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誰かを赦す事

誰かを赦(ゆる)すっていうことは、もしかしたら普通の人が生半可にできることではないのかもしれない。難しいことなのかもしれない。
でも誰かにとっては簡単なことなのかもしれない。

今日私は戦わない選択をした。

相手に対して遠い目で、わたしの昔を思い出した。

なんだか、あのときの自分を赦(ゆる)す事ができた気がした。

あのときの私は、【正しいこと】が世の中のすべてで目の前に自分のものさしに当てはまらない人間がいたらけしからん、正さないといけないと思っていた。

それは正義感でもあったし、自分が常に何かを正しいかどうかを【ジャッジして】そして正しくないかを【ジャッジされて】いたからだ。まさにその世界線で生きていた。

書いていて思ったけど、いまもなお、もしかしたら、コンディションが悪いとその世界線に片足を突っ込むこともあるかもしれない。その性質を私はたしかに持っている。

「わたしが間違っている」

と言われようものなら(とおもわれるような発言されたら)、戦って戦って戦い抜いて相手を傷つけようとも、
自分が正しいことを証明しようとした。

自分が間違ってはいないと証明しようとして一生懸命だった。

そうか、その正義は自分だけのための正義だったのか。

今日、戦わなかった相手はまさに過去のわたしだった。


その人は、【正義】という名のもとに自分がいかに正しいかを認めさせようとした。

私にとってはどっちでも良かったので


(こうやって関係が悪化してしまっては、どちらにしても気持ちよく仕事を続けていくことは不可能だろうとおもったので結論同じことだから)

だから、潔く間髪入れずに「あなたが正しい」という言葉と謝罪の言葉を添えた。

その謝罪とは、お相手の気分を害してしまったことについて。わたしが気分を害したことについてはなにも触れなかったが。

それで良いのだと思えた。なぜなら過去の自分を見たからだ。

いつも目の前の誰かに、父親に、母親に、先生に、私が正しいとわかってほしかった。

それだけが自分の原動力だった。そして、他人と比較していつもいつも苦しかった。

あぁ、こうやって認めてもらえることがあったらあのときの私は鎮静したのだろうか。


もしかしたらこうやって言葉を飲むことをしてもらえた、赦してもらえた人が過去にたくさんいるんだろうと今になって感謝が湧いてきた。

正しいことが全てではないよ、という言葉。
ものすごく大人っぽいことだと思う。わたしはやっと大人になったのかもしれない。


正しくなくても赦す事ができたことは、これからの私にきっとなにか与えてくれるとおもう。

そして、なんと言っても世の中の厳しさは、その相手と戦わずして【もう関わらない】と決めたことだ。



大人って、怖い。

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