今川義元の戦死を示す史料

 織田信長は永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦で東海地方の大名今川義元に勝利した。義元はこの合戦で戦死したことが知られている。

 だが多くの場合、ネットの情報ではこの事実のみが語られているにすぎない。義元戦死を示す史料がなくてはこれを歴史事実として認識することはできない。そこで今回は義元戦死に関わるいくつかの史料をみていきたい。

・佐久間信盛書状写(「伊勢古文書集」所収)

今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候、可有御推量候、
(中略)
  六月十日    信盛御書判
   福井勘右衛門尉殿
         まいる御返報

・読み下し
今度合戦の儀につき、そうそうにお尋ね本望に存じ候、義元お討ち死にの上に候あいだ、諸勢を打ち捕り候こと、際限これなく候、ご推量あるべく候、

 この書状は信長の家臣佐久間信盛が記した書状である。宛名の福井氏は伊勢神宮の御師(寺や神社への参詣を案内する人)だ。

 佐久間は福井に対して

「今回の合戦(桶狭間合戦)の件について、早々にあなたからお尋ねいただきまして、まことに本望です。義元が討死され、その上で今川軍を限りないほど討ち取っています。こちらの状況をご推量ください。」

 と記している。桶狭間合戦の模様を佐久間が福井へ伝えた際の史料として位置づけられるのだ。

 信長を祀った建勲神社に所蔵される太刀には次のような銘が記されている。

永禄三年五月十九日
義元討捕刻彼所持刀
織田尾張守信長

 戦死した義元が所持していた刀を信長のもとに渡ったことを示す文言として注目できる。

・今川氏真書状(「天野文書」所収)

今度不慮之儀出来、無是非候、然者当城之儀、堅固申付之由喜悦候、軈而可出馬候、
(中略)
  五月廿五日  氏真(花押)
    天野安芸守殿

・読み下し
こんど不慮の儀出来(しゅったい)、是非なく候、しかれば当城の儀、堅固に申しつけるのよし喜悦に候、やがて出馬すべく候、

 この史料は桶狭間合戦の直後、義元の子氏真が今川氏に従属している天野氏に発給したものだ。この中で氏真は

「今回の予想外のこと(義元戦死)がおこり、なんともいえない。あなたが守る城は堅固にしつけているとのこと、喜ばしいです。私はすぐに出陣いたします。」

と記している。

 義元の戦死によって氏真は部下に対して、すぐに出陣して信長と戦う考えを明言していたのであった。結果的に氏真が出陣したかは定かでない。

 義元の戦死については武田信玄も触れている。桶狭間合戦の直後、信玄は今川家臣の岡部氏に対して次のような書状を出している。

・武田信玄書状写(岡部家文書)

(前略)
抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、
(中略)
  六月十三日  信玄御書印
    岡部五郎右兵衛尉殿

・読み下し
そもそもこんど不慮のしあわせをもって、利を失われ大略敗北

 信玄は今川氏が今回の戦いでまさかの大将義元戦死によって、利を失うこととなり敗北したと記している。東海地方を治める今川氏領国周囲の大名も桶狭間合戦は今川氏の敗北だと認識していたようだ。

 今回は義元戦死について取り上げた。実際にこのような文言で義元の死が記されていたのかと驚いた方も多いかと思う。当時記された様々な文字史料から事実を確認していくことは歴史の醍醐味の一つといえるのではないか。