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「子育てが社会を変える」と思うに至るまでの半生(3/7)

高校時代の「解放」と「気づき」

前回の続きです。

高校生になったらいじめっ子たちは別の高校に行ったり就職をしたので接する機会がほぼなくなりました。
家まで押しかけてくるようなしつこいいじめではなかったので、高校に行ってから僕はいじめから解放されました。

とは言え、小・中とあまり人とコミュニケーションを取ってこなかったので、高校になっても人と会話することはやっぱり苦手でした。
精神的には楽にはなりましたが、人と交流することを避けて生活をしてきたので会話の仕方がわかりませんでした。
どうやって会話の糸口を見つければいいか、どうやって話の輪の中に入っていけばいいのかがわからなかったので基本は待つスタンスでした。
聞かれたことには答えますが、自分から声をかけることは少なかったと思いますし、もちろん授業でも自分から手はあげませんでした。
目立つ行為が好きじゃなかったし間違えたらどうしよう、と考えてしまうので小・中学と同じで目立たないようにしていました。

軽く引きこもり気味だった自分にとって、高校時代に転機だとはっきりと思える出会いがありました。

高1の夏頃、初めてアルバイトをしました。家の近所でホッカイロを製造している工場のライン作業員です。
親戚がそこで働いていたので紹介して頂きました。
この時に知り合った同学年や少し年上の友人が僕にとっての転機でした、その友達とは今でも交流があります(年1回会うか会わないか程度ですが)
僕にとっては普段のたわいのない話や学校のこと・嫌なこと・恋愛、そんな何気ない話をできる存在ができたことが、自分の価値観を変える出来事でした。
それまでは人と接することを避けてきましたから、初めての感覚に近かったと思います。

年齢は当時の僕と同じ16歳から、大学生の21・2歳くらいまでだったと思います。全員で10人くらいかな。
学校終わりの5時〜8時くらいまでの短時間、工場作業でした。
バイト仲間と仕事帰りに近くのマクドナルドで数時間喋ったり、カラオケに行ったりしました。
このメンバーとは高校を卒業して就職した後も時々遊びました。
春はお花見、夏は琵琶湖に釣りに行ったり。
生まれて初めて「友達」という存在を実感しました。
たわいもない会話もしますし、話すことがなくてただボーッと一緒にいるだけでも。
中学校以前にはほとんど感じたことのない楽しさを経験しました。

今思い返すと、この時にある感覚を感じていたことを思い出しました。

初めての認めてくれる存在

1つ目は、
今から約20年くらい前のことなので、まだまだ縦割り社会で体育会系?的な思想が根強かった時代だと思いますが、アルバイト仲間同士では先輩や年齢関係なく良いものは良いと認めてくれたり気さくに話しかけてきてくれた人達でした。
今までは人と対峙する時に、自分の中での「見えない壁」を感じていたような気がします。
物理的なものではなく、精神的なものです。
「こんなこと言われたらどうしよう」「こんなことを言ったらどう反応するかな?」とか、心の中で複雑なことを考えすぎて言えないことがほとんどでしたが、ここではある程度は素直に言えた記憶があります。完全に素直にはなれていないでしょうけど、それでも発言に対して楽な気持ちを持てていたと思います
超小規模なダイバーシティなのかな?
多様な価値観があって、好みはそれぞれ違っていても良しとする、それをお互いが認め合う。
今思うと、あのアルバイト関係が「みんな違ってみんな良い」との最初の出会いだったのかもしれません。

相手の言動の意図

2つ目は、
どう言葉で説明すればいいのかちょっと迷いますが、
「今どうしてこんな言葉を言ったんだろう」「何故この行動を取ったんだろう」
という考えが頭の片隅に頻繁に浮かび上がってきたことです。
相手の言動の心理を読み取りたいとか、相手のことをもっと知りたいとかじゃなく、今誰かが言った発言がただ何となく気になっていた、という程度の感覚です。
モヤモヤした気持ちになったりしましたし、良いものは良いと感じて行動を真似してみたり、言い方を真似てみたり。
良いと感じることもそうでないことも、言葉にするほどのことでもなく、ただ自分の中に「あの時の発言の意味」という漠然とした感情が記憶に残りました。
その感情を論理的に考察するようなことは当時は当然できませんでした。しかしそれが当たり前のような感覚もあり、自分の中に日々積み重なっていく感覚はありました。
子供時代にそんな感覚を持っている人は僕以外にもいるかもしれませんが、そんなことを言う人は周りにいないし聞いたこともないので、自分だけが気になっていたと思ってたので誰にも言いませんでした。

この記事を執筆しながらなぜこんな感覚を覚えたのかを自分なりに考えてみました。
思い返してみると、多分いじめや家庭環境での「自分の思いとは反対のことが起こる」という経験が自分の中で「どうして?」という考えを生むきっかけになったのかなと思っています。
「こんなことをするのはどうして」「本当は嫌なのにどうして」、そんな感情を小・中学生時代は言語化できませんでしたし、論理的に考えるなんてできません。
そんな経験から「この言葉を言った意味は何?」「この行動を起こした動機は何?」などを考えるきっかけを与えてくれたのかもしれません。
しかしそれを検証することはできません。検証しようにも「いじめ」を再度行うとか、当時の気持ちを再現しようにもそれは不可能です。
本当に当時の「いじめ」や「家庭環境」が理由で「相手という存在」を意識するようになったのかは結局はわかりません、、あくまでも今の僕が考える想像の範囲内です。

別の理由があったのかもしれません。
しかし、他人が見れば通り過ぎる発言も高校生時代の自分には何か引っかかる要素はありました。


多分、誰でも些細なことが自分の中に積み重なってそれが大人になった自分を構築しているんだと思います、良いことも悪いことも全て含めて。
僕の場合、「相手の言動の”何故”」ということを意識するきっかけが少しマイナスな所からだったんだと思います。
高校生時代はそのことを意識していてもどう表現すればいいのかわからなかったので、周りに合わせたりしながら感情を表に出すこともなく生活をしていました。
ざっと計算して、この感覚をだいたい20年くらいは持ち続けていくことになります、本当に自分は成長速度が遅いと実感します。


高校生時代は、解放されると同時にほんの少しの”気づき”を得られた時代でした。


今回はここまで。

続きは2.3日以内に公開します。

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