見出し画像

「子育てが社会を変える」と思うに至るまでの半生(4/7)

社会人デビュー&芝居でメンタルケア

前回の続きです。
今回は恥ずかしい男アピールです!

高校を卒業した後は大学には行かず就職しました。
もともと勉強に目的意識や意義みたいなものは持てなかったので偏差値が低く(謙遜ではなく本当に低いんです)ても入れる高校に進学したので大学に進む選択肢はありませんでした。
就職先は家から自転車で20分くらいの溶接工の工場で働いていました、扉とかドア枠とかを作っていました。
学校の体育館の入り口にある防火扉なんかも作ってました。

最初に就職した時代は2000年頃で、「多様性」「働き方改革」「女性の社会進出」という言葉が出る前の時代だったので、「働くとはこういうもの」という意識を持っていましたし、それが当たり前という感覚でした。
この時は何かやりたいことがあるわけでもなかったので、ただ毎日仕事をして休日は友人と出かけたりカラオケに行ったり、そんな生活を続けていました。
あまり変化のない日常だったと思います。


現実逃避という「きっかけ」

就職して3年くらい経った時に同僚の女性と付き合うことになりました、初めてできた彼女です。
僕は工場で、彼女は事務のデスクワーク。
当然「自分、不器用ですから」な感じなので気持ちを汲み取るような器用なことは思いつかず、困らせることもあったと思います。喧嘩や空気の悪い感じは今でも覚えています。
若気の至り、といえば聞こえはいいですが何も知らない無知な子供でした。

付き合って2年くらいした時、僕の家でご飯を食べ終わった時に彼女から手紙を渡されました。
そこには今の思いが綴られていました、内容はもう覚えていないですが彼女の目の前で号泣したことは覚えています。
どうしてあんなんなに泣いたのか、初めて付き合った彼女ということもありますし、何より彼女のご両親や家族と一緒にご飯を食べたりした関係でした。言葉では直接伝えませんでしたが、「結婚」は意識していました。
しかし当時の自分は今思い返してもカッコ悪い男でした、これは当時からも自覚していました。
「嫌な思いばかりさせている」と気づいていながらそれに対して逃げては知らんぷりをしていました、当然嫌気もさすと思います。
でもなにをどうしていいのか、「もっとしっかりしないと」と思っていてもなにをどうしていいのかがわからない状態で、そんなモヤモヤした気持ちのままズルズルと時間だけが過ぎて行っていました。
だから、手紙を渡されてそれを読んだ時は、「そりゃそうだ」という気持ちとか「情けない」という気持ちとかが混ざって、虚脱感というか力の無さのようなものを感じました。
別れてから数年はショックが続きました。
「彼女のことを考えたくない」という意識さえありました。
(一歩間違えればストカーですからね、これ!)

僕にとっては、この経験が動き出すきっかけだったのかもしれません。

別れてからしばらくして彼女が会社を退職しました。理由は当然わかりません。
それから更に1年くらいしてからでしょうか、彼女が会社の近くに寄ったんだと思います。
連絡を受けた同僚の女性数名が会社のビルの玄関前に集まっていたのですが、女性達が囲っているのはベビーカーでした。
その後の記憶はよあまり覚えていません。

唯一考えたのは、「別れてから1年くらいで子供・・・?????????」

今思えば恥ずかしい限りです。
別れた以上、以降の人生は本人が決めるのにネチネチ色々考えては自暴自棄になってました、本当にカッコ悪かったです。


芝居との出会い

当時は、数週間か数ヶ月は感情をどこかに置いていったような感じで、ロボットのように仕事だけをしていたと思います。

そんなことがあってから数ヶ月後だったと思います。
たまたま目にした新聞に「新人俳優募集オーディション」の記事が載っていました。
記事を見たその瞬間に感じた「俳優という仕事に対する興味」と「彼女のことを忘れたい」、この気持ちだけで応募しました。
不純な動機だと思います、俳優を小さい時から夢見ていて頑張っている人からしたら努力の量も熱量も圧倒的に少ないと思います。
でも当時は、今の自分の感情がよく分からなくなっていて、この頭の中をすっきりさせたい、そんな理由で応募しました。

そしてオーディションに合格することができました。
それからは会社で働きながら週末は演技の練習の日々が始まりました。

芝居の練習をしている時のことを振り返ると、興味・関心のある対象に意識的に集中するという行為をこの時に初めて経験したかもしれません。
それまでは物事に興味・関心を持つこと自体がほとんどなかったので、適当にうまく生きてきたんだと思います。
一般的な考えとして、「俳優で有名になる」「自分を表現することが楽しい」という意思を持たれている方は、芝居の稽古やオーディション、作品に出演することで表現の方法を身につけたり、知名度が段々と上がっていくでしょう。
しかし僕の場合、この俳優の取り組みはどちらかというとリハビリに近いかもしれません。
いじめや家庭環境、これまでの経験があって、心をどう開けばいいのか、自分でもコントロール出来ない状態だったんだと思います。
芝居の上手い・下手は関係なく、「他者になる」という特殊な環境や心理状態が身体や心の動かし方を教えてくれたのかもしれません。

徐々に自分を表現することに楽しさも感じ、「俳優という目標」を介して、生まれて初めてやり甲斐とうものを感じたのかもしれません。
昔からこんな思いを抱いていたわけでもないので、ぶっちゃけ俳優への入り口は不純です、逃げる選択肢として俳優を選んでしまいましたから。
他の人からすれば圧倒的に努力量も熱量も思いも少ないでしょう、しかし当時の自分にとってはメンタルケアであり、「考える」という経験も少なかったので、僕にとっては数少ない選択肢だったと思います。


昔の価値観と現代の価値観(ちょっとブレイク)

23歳くらいの時、東京の芸能事務所が自費で制作する映画のオーディションを雑誌でみつけました。
ちょうどこの頃は「やっぱり俳優やるなら東京かな」という根拠のないイメージを持っていたので、思い切って会社を退社することにしました。
母にも話しましたが当然説得されるようなことを言われましたが、あまり相手にもせず押し通すような感じで東京に行くことを決めました。

今の時代は物事に対して興味や関心を持つことがスキルアップ、そして自分の価値を高めることに繋がると認識されてきています。
そしてこの流れは今後益々大きくなり、個人の価値を高めないと収入に直結すると考えていますし、間違い無いのかなと思います。
しかし、2000年代始めはそんな価値感を持った大人は今以上に少数派でした、母も「1つの企業で長く働き続ければ将来安泰」の側でしたので、話し合って合位点を見出すような視点は当時の僕は持っていませんでした。

つまり、人生を謳歌した時代によって価値観や捉え方が違うということです。

母の生きた時代と僕が今生きている時代でなぜこうも価値観が違うのかを僕なりに考察してみました。
ちょっと話をブレイクしますね☕️
ご容赦ください。

母は昭和20年代に生まれました、多感な時代は30年代〜40年代でしょうか。
映画の「ALLWAYS 三丁目の夕日」が昭和30年代が舞台背景です。
この時代は経済が急速に発展し、生活が急激に変化していった時代で物やサービスがどんどん生まれ始めた年代でしょう。
この時代は戦後復興の時代で何も無い状態から物やサービスが生まれ始めた時代。
「顧客が本当に求めているものとは何か」という考えではなく「目新しいものは顧客に好まれる」、そんな傾向だったと思います。
さらに、戦中・戦後からの軍隊教育を受けてきた大多数の人は足並みを揃え、指示通りに勉強することが身についています。
しっかり教育されてきた人(当時の優秀な人材)たちが上司や会社から「指示」を受けて従事することが「普通」であり「当たり前」なんだと思います。
個人の能力よりも企業の発展が重視されていた時代です。
そしてその教育は当時の時代背景、つまり高度経済成長真っ只中の工業化社会においては、日本全体を下支えする人材を輩出することができました。
当時の教育は日本を成長させる上ではとてもマッチした教育方法だったのではないかと考えています。
その結果として日本は急速に発展していきました。

当時としてはとてもよい教育方法だったかもしれませんが、2000年以降のグローバル時代に突入した現代においては、当時の教育を受けて育ってきた人々が、弊害を生んでいると僕自身は感じています。

「本質」を考えられる人が極端に少ないのではないか、ということです。
やはり戦中・戦後時代の軍隊教育から脱出できていない昔ながらの教育を受けている大人はもちろん、今の学生すらもまだまだ知識提供型の教育を受けている人が大多数でしょう。
(もちろん現在様々な教育を提供する指導方法は増えてきているのも事実です。)
軍隊的な部分は排除されていったとしても、まだまだ数字だけで判断されている現状です。
目に見えて判断しやすいですからね、点数をつけやすいんです。
非認知能力である「好奇心」「疑問力」「没頭力」といった心の根底にある深層心理にはまだまだ目を向けられていないのが事実です。

要するに、「本質は何か」という疑問を持っていてもそれを見て見ぬ振りをする、もしくは目の前の与えられたことだけをすることに重点を置くため、本質そのものを考える取り組みがほぼ無いのがこれまでの風潮であり、教育でした。
更に、その「本質」の捉え方もその時代の状況や環境によって変わると個人的には思っています。
今はインターネットがあるからそれを前提にした課題解決で考えますが、戦中・戦後は当然ありません。
つまり、デジタルによる課題解決とアナログによる課題解決とでは発想そのものが異なるんだと思います。
加えて、物が今よりも少ない時代に「目新しいものを出せば売れる」という体験をした人にとっては「そもそも本当に必要なのか」という結論も、現代の人が見出す結論とは異なると思います。

その結果として、高度経済成長の時代を生きた人にとっては「本質」を考える経験が少なかったり、考えていたとしても「本質」の捉え方が現代とは違っていたりするんだと考えています。
そのような人たちが、経済が急速に発展する社会を下支えし、そして実際に発展していきましたから「それが普通・当たり前」と思ってしまっても仕方がないのかもしれません。

現代人(10・20・30代くらい)の価値観と、高度経済成長時代以降の働いてきた人々との価値観の違い。
その原因はこのの3つかもしれません。

「軍隊教育」
「経済のあまりにも急激な発展」
「当時の本質の捉え方」

この3つが要因となって、50代以上の親世代の「現代に合った本質を考える力」が身についていない要因なのではと思っています。
もちろんプライベート的なことが要因かもしれませんし他にも要因はあると思いますが、社会的な理由としてはこんなところだと考えています。

話は戻ります。


東京デビュー&借金&殺陣(たて)

俳優を志して僕は東京、ではなく埼玉の川口に引っ越しました。
有名ではないですが芸能プロダクションにも所属し、役者としての活動を始めました。
レッスンをしながらスポット的な単発アルバイトで生計を立てていました。

ほとんど誰にも言ったことはないのですが、カードローンで借金もしました。
1ヶ月の収入は本当に少なかったのでアルバイトでは毎月の生活が苦しくなり、ちょくちょくお借りしてました。
3社からお借りして最終的には百数十万程度になりました。
当時は審査もゆるかったのでアルバイトの僕でも借りれました(今は審査基準どうなってるのかは分かりません)。
借りては返済、また借りては返済、これを大体10年間繰り返していました。
結婚する前年(2015年頃)には全て完済しました、ギリギリセーフでした(妻には未だに内緒にしています笑)
とにかく毎月返済におわれていた覚えがあります。

エキストラがほとんどで「◯◯役」と呼ばれる仕事はほぼありませんでした。
しかし嬉しいことに東宝の関係者と知り合うことができ、静岡の大名行列には参加できました。これは本当にいい経験になりました。
鎧を身にまとって道路の真ん中で殺陣をするのは気持ちいいですが、それほど鍛えていたわけでもないので汗ダクダクで動き回っていました。
殺陣の練習を週2ペースで高田馬場駅から10分くらいの所にある市民体育館で毎回2時間練習してました。
最初の頃は練習が終わると腕と腰がガクガクで、疲労困憊とはこのことなんですね笑。

俳優の活動は僕にとっては、どちらかというと「人とのコミュニケーションを学ぶ場」だったかもしれません。
年齢も20代、出会う人は基本先輩が多かったです。
色々な方々から表現方法や心構えを教えて頂いたり、繋がることでさらに次に繋がるということもこの時に始めた経験しました。
朝まではしごもしましたが明け方は正直ただ眠かったです。

東京に行って3年目くらいの時、東京に来るきっかけになったオーディションで知り合った俳優志望の人から「自主映画団体を立ち上げるから一緒にやらないか?」と誘われ、参加することになしました。

これが僕にとっての次の転機になります。


今回はここまで。
次回は近所中に公開します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?