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「子育てが社会を変える」と思うに至るまでの半生(5/7)

第5回目です。
今回の内容は主に映像に関する経験や考えたことをお話しします。


映像を作る

自主映画団体の立ち上げメンバーは、私含め俳優を目指す3人。
最初の取り組みは団体のPVを創ることになりました。
誘ってくれたメンバーの知り合いが映像制作の学校に行っていたのでその人に制作を依頼しました。その方はインディーズバンドも組んでいたのでPVの音楽もその人のバンド音源を使用することになりました。
公園がメインとなるシーンなのでロ都内色々ロケハンして目ぼしいところを見つけてゲリラ的に撮影。演出で巨大な木にトイレットペーパーを大量に放り投げて、木からトイレットペーパーが風になびいている、そんな演出でした。
これ、今やったら通報されるので絶対やめましょう!(多分当時でもアウトです)

PVの次は立ち上げメンバー3人がそれぞれ監督するというものです。
タイトルは「無常の風」「想い砂」、そして僕が制作した「ココロノトビラ」です。

僕の作品は構想開始から完成まで、トータル1年くらいかかったと思います。
台本作りから制作からロケハンから衣装から機材レンタルから演出から・・・。
当時の自分は人とコミュニケーションがうまくとれなかったので、自分一人で何でもやろうとしてしまって、準備は多少無理してでも自分でやっていたと思います。
人に分担したり得意な分野の人にまかせたりもしていなかったかもしれません。
力の抜き方がよくわかっていませんでした。
そして費用に関しては、スポンサーも当然いないのでこの3人で少しづつ集めただけの費用でした。
費用を考慮せず台本を書いたので僕の作品は出演者が約20〜30人は出てくる内容にしてしまいました。
自主映画でそれだけの大人数一人一人にギャラを払っていてはお金がいくらあっても足りないので、出演者は僕がその時に所属していた芸能事務所の養成所にいる顔見知りが大半、そして当時mixiで知り合った方が数名です。
mixiで知り合った方の繋がりで女優の川津春さん(お父様は俳優の川津祐介さん)にご出演頂くことができました。ほんの1シーンだけでしたがご快諾頂きました。

ギャラがあまり払えないことを了承していただき、ギャランティに関してはかなり抑えることができました。

役に立ったと思うことをご紹介!

僕の知識が皆さんの役にたつかどうかはわかりませんが、自主制作にあたって利用した施設や機器をご紹介します。

ビデオカメラは、当時埼玉の川口にあるskipシティという映像の学校と併設している施設の「館外機材貸し出し」があってそれを頻繁に利用していました。
これがめちゃくちゃ安い!
当時はカメラとピンマイク・ワイコン・三脚などセットで1日1000円ちょっとで借りられました。照明セットも1000以下、本当に学生には良心的な値段です!僕は学生じゃありませんがちゃんと貸してくださいました。おかげで頻繁に借りに行っていました。
当時川口に住んでいたということもあったのでとても重宝しました。
http://www.skipcity.jp/price/

skipシティを知った経緯は、東京に行って2年目くらいだったでしょうか、役者を志す人が登録するWEBサイトが当時ありました、今もあるかどうかはわかりませんが。
そこに登録していたら映像の専門学校生が「卒業制作を作るから出演してほしい」と連絡が来ました。その学生がskipシティと併設している「早稲田大学川口芸術学校」の生徒さん達でした。
撮影中はすごく丁寧に接して頂きました。まだ駆け出しの上手くもない芝居に付き合っていただいた学生さん達には本当に感謝しています。

また、その学生さん経由で山田洋次監督の「母べえ」にエキストラ出演もしました。skipシティ横の空き地が「母べえ」のロケ地に決定した時期だったと思うので、学生さんからお声がけ頂きました。
故・大滝秀治さんとも写真を撮らせて頂きました^ ^大切な想い出です。


まず最初は、出演者全員で打ち合わせをした「みらい館大明」という池袋にある閉校になった学校を再利用してレンタルできる施設で、一室を借りて行いました。
出演者とスタッフ合わせて約30名ほどだったので、全員が入れるところとなると限られますから学校になりました。
http://www.toshima.ne.jp/~taimei/index.html

公園の撮影は抜けのいいところを探すのに手間取りました。ネットで良さそうなところをいくつかピックアップして、手当たり次第に見に行きました。埼玉に良さそうな所があったので、その公園がある地域の管理組合に申請を出して受理されてからの撮影。撮影時は立ち合い等は何もなかったので問題なく撮影は終えました。
しかしここで予想外な出来事が発生!ロケハンは夏だったので木々が青々と茂っていたのですが、撮影は年末くらいだったので木々が枯れまくり、何やら寂しい絵になってしまいました。。。
ロケハン時のイメージも大事ですが、撮影の時期も計算してロケーションを選ぶことを教わりました。
秋↓

夏↓


レンタルルームは雑居ビルの一室でしたが、ここの病院のベッドを搬入して撮影。
ベッドのレンタルを行っている業者は多々ありますが、1日のみ利用する前例はあまりないらしくてレンタル業者も撮影利用は興味津々な感じでした。撮影当日に業者の営業の方が来られて名刺交換の際は快く対応していただいたので安心しました。

そして撮影で使用した学校は、打ち合わせで使用した学校とは別です。
どこの学校かはちょっと忘れてしまいましたが、埼玉にある廃校を利用したレンタルできるところです。
ドリー撮影の準備や本読み、演出とめちゃテンパりながらやっていました。
一番最後の集大成となる絵をここで撮影するので相当気合いり、気合が空まわりしてました。

撮影日数は確か8日間だったと思います。
色々事情があって途中中断したりで撮影開始から撮影終了まで半年以上かかってしまいました!本当にふがいない!!映像をよく見ると季節感がめちゃくちゃです。まあドラマ仕立てでもなかったのでそれほど気にしてませんが笑。

撮影も終了したので次は編集ですが、当然編集の知識もなく編集ソフトもありません。カメラマンさんが編集ソフトを持ってらっしゃったので、撮影と一緒に編集も対応していただきました。
今思うと長期間付き合って頂き、途中で撮影が中断しても気長に対応して頂いたカメラマンさんには本当に感謝しかありません。人間が素晴らしいです。
映像のことは右も左もわからない小僧に色々アドバイスやら機材とかの協力もほぼ無償で提供していただけるなんて。どんだけ素晴らしいねん!
カメラマンさんには本当に何から何まで対応していただき本気(マジ)感謝しきれないです。今でもInstagramでは繋がっています。たまにいいね押します笑。

映像のテーマ曲は、PVで監督をされたNo entryにお願いして、映像にマッチしていた既成曲を使わせていただくことにしました。

本編、そして予告編の2種類の制作が完了しました。
予告編は今でもyoutubeにアップしています、リンクは貼りません!恥ずかしいので笑。

作品の内容は自分の心の中の物語、葛藤や見たくないもの、自分の望まない現実が目の前に現れた時、それとどう対峙するか、といった内容です。
サブタイトルとして「現実に直面する瞬間、あなたならどうしますか?」という文言を当時のHPやDVDにした時のパッケージデザインに盛り込んでいます。
2007年には上映会も開催しました。

自主映画を制作している期間中、ワクワクする気持ちがありました。多分それまで経験したことのな感覚です。自分の感情を使って表現する芝居の面白さはありましたが、この「映像を作る」という経験は自分の頭の中のイメージを芝居ではなく映像で具現化できる、これが芝居よりも面白く感じました。
理由は多分、「ココロノトビラ」の構成を考えてる時に、ある監督の作品を参考にしたからだと思います。その映像の面白さに惹かれたんだと思います。
そして、僕は作る側へ転向することを決めました。

ミュージックビデオ

「ココロノトビラ」を作る上で参考にした監督はミュージックビデオを手がけている方です。丹下紘希さんという方です。
Mr.Childrenや浜崎あゆみ、MONKEY MAJIKなどのMVを手がけている方です。
Jam Films2というショートフィルムを集めたオムニバス作品があり、その中の「FASTNER」という作品が丹下さんの作品です。
http://www.amuse-s-e.co.jp/jamfilms2/#02

Mr.ChildrenのFASTNERという楽曲を元に映像が作られているそうです。
他には「and I love you」というMr.Childrenの楽曲のMVも丹下さん監督の作品です。

丹下さん作品をとにかく何回も見て見て見まくった結果、ドラマとか映画ではなくミュージックビデオの面白さにはまってしまいました。
ドラマもあり、インパクト重視もあり、不可思議な世界を音楽に合わせて多様に変化させ、どんな世界でも作ることができる。イラストだけでもいいですし、アニメーションやダンスを取り入れてもいいです。
表現方法はなんでもOK、音楽と合わせることで、一瞬で心を引きつけられるかどうか。音楽を視覚化したり、新たな付加価値を加える。それがMVの面白さなんだと思いました。

役者から足を洗い、制作に転向してからはネット上の掲示板やMixiに「ミュージックビデオ制作します!」みたいな告知を書き込みまくりました。
映像に転向してどれくらい経ったかははっきり覚えていませんが、ある時インディーズバンドから制作の依頼がきました。自分一人で制作した映像はありましたが、依頼を受けて制作するのは初めてです。ワクワクとドキドキが入り混じって若干興奮気味の時もありました。依頼を受けて作るのが初めてということと、とにかく経験を積みたかったのでギャラは機材とレンタルルームの使用料のみで手間賃は貰いませんでした。

僕からは2案提出しました。
1案目はドラマ仕立てのストーリーだったかな?ちょっと忘れてしまいました。
2案目は東京事変さんの「修羅場」からヒントを得たギミックを混ぜた内容です。

2案目が採用された。
個人的にも2案目に力を入れていましたので嬉しかったことを覚えています。
早速準備に取り掛かりました、たしか2・3週間かけて準備をしたと思います。

ビデオカメラは自主映画時代に活躍したskipシティの機材をレンタル。
撮影場所は吉祥寺にあるレンタルスペースと、色々準備はありましたがお大きな問題もなく撮影日を迎えました。

責任感の重さを自覚する瞬間

様々な調整や準備の総まとめが撮影です。
しかし、些細なことでも準備が詰めきれていないと現場ではとんでないトラブルになる可能性があります。それを実際に起こしかけてしまいました、信用を失う可能性があった出来事です。今でもはっきりと覚えています。

結論から言うと、撮影で使用するレンタルスペースの鍵を紛失しました。
あってはならないことですがやってしまいました。しかも撮影当日の朝に鍵がないことに気がつきました、大失態です。
前日には絶対に確認しなければならないことをすっかり忘れていて、当日の朝に気がつきました。家中を引っ掻き回しても見つからず、グルグルと頭の中で考えましたが結局見つかりませんでした。
スタッフが1人いましたが、彼は現場だけのスタッフだったので鍵を持っているわけでもありません。他に鍵と接触するような関係者は誰もいません。家の中にいてもどうしようもないのでまずは現場に行って対応を考えようと取り敢えず家を出ました。カメラや機材を持って現場に向かう途中の電車の中、ドキドキを通り越して心臓の音しか耳にはいらない状態になるほど周りの音が聞こえなくなりました。
この時ばかりは冷や汗を通り越して意識が朦朧としました。視界がぼんやりしてふわふわするような感じでした。

映像との出逢いも僕にとっては大切な経験ですが、このトラブルが自分にとっては重要な経験になりました。
台本作成・準備・調整、多くの出演者が絡み、それらを僕が中心になって動いていました。その集大成である本番で起きるトラブルは自分にとってそれら全てが崩れる可能性があると同時に信用も失う可能性もあります。
「なんとなく」でも「他人事」でもなく、この時に生まれて初めて「自分事」として目の前にある出来事にに向き合えたのかもしれません。だからこそこのトラブルが本気のピンチと思えるほど辛いと感じたのかもしれません。

現場に着いて早々に、レンタルスペースの関係者と連絡が取れ、近くの美容室にスペアキーがあると聞いたのでダッシュで取りに行って鍵をゲット!マジで超ひと安心!本気で胸をなでおろしました。

で、肝心の無くした鍵はと言うと、薄々感づいていたんですが、レンタルスペースを開けて中に入るとやっぱり鍵が落ちていました。前日下見に来たのですが、帰り際に確かビルの関係者がいたので自分で鍵を閉めなかったのです。鍵を閉めていたら確実にわかると思うのですが、その時は開けっ放しで出てきたので鍵を確認しなかったんです。

クッソ!自分クッソ!俺ちくしょう!!腹がたつ!俺っ!!

撮影開始時刻は若干遅れましたがなんとか撮影も終えたので事なきを得ました。
そのトラブル以来、
「それをやるにはその前段階でまずこれが必要だよね」とか
「その見方はこんな見方も出来ないかな」

というふうに用心深くなった?気がします。
自分がしている仕事、テレビやメディアで誰かが発言していること、それらに対して「その言葉を発言したその人の背景には何があったのか」「なぜそう思っているのか」という意識を持ち始めた気がします。当時はめちゃ勘ぐり深くて時々自分でもこんなことを考えるのが疲れることもありました。
「相手の言動の意図」みたいなものも大阪にいた時から漠然と意識していました、今回のトラブルも重なってより「相手」だけではなく「物事」に対しても意識が行くようになったのかもしれません。実際はどうか分かりません、でもこの出来事で新たな視点というか考え方というか、自分の中の何かを引き出したような、そんな気がしています。

仕事上で「そこまでしなくてもいい」と言われていたとしても、一歩先を想像し、最終的には提出や報告をしなかったとしても先を見越してできる限り準備を意識するようになりました。この出来事は本当にヒヤヒヤした出来事でしたが、僕にとっては経験しておくべき重要な体験でした。

ですが、考えることと行動に移すことは別問題です。まだこの時は考えていてもそれを誰かに言ったり行動に移したりするほど勇気も行動力もありません。
まだまだ自分の中だけでモヤモヤを抱えたり、自分一人で納得できてしまう感じでした。

映像を創ることは思考力や想像力が身につく、かも

このミュージックビデオは自分で編集を行いました。編集ソフトはFinal cut pro7を購入、高かった!貧乏暮らしの自分には超高額でした。
提案から編集、完パケまでの一連の工程を全てやると映像がどうやってできるのかを初めて体験しました。そしてとても楽しかったことを覚えています。
さらには想像力が鍛えられる、とも感じました。
頭の中であーでもないこーでもないを繰り返し、紙に書き起こし、絵コンテにして、物語を作るこの一連の流れは本当にイメージ力が身につくと僕自身は感じました。

「映像を作る」という体験、これは多くの人に経験していただきたいと思いました。極端に言うと、専門学校以外の公教育や私学でも映像制作を学習内容に取り入れてもいいのではと思っています。

理由は3つ。
個人的に楽しいとか出来上がっていく過程が楽しいとかの感情的な部分より、映像を作るという行為は思考や想像の訓練になると思っています。
この想像するという役割を果たすポジションとして1つ目は「ディレクター」、2つ目は「編集(エディター)」かなと、そして3つ目は発信力ではないかなと思っています。

1つ目の「ディレクター」は、
物語を作るために様々な情報を蓄積し、頭の中で思い描き、台本に落とし込んだり絵コンテを書いたりしてイメージを視覚化していきますよね。これはまさにイメージ力・想像力です。まだ見ぬ世界のイメージを膨らませる作業はとてもクリエイティブで想像力の訓練だと思っています。
様々な情報からピックアップし、選択肢を絞りながら面白くなりそうな物語を脳内で構築し、新たな展開を生み出す想像と思考の繰り返しです。そしてスタッフ間で共有するというコミュニケーション能力や言葉の表現力を養うのにも役立つかもしれません。

2つ目の「編集(エディター)」は、
実際に画面を見ながら「こうしてみよう」「あれを入れてみよう」「この効果はどうだ?」「タイミングはここか?」などの、試行錯誤を繰り返すという気の長くなるような作業の中に自分の想像を実行する作業の連続です。
一つ一つの画面をつなぎ合わせ、加工(se・エフェクト・BGMなど)を加えながら少しづつ具現化していく流れを自分で作れるポジションがエディターということです。
もちろんディレクターの指示を受けてからが編集ですが、自分の想像次第ではディレクターのイメージを超えるものを生み出すことも可能だと思います。
「実際に自分で操作をして目の前に想像したものを具現化する」という意味では、感覚的にはプログラミングと近いかもしれません。
さらに、映像の場合は手を加えても加えても、もっといいものはできないか?という上を目指せばきりがありませんから、果てしない?のかなと勝手に思ってます。
「試行錯誤する」という思考の訓練という意味では、映像編集は思考を鍛えるのにいいツールかなと思います。あと、編集は忍耐力が身につきます笑。

補足として、「撮影」は絵の中に何を取り入れ、どう構図を作るとかいうアート思考が養われるとメディアアーティストの落合陽一さんも仰っています。
絵の中に何を入れ、何を省き、何を主張し、何を影に潜めるか。
1つの絵にどんな物語を作るかという視点でファインダーを覗くと「記録」とはまた違った視点で撮影できそうですね。これも思考の訓練になると思います。

3つ目は、今以上に発展する映像メディアを活用し、自らも発信できる力を身につけられるという点です。これは多くの方が有用性を説いていますので、ネットで調べれば色々出てくると思いますので簡単に。
「映像メディア」はこれまで以上に身近になってきています、それは自分のPRや表現というツールにもなってきていると思います。しかしその作り方については、絵の書き方は教わっていても写真や動画の「映像メディア」の作り方を教わることは普段ほとんどありません。
映像という知識・技術を持っているのと持っていないのとでは表現方法の幅も変わりますし、選択肢を多く持つことが柔軟な発想につながります。もっと突き詰めたい場合は専門学校で学べばいいと思います、学校教育では「映像メディア」とはそもそも何で、どんな種類があり、活用方法は何があるのか、といった簡単な映像制作の実習はあってもいいと思います。

「思考の訓練✖️映像制作」は、活用できそうな気がします。

AD→フリーランス→今の仕事へ(ちょい駆け足)

本格的に映像の道へ進むために当時所属していた芸能事務所から脱退し、制作会社でADとして働き始めました。ミュージックビデオを作った時は全て独学でやっていたので、基礎は誰からも学んでいませんでした。
制作会社でロケハン・アポ・機材準備・編集などAD業を一通り学ばせて頂きました。やっぱり有名企業が絡む内容は忙しいけど楽しい、ちょっと高尚な気分に浸ったりもしました笑。働いた期間は短かったですがここで色々と学ばせて頂きました。勝浦さん、ありがとうございます!

東京で映像制作に転向して大体3年経った時に、家庭の事情で大阪に戻ることになりました。祖母の体調不良が理由です。
大阪に戻ってから最初はフリーランスで仕事をしていました。東京で知り合った方から編集の仕事を頂いていたので、自宅で部屋に閉じこもって黙々と編集をしていました。編集の量はそれほど多くなかったので生活の為に制作会社へ自分のポートフォリオを作って営業して仕事を受けたりしていました。

この時の僕は物事に対して、能動的ではなく受動的でした。仕事自体は淡々と進めることができると思いますし、とくに大きなトラブルもありませんでした。
skypeでの打ち合わせや事務所に行って打ち合わせ、地方に行っての撮影や素材データを受け取って編集。最初に期日を決めれば、あとは基本的に自分で撮影や編集スケジュールを決めて進めていました。それほど大きな仕事を受けていないっていうのもありますが、、、。

この時に感じたことは、リアルな人間からの情報や刺激、そして社会が動いている実感がわかないことに対する「不安感」でしょうか。
当時の僕は、ニュースアプリで情報収集やTwitter・Facebookもやっていませんでした。インプット・アウトプットはほとんどしていなかったのです。周りの人間がどんなスキルアップや経験、どんな現場に行っているのかが正直分からず、孤独感すら感じていました。同僚や近くに他者がいれば話をしたり行動を見るだけでも自分なりの考えを巡らすことはできますが、それらが基本無かったので自分の主観でしか物事を考えず、俯瞰して判断できないような状況でした。
自分が能動的に情報を集めることをしていなかったことは自分の責任ですし、考えが甘かったのも事実です。しかしこの時はそんな考えを巡らすこともせず、ただモヤモヤを感じていました。
もしかしたら他の理由があったのかもしれません、思いだしたら追記します。

そして、どこかの制作会社か企業に所属して働こうと決めました。
求人募集を漁っているとたまたま教育系企業の映像職募集を見つけたので応募しました。当時は派遣社員として派遣会社から出向の形でした、面接も1回でだけで通過したのでそこで働くことになりました。
教育にもともと興味があったわけではなく、この時は本当に偶然この仕事を見つけただけです。

映像授業と呼ばれるネット配信用の動画の制作です、東進のCMでやっているような動画です。この仕事は2012年3月から2019年4月の今の時点でも継続しています。フリーランスは約1年半ほどで終了しました。


今回はここまで。
なんか乱文で申し訳ありません。
映像制作に関する話だったので、面白くなかったら飛ばしてくださいm(_ _)m

次回は近日公開します。

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