「子どもらしさ」という呪縛

イライラしていた1日だった。

落ち着きのない教室の空気。
かすかに聞こえてくる話し声。
舟をこぐ生徒たち。

目に映るもの、聞こえるもの、肌で感じる空気。
何もかもが鬱陶しく、全てが私をばかにしているように思えた。

抑えようとすればするほど、苛立ちは募り、そんな昂る感情とは裏腹に、凍てつくような言葉が口から流れ出す。恐れというよりは、戸惑いに近い感情とともに凍りつき始める空気を感じながら、私はその場を後にした。

***

今思えば、何をそんなにイラついていたのだろう。

「受験生にもかからわず、生徒たちがたるんでいた」とか最もらしい理由はいくつも頭に浮かぶ。けど、実際は違う。

私はただ「拗ねていた」だけなんだ。

自分の熱量に対して、相手が同じだけの熱量を向けてくれなかったことに、ただ拗ねていた。まるで、自分の思い通りに、物事が進まないことに駄々をこねる子どものように。

***

小学3年生か4年生の頃、
通知表に「子どもらしさがない」と書かれたことがあった。

確かに昔から、感情を表に出すのが下手で、同年代の子たちと同じように無邪気に騒ぐことも、怒りに任せて喧嘩をすることも、泣きじゃくることもほとんどなかった。

でもそれは我慢をしていたわけでも、演じていたわけでもなくて、ただ苦手だっただけ。もちろん、周りと違うことに多少の戸惑いはあったけど、それが自分なんだと受け入れていた。

なのにそれを「子どもらしさがない」と言われ、小学生ながら「子どもらしさってなんだろう」と真剣に悩んだこともあった。ただ結局、一体何が子どもらしさなのか、どうすればいいのかわからなくて、考えることをやめた。

けど、どうやらちゃんと私も「子どもらしさ」を持っていたらしい。

***

結局、イライラの原因は思い通りにいかないことに拗ねていただけってことなんだけど、やっぱりなんだかちょっと嬉しい。

もちろん、生徒たちに申し訳ないとか、いい歳して恥ずかしいとかという想いもあるけど、私にもちゃんと「子どもらしさ」はあったんだなあ、そんな気持ちのほうが大きい。

きっと「子どもらしさがない」と書かれたあの日からずっと、本当は気にして生きていた。「みんなが持っているものを、自分はどうして持っていないんだろう」って。

常にみんなと同じである必要はないと思うけど、やっぱりどこかではつながっていたいから。

また1つ「みんな」とのつながりを見つけられたみたいだ。

よかったね、私。

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