関西館開館20周年記念企画展示 関連講演会「万博学のすすめ」を聴講して

今日はおはなピアノとしてではなく個人的な記事となります。
数年前に、私は子どもを夫におまかせして夜でも出かけられる状況になってから、ピアノに関してアカデミックに勉強、研究をしたいという気持ちに蓋をしなくなりました。

そして現在、ピアノという楽器そのものよりは日本のピアノ技術者という軸でその歴史を研究しており、修士論文のテーマの一つとして、全国ピアノ技術者協会が1936年(昭和11年)に開催した「躍進国産ピアノ展」というものを取り上げました。来場者一万人を超える大イベントです。

昭和初期のピアノ技術者、面白いことやってんな~(当然、準備に追われて本業の調律ができないという問題も発生。)という感じで色々と調べてみると、1930年代の百貨店では様々な博覧会が開催されていたこと、庶民にひらかれた美術館や博物館があまりないため、百貨店がその役割を担っていたこと、そのおおもとには内国勧業博覧会があること、そして日本の万博開催への執念が長く強くあったことを知りました。

また、幻となった1940年の万博と東京オリンピックでは皇紀2600年を抱き合わせており、その祝賀行事は(日中戦争長期化による万博や五輪の返上にかかわらず)大々的に行われたこと、さらにそれらのイベントに向けて、数年がかりで国民の機運を高めるために様々な愛国運動が官民あげて行われていたこともわかりました。

その一つに活用されたものとして1932年から開催されていた「音楽週間」がありました。「音楽週間」の中には今のNコンや吹奏楽コンクールなども含まれていました。そこにピアノ技術者も目をつけて、第4回音楽週間の期間中にピアノ展覧会を開催することにしたのです。そして全国の音楽教育関係者に広く周知されるであろう音楽週間の広報誌に、ちゃっかり展覧会の告知を広告とともに載せることに成功し、1万人をこえる来場者を迎えるに至ったことなどを明らかにしたのでした。

そのようなわけで私は万博にはわりと関心があり、本日この講演を聴講しました。

詳しくは↓こちらの論文を読んでから感想を書くべきですが、雑感。

特に、佐野先生が本日強調された「安易に戦争を区切りとすることは適切ではない」という点がとても面白かったです。つまり万博の歴史をいくつかに区分するときに、戦後という区分は最適ではないのではという問題提起をなされたわけです。どうしても日本に生まれ住んでいると、WW2のあとにすべてがガラッと変わった、変えざるをえない力が働いたというイメージがありますが、ヨーロッパの戦勝国が植民地を手放すタイミングというのは、確かに1945ではない、、、のか、、、(世界史かつ現代史の知識のあやふやさが恥ずかしい)という素朴な気付きがありました。

そして1945時点ではむしろ、万博関係者たちは「やっと戦前への枠組み再生ができるね!」という意欲が高まっていたという点にびっくりしました。
つまり戦前の万博は、「先進国」を中心として「国と植民地からなる世界」を展示していたのですが、戦後もそこを維持しようとしていた、、。

しかし1960年代から「国々からなる世界」へと変化を余儀なくされ、その決定に至るプロセスが大変面白かったです。「人間が変わるには時間がかかる」というご指摘も。が、たぶんそこは核心部分なので佐野先生の論文を参照されたし。

個人的にそこからふと思い出したのは、1963年に東京文化会館にて「第五回国際音楽教育会議」では、開催地が東京(アジア)であったこと、そしてテーマが民族音楽であったことが特徴的だったと記憶しており、なるほど60年代というのはそういう時代(まだうまく言語化できません)だったのだなあというつながりを感じました。
(ちなみにこの国際音楽教育会議が行われた東京文化会館では、またまたピアノ技術者たちによる「ピアノ展」が同時に開催され、現在の天皇陛下もいらっしゃった写真を見たことあります。)

また、もう一つ興味深かったのは1967年のモントリオール万博時に
経済的弱小国=economically weak countries ではなく
経済発展途上国=economically developing countries と言うようにして、
「途上国も人間とその世界(Men and his world)の構成要員である」
ことを確認したそうです。
それをわざわざ確認しなければならない状況にまだあったということが肝です。つまり、植民地が前提であった社会を「自己変革」しなければならない先進国のさまが、万博の歴史を通して見えるということがとても面白かったです。

そして強者が自己変革を迫られるあれこれというのは、ちょっと今の日本にとってタイムリーな印象もありました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?