ったネガティブを「自分に」向けてしまう。

きっと私はこれからも、一生「ネガティブ」を受け取ってしまうし、その受け取った「ネガティブ」を「自分に」向けてしまう。

「HSP」という自分を認めたことで、得体のしれない自分の思考という不安からは解放された。けど、自分が「HSP」であるというその事実は救いでもあり、結局は、新たな絶望の始まりでもあった。

でも、それが「HSP」であり「私」でもある。
きっと、私はそんな迷路からずっと抜け出せない。

じゃあ、抜け出すためには?
「私」であることを捨てる?

そんなことできるわけない。

そう結局、どうすることもできないし、どうこうする必要もないのかもしれない。今もこれからも、私にできることはそんな自分を「そうだよね」って受けとめて生きていくこと。

そしていつか、この迷路で
生きる日々を楽しめるようになれたらいい。

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