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「子育てが社会を変える」と思うに至るまでの半生(2/7)

小学生以前

父は電気工事士で母は生命保険のセールスレディにヤクルトのお姉さん(わかります?)をしていました。
共働き家庭だったので僕が小さい時はよく祖母の家に預けられていました。
当時住んでいた家から15分くらい歩いたところに祖父母が小料理屋を営んでいたので小さい時はよく遊びに行ったりご飯を食べに行きました。
よく母が送り迎えしてくれました。
お店に出すような料理を食べていたので家庭の味は祖父母の料理でした。
母の味は豆腐を手でちぎったお味噌汁です、他の料理は正直記憶にありません。
この頃の記憶はほとんど覚えていません。
まあ無い人の方が多いのかなと思うんですが、何かに没頭したり夢中になった記憶はありませんね。

今でもはっきり覚えているのは、保育園で皆んなが帰った後に母となぜか兄が迎えに来ました。
母と保育士さんが施設内で話し合っている時に公園の4人乗り?のゴンドラに似た形のブランコで兄と遊んでいました。
兄がめちゃめちゃ強く漕いでしまったせいでブランコが外れて私は後頭部から地面に落ちました。
痛いと言う記憶が強いので兄がどうなったかわかりませんが、救急車も呼ばなかったみたいなので大事には至らなかったようです。

ドラゴンボールの孫悟空が幼少期に崖の下に落ちたことがきっかけで性格が変わった、なんて素晴らしい出来事ではなかったです。
ただ第号泣したような覚えがかすかにあります。
ひょっとしたら素晴らしくない方へ向かうきっかけだったかもしれません。

もっとも小さい時の記憶はこれです。


小・中学校時代のいじめと家庭環境

小学生の低学年の頃だったと思います、年に1〜2回は父が釣りに連れて行ってくれました。
釣り船に乗って少し沖まで行ってアジを釣ったり、タコも釣ったことがあります。
この時はとても楽しかったのを覚えています。
ただ、この頃の褒められた記憶はなかなか思い出がなくて、「学校行きなさい」「勉強しなさい」「ちょっとそっち行っといて」という言葉は今でも記憶に残っています。(なぜ母がこんなことを言っていたのかは後半で記載します)
だからかもしれません、自己肯定感が低かったんでしょう。
自分でやりたいいことも特になく、社交性もほとんどなかったので誰かの後を追って真似ばかりするような子供でした。

そんな性格だったからでしょうか、小学校4年か5年の頃からいじめをうけるようになりました。
人によって程度の差はありますが、世間的にはまだ軽い方のいじめだと思います。

「お前来んでいいって」
「何言ってんの?」
「え、何?」

話をすると基本こういう返事が帰ってきます。

「ちょっとお金貸して」

大金ではないですが、小学生にしては大きなお金です。
廊下で通りすがりに殴られたり、貸した消しゴムがバラバラになって帰ってきたり。
毎日じゃないですが、時々こんなことがありました。

当時は超人見知りだったので友達もほとんどいませんし、一人でサッカーボールを壁当てしたり家でゲームばかりしていました。
一人で遊んでいる時は友達の文句や愚痴を一人でブツブツ言いながら下を向いて遊んでいるような少年です。

中学生になって少し話せる友達はできましたが、いじめる人間も中学になると同時に増えました。
いじめの頻度も当然増えました。
小学生時代のいじめが始まってから中学生の間ずっと、なるべく目立たないようにしてたと思います。
誰かと楽しそうに話しているといじめっ子が何かとちょっかいを出してきて、その度に気持ちが落ち込んでいたのを覚えています。
でも自殺したいというところまでは考えていません。
そこまでいじめはヒートアップしなかったので精神的には何とか保てました。
なるべく目立たないようにしよう、静かにしてよう。
と、今思い返せばそんなことを考えていたんだと思います。


小学校高学年の頃だったと思います、時々釣りに連れて行ってくれた父は家にいませんでした。
別居しました。(時期ははっきりとは覚えていません)
近所に住んでいましたが、年に1回くらい家族で焼肉を食べに行く程度の交流です。
生活費は父からもらっていたと思います。

当時の僕は、母が精神的な苦労を抱えていることを考えもしませんでした。
「手助けしたい」と思えていれば少しは状況も変わっていたのかもしれませんが、当時の僕はそんな考えを持てなかったので、ただただ不満を抱いてブツブツ独り言を言いながら何も改善せず目の前の事実から逃げていたんだと思います。
だから母が基本一人で、家と僕と兄を守ってくれていました。

そんな状況もあって母は家ではよく怒っていましたし「勉強しなさい!」「さっさと寝なさい!」と言われてきました。
自分の性格上、意見を言えるわけもなく素直に聞いていました。
もちろん勉強に集中なんてできません、しているフリです。

小学校の高学年の頃は近所の警察署がやっている剣道道場に通っていましたが、これも行きなさいと言われて行っていました。
しかし実際は行っていません、家を出て通っているフリをしてましたが、近所の駐車場とかで時間つぶしをしてました。
学校も行くのがイヤな時は無理やりくしゃみをして風邪を引いたフリをしてました。(コツさえつかめばくしゃみはコントロールできます笑)
そろばん教室も行きましたが1日で行かなくなりました。
中学2年のころから近所の塾に通いましたが、勉強に興味が湧かなかったので、塾に通っていながら偏差値は低かったです。

これらは全て母が勧めてきた習い事ですが、基本的に「やりなさい」と言われたことに対しては、本当にのめり込むことができませんでした。
「自分は勉強もできない・友達もいない」そう思っていたので自分がとにかく嫌いでしたし、何か変えたいと漠然と感じていましたがその方法もわかりません。
言われたことを一旦やってみますが結局形だけで、体裁だけ取り繕って後はゆっくりフェードアウトしていました。


無意識の没頭

当時のことを思い返すと、あることを発見しました。
友達もほとんどいなかったですし親や学校から言われたことに対しては本当に興味を持てなかったのですが、テレビや本などで好きになった物事に対しては没頭していた記憶があります。もしかしたら現実逃避なのかもしれませんが。

小学校4年生ごろだったと思います。学校で唯一気の合う女子生徒と友達になったことがあります。
喋ることが苦手だったのでそんなに喋った記憶もないんですが、ある時その女子生徒の自宅へ遊びに行っったことがあります。
自宅へ行くきっかけは忘れたのですが、僕は買ったばかりの組み立て前のミニ四駆を持っていきました。(ダッシュ四駆郎ご存知ですか?確かバーニングサンだったと思います)

お昼頃だったと思います、その人の自宅へ行って家の中には上がらず玄関先でミニ四駆を組み立て始めたのです。
気がついたら外は暗くなってました、昼頃から多分夕方5時頃まではずっと黙々と組み立てていたかもしれません。
その数時間とにかく夢中でミニ四駆を組み立てていたのです、友達の自宅の玄関先で。笑
しかもその友達は僕が組み立てている間ほぼずっと目の前に座ってくれていました。すごく安心してすごく嬉しくて夢中になって組み立てていたことを覚えています。
なぜ玄関先なのか、なぜミニ四駆を持って行ったのかのかはまったく覚えてないのですが、この場面の記憶は鮮明に覚えています。

今思うと妙な光景ですよね、でもそんなものかもしれません子供時代というのは。
しかし偶然起こったレベルの出来事なので本当に稀です。

基本モヤモヤを抱えていました、そのモヤモヤは多分いじめや家庭環境からくる不満だと思います。
何かが自分の中でふわふわしていて「あれをして遊ぼう」「ここに行こう」「もっと○○したい」みたいな感情は多分持っていなかったと思います。
ミニ四駆事件のように、偶然没頭できる瞬間はありましたが本当に稀な出来事です。

小学校高学年と中学生時代は「明日も学校か」という憂鬱な意識がかなり大きかったので他のことを考える余裕はなかったと思います。
ただただ不完全燃焼で全てが終わっていました。
この時は常にモヤモヤを抱えながら生活していたんじゃないかな、今思えばそんな印象です。


今回は小学生時代まで。

続きは来週前半ごろに公開します。

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