やきそばをたべる

カップ焼きそばを食べようかと、ふと、思い立った冬の夜。
ティファールのニセモノで湯を沸かしながら、急ぎ薄いフィルムを剥がす。
パリパリと蓋を剥がし、ガサガサ鳴るかやく袋などを取り出し、指でぱつぱつと弾く。ジャっと袋を開け、カサカサのかやくを、なんとなく油の香りがする麺の上へ、そしてカラカラの麺をぱりりと少しだけ砕き口の中へ。

なんとも言えない心地の良い油を孕んだ麺のパリパリサクサクした歯ごたえと香ばしさが好きだ。1度口いっぱいに含んでみたいと思う。けれど実行したら、向こう10年トラウマになる。これは想像に過ぎないが、不思議と実感を伴う想像だ。

そんなことを考えている内に、湯が沸く。自分が子供の頃、やかんに水を入れてコンロにかけていた頃には考えられないスピードだ。このスピードの理由は分からない。

自分には、なぜテレビが映っているか、インターネットというやつで世界の人と繋がれるか、カード1枚で買い物が出来てしまうのか、霊柩車が通る時に親指を隠すのか、大体のことがわからない。
分からないのに、分からないことを分からないままに便利さを享受している。じつは科学なんかではなく、全て自分の寿命を削っていて、ある日死ぬとしても、自分は気づかず死んでいくのだろう。

ポコポコポコと湯を注ぐ。冷たい空気に晒されて向こうが見えないほど白く立ち上る湯気を見るのが好きだ。不規則に揺れて、あたたかく、あいまいで、まじめさとは程遠い感じがする。
(子供の頃、湯気に味がついてると思って、口を開けて近づいて思い切り吸い込んで、すっかり火傷をしたのだ。母は呆れて、姉は笑っていた。父はどうだっただろう)

頼りない紙で蓋をして、補助として箸を乗せる。これも、母や姉がやっていたのを真似していつの間にかやっていた。当たり前に重石だと思っているけれど、本当は呪詛なのかもしれない。だとしたらどんな意味があるのだろう。蓋の隙間から細くたなびく湯気の行方を追いかけながら、そんなことを考える。特に意味は無い。結論も出ないし、必要も無い。

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