宮澤賢治「なめとこ山の熊」について4~小十郎まちへ毛皮を売りに行く

 ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆(きも)を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。
 町の中ほどに大きな荒物屋があって笊(ざる)だの砂糖だの砥石(といし)だの金天狗(きんてんぐ)やカメレオン印の煙草だのそれから硝子(ガラス)の蠅(はえ)とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな唐金(からかね)の火鉢(ひばち)を出して主人がどっかり座っていた。
「旦那さん、先せんころはどうもありがどうごあんした」
 あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして丁寧に敷板に手をついて言うのだった。
「はあ、どうも、今日は何のご用です」
「熊の皮また少し持って来たます」
「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」
「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉くんなさぃ。安くてもいいます」
「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗(ひえ)がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。
 里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で言ったもんだ。
「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉(く)なぃ」小十郎はそう言いながら改めておじぎさえしたもんだ。
 主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして言ったもんだ。
「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ」
 店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。
「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ」
 小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談(はな)す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳(ぜん)できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている。
 間もなく塩引の鮭の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。
 小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口(ちょこ)についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。 

(青空文庫より)

「ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆(きも)を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。」
本当に「気の毒」なんです。そうして、「荒物屋の主人」に対する聞き手の怒りは、メラメラと燃えあがります。

前話では、親子の熊の交流に共感していた心優しい小十郎の様子が描かれたが、今話では、そのような「立派」な人間が、「いやなやつにうまくやられる」不条理が描かれる。

「小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。」
「薄笑い」は、たちの悪い笑いだ。相手を蔑(さげす)む気持ちが自然と表れた笑い。はっきり言うと、またあのバカが来た、という様子。猟師とは下賤な者がする仕事であり、そんな罪深い仕事をしても平気な愚者が小十郎だと、店の者は思っている。店の「しきいを一足また」いだだけでこのような笑いを浴びたら、ふつうであればそのまま引き返して帰ってしまうところだ。しかし小十郎にはそれができない。家族を養う責任が、彼にはある。毛皮を買ってもらわなければならない。
店の主人には、また今回も小十郎をうまくだまし、熊の毛皮を安く買いたたいてやれという魂胆がある。その気持ちが、「うすわら」いにあらわれる。
だから、「店の次の間に大きな唐金(からかね)の火鉢(ひばち)を出して」「どっかり座っていた」というのも、主人の演技だ。ここから先、ずっとこの主人は演技を続けるのだが、いかにも自分は威厳があり、お前よりも上の立場なのだ、金を出して買ってやっているのは慈悲深い俺だと言わんばかりの態度。だからこれは、小十郎を威圧するための「どっかり」だ。(腹立つ!)

「「旦那さん、先せんころはどうもありがどうごあんした」
あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして丁寧に敷板に手をついて言うのだった。」
前回も小十郎は、この店に来て毛皮を売った。まず前回のお礼の言葉から始まるところに、小十郎の人柄が表れている。また、今回もどうか買っていただけないかという気持ちの表れでもある。だから「丁寧に敷板に手をついて言う」のだ。

「はあ、どうも、今日は何のご用です」
この主人の言葉、憎たらしくありませんか? 憎たらしいですよね! 腹が立ちますよね!
立腹のあまりここは飛ばしたいのですが、そうもいかないので、仕方なく説明します。
まず、「はあ、どうも」に腹が立つ。小十郎の丁寧なお礼の言葉に対して、「はあ、どうも」という言葉を返す主人の方が、下賤な奴だ。言葉の選択が、大きく間違っている。小十郎の方が、どれだけ立派か分からない。
続く、「今日は何のご用です」って、どういうこと? 何とぼけてんの。そこ、とぼける? お前は狸か? 人間界には、人の皮を被った獣がいるということか? 何の用かは決まってるじゃん。熊の毛皮を売りに来たんだよ! 言わせんな!
だって、小十郎は、「山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足」またいで入って来たんだよ! そうして、「先せんころはどうもありがどうごあんした」って、「丁寧に敷板に手をついて」まで、前回買ってもらった礼を言ったんだよ! さらに、「毛皮の荷物を横におろし」たんだよ! その相手に、「今日は何のご用です」って言う? ふつう言わないよね! この店の主人は、ふつうじゃないです。ほんとにイヤな奴です。だって、小十郎は、何も悪いことしてないんだよ。前回店で暴れたとかだったら、そりゃ、こんな態度でもしょうがないよ。腰と頭を低くして、下手に出ている人に、こんな態度とるかなー? とらないよ。

小十郎に、この店で暴れる権利を与える。
暴れてよし!
鉄砲の餌食になるべきなのは、クマさんじゃなくて、コイツです。コイツでいいです。
(過激になってきたので、少し冷静になります)

「熊の皮また少し持って来たます」
小十郎さんは真面目で正直な人だから、主人の問いに、そのまま素直に応えるんです。

「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます(今日は、まず、要りません)」
トボけてます、この人。オトボケ攻撃です。でも結局買うんだよ。ひどいよね。買う必要がない、買う気がないふりの演技。
まず、「熊の皮か」がひどくないですか? ここはですね、「熊の皮かぁ……」って言ってます。「か」の後に「ぁ……」が付いてます。小十郎が何しにこの店に来たのか、皆目見当もつかなかったけど、「熊の皮また少し持って来たます」と言われて初めて、そういえば、この人は、いつも熊の皮を売りに来ていたっけ。言われて初めて気が付いた。という演技だ。(こんなイヤな説明させんな!)
それから、店の在庫状況は、今、どんなだっけなぁと、倉庫の中の在庫を思い出しているふりをしている。そんなことは主人はとっくにわかりきっている。でも、それを、わざわざ演技する。買う必要がないということを前面に押し出して、少しでも安く買おうと思ってる。
賢治さんは、悪役を描く名人ですね。
そして、ダメ押しの、「この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」という言葉。買いませんということの宣言だ。前回の品物もまだ売れていない。つまり在庫は残っている。だから、新たに仕入れる必要はない、ということ。

「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉くんなさぃ。安くてもいいます」
小十郎にしてみれば、どうしても毛皮を金に換える必要がある。そうしないと、家族が生きていけないからだ。小十郎にとって今のこの交渉の成否は、そのまま命につながっているのだ。
一方、主人は、この言葉を待っていた。このセリフを小十郎に言わせるための演技だった。今日も、バカみたいな値段・こちらの言い値で仕入れることができる。
主人は、小十郎の足元を見ている。主人は、小十郎がどうしても毛皮を売らなければならないと、はっきり分かっている。その上で交渉を行なっている。演技も交渉の一つの手段なのだ。

「「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、」
小十郎の、「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉くんなさぃ。安くてもいいます」に続くこの言葉は、最後のダメ押しのセリフと態度だ。「どんなに安くても、要らないものは要らないよ。帰ってくれ」という意味。この言葉は、小十郎を絶望に陥れる。生きるすべが断たれるのと同じだからだ。
また、自分の言葉に嘘はないと言わんばかりの「落ち着きはらっ」た態度。「きせるをたんたんとてのひらへたたく」余裕。もったいつけるにもほどがある。あとは小十郎が帰るのを待つだけという風情を醸し出している。

今話は、映像化が容易だ。主人と小十郎のキャラが立っているし、店員たちも同じ。主人と小十郎のしぐさや態度、セリフもとても分かりやすい。
これを裏返せば、観客だけでなく、小十郎にも、主人の演技はバレている。主人のもったいつけた演技を、小十郎も、心の中では鼻白んでいるだろう。しかし小十郎には、おのれの感情を外に出すことが許されない。なんとかして買い取ってもらわなければならないのだ。その意味では、小十郎の方も、主人という「いやなやつにうまくやられる」役を演じているのかもしれない。それをうまくやらないと、買ってもらえないからだ。嫌な世界だ。

ところで、「たたくのだ」の後の「、」が不審だ。ここは「。」が置かれるべきところで、「、」ではどう解釈しても後にうまく続かない。前に、「おっかさん谷」について述べたが、「なめとこ山の熊」には、このような句読点の乱れがあるのかもしれない。そうすると、「おっかさん谷」も、「おっかさん」と「谷」の間には「。」が想定されてもよいということになる。

続いて、語り手によって小十郎の窮状が説明される。小十郎の「心配」のもとは、家族である。
「山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。
里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわずか藤つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。」
栗と稗だけでは生きていけない。米や味噌も必要だ。自分たちで作れず、買うしかないから、お金がどうしても要る。着る服のための布も買わねばならない。生きるために必要なものが自分たちではまかなえないので、それらを買うお金がどうしても必要だった。それが小十郎家族の現実だ。おまけに、仕事をして稼ぐことができるのは、「九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内」には、小十郎ひとりだけだ。だから小十郎には、家族の命がかかっている。

従って、この場面で小十郎ができることは、これだけである。
「「旦那さん、お願だます。どうが何ぼでもいいはんて買って呉(く)なぃ」小十郎はそう言いながら改めておじぎさえしたもんだ。」
言葉で哀願し、お辞儀で頼み込むことだ。切ない。そして主人が腹立たしい。

「主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして言ったもんだ。」
もったいつける主人。今回もうまく買いたたくことに成功した喜びで心は満たされているが、それが外にこぼれ出るのを懸命に防ごうとしている。小十郎からは見えない「顔の少し」の部分で「にかにか笑うのをそっとかくして言」う。「にかにか」がいやらしい。腹黒い。うまくいった感が半端ない。
「言ったもんだ」の表現についてだが、ここが、「言った」ではなく、「言ったもんだ」になると、「よくそんなことを臆面もなく言うよな」という意味が付け加わる。しかも主人は、「そっとかくして」いる。

「いいます。置いでお出れ。じゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろじゃ」
「あなたがあまりにも強いて言うから、それではしようがない、こちらが折れます」が、「いいます」(いいです)の意味だ。「あくまでもあなたの依頼・圧によって、それに負けて、あなたの言うとおりにしてあげるのだ。こちらの親切心・慈悲深さに感謝してもらいたい」ということ。主人は、小十郎を不憫(ふびん)に思って対応してあげたのだという設定にしている。
しかしその実態は、主人側の言い値で買うことが可能になっている。相手に恩着せがましく言いながら、実は自分がたいへんな得をしているというあくどさ・腹黒さ。
だから語り手はこの後、「二円」の意味・価値を説明するのだ。

「店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。」
小十郎には、実際に金を手に入れることができた嬉しさもあるが、この「にかにか」は、演技しているようにも思える。これを含めてこれまでの一連の流れは、店の主人と小十郎のお約束・ルーティンにも見える。

「それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。」
交渉がうまく成立したので、もう主人は喜びを隠さなくて済む。

「じゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ」
 小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談(はな)す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳(ぜん)できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている。
間もなく塩引の鮭の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。
 小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口(ちょこ)についだりしている。

わずかな饗応を施すことによって、主人は小十郎を自分の店につなぎとめようとする。今でも客の子供に少しのお菓子やおもちゃをプレゼントする店があるのと同じだ。その意味でも、主人は小十郎を子供・愚者扱いしている。
ふだん小十郎には、生きるための食事しか許されていないだろう。貧しさから、すべては母親や孫たちが優先される。ここでは実際に、「うれしくてわくわくしている」部分もあるだろうが、ここもやはり、そのようにふるまうことが、主人と小十郎の暗黙の了解のようになっている。
(店の主人が腹黒いので、その相手をさせられている小十郎の方も主人にあわせてあげているように思えてくるところが何ともイヤなところだ)

「主人はゆっくりいろいろ談(はな)す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。」
酒とつまみの準備ができるまでの間を繫ぐ雑談だ。だからその内容に、必要な情報と意味はない。その場の思い付きの言葉が、ただ口から出るのに任せているだけだ。小十郎が話す「山のもようや何か」に、主人は全く興味がない。

「間もなく台所の方からお膳(ぜん)できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている。」
小十郎の辞退も儀式だし(「半分」なので)、「引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている」のもお決まりの作法だ。「結局」そうなるのだから。台所にいる店の使用人たちにも「叮寧(丁寧)」な挨拶をする姿から、小十郎の人柄がうかがわれる。

「間もなく塩引の鮭の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。」
「塩引の鮭」は、「刺身」でそのまま食べたのですね。「いかの切り込み」おいしそう。お酒は「一本」だけですか? お代わりないの? 「黒い小さな膳」には、それぐらいしか載せられないね。
本当に気持ちだけのもてなし。(その「気持ち」も主人にはないけど)
こんなエサで釣られる小十郎もかわいそうだ。

でも、この後出てくるけど、小十郎にとってはこのイヤな主人だけが自分を相手にしてくれ、毛皮を買ってくれる、唯一の相手なのだ。小十郎は、主人にとってもよい卸業者のはずなので、そこには公正な取引が成立していなければならない。ところがそうなっていないところに、不公正・不公平・搾取が発生するのだ。フェアトレード大事。

「小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかの切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたりうやうやしく黄いろな酒を小さな猪口(ちょこ)についだりしている。」
小十郎、子熊みたいでカワイイ。ままごとをしているように見えるほどのわずかなもてなし。それにもかかわらず、恐縮しきっている小十郎。悲しい。ホントはお酒が好きなんだね。たくさん飲ませてあげたい。

 いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。

語り手は、「熊の毛皮二枚で二円はあんまり安い」と、その価値の説明をしてくれる。
この作品が執筆された昭和2年当時の米10キロ小売価格は3円20銭ぐらいで、現在(2023.11.3)は4000円ぐらいなので、当時の1円は、今の1250円の価値になる。熊の毛皮1枚が1250円。また逆に、その値段ではそれだけのコメしか買えないことも表し、家族7人が食べて生きていくための、わずかな足しにしかならないことも表す。小十郎には、育ち盛りの孫が5人もいるのだ。

「実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。」
小十郎でも知っているのに、それでもひどく安い値段で売らなければならない切なさ、無力感。主人に対する反感が、聞き手を襲う。小十郎はさぞつらかろう。

熊の毛皮1枚が1250円の意味をもう一度考えたい。
この毛皮を手に入れるために、小十郎は自分の命を懸けている。少しの油断もミスも許されない、命がけの仕事が、熊撃ちという仕事だ。小十郎は鉄砲という武器を持っている。その分多少の有利さはあるが、必ず勝つとは限らない。だからその毛皮1枚には、小十郎の命一つ分の重みがある。勿論、撃たれた方の熊の命もだ。つまり、その毛皮1枚は、小十郎と熊の2つ分の命でできているのだ。それが1250円。「実に安い」。「あんまり安い」。

次には、「けれども」が2つ続き、他の選択肢が無い小十郎の窮状と、世の不条理が述べられる。
それほど安い値でしか売れないのに、しかもそれを安すぎると小十郎自身分かっているのに、「どうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか」。その理由は、「なぜか大ていの人にはわからない」。
しかし「日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている」。「ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる」。それなのに、「旦那」だけは「町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない」。それは不条理であっても、小十郎にも誰にも変えようがない。
つまり、小十郎が嫌な主人に毛皮を売ることと、それを安く買いたたかれることは、もう決まっていることで、それを変えることはできないということ。その理由は、世の中でそう決まっているからどうしようもないのだということを、語り手は述べている。この世には、おかしいと思ってもそれを是認しなければならないことがある。黙ってそれに従わなければならない不条理がある。そう語り手は言っている。

だからこの後語り手は、もう一つの「けれども」でつなぎ、わずかな反論と希望を述べようとする。
「けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」
誠に残念ながら、私たちは、この語り手の言葉にさらに「けれども」をつなげなければならない。
「けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩してもやはり消えてなくならなかった」、と。
語り手は、自分たちではどうしようもないこと、世に抗(あらが)えないことに対して、「世界」の「進歩」と時間の経過に賭けたのだが、その希望はかなえられずにいる。

【「なめとこ山の熊」における三すくみの崩壊】

たしかに店の主人としては、商売だから、できるだけ仕入れ値を低く抑えたいという気持ちはわかる。しかし、「あんまり安い」(あまりにも安い)のだ。結局買うんだよ。つまり、買う気はあるんだ。それを隠して、しかも相手をバカにする態度をとって、安く買いたたく。その根性が腹が立つ。こんな奴は、「消えてなくな」れと思う。でも、いまだに消えない。消えないどころか、はびこってる。世も末だ。

しかし語り手は、本当に、「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と思ったのだろうか。それとも、そうなることの希望を述べたのだろうか。
語り手の懐疑が、私には感じられる。だから語り手は最後につぶやくのだ。せめて不平を述べることで、世の不条理に対するストレスを解消しようとしているように思われる。
「僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない」、と。
ここには「僕」という私的な呼称が用いられ、語り手の実感が素直に吐露される。

またこの表現からは、語り手の苦悩もうかがわれる。
小十郎は、とても「立派」な人だ。熊を殺すという罪深い仕事をしなければならない。どんなに「二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられ」ても、それでもやはり店の主人に頭を下げて毛皮を買ってもらわなければならない。それらはすべて、家族のためだ。家族の命をつなぐために、仕方なくしていることだ。
他者のために自己犠牲を続ける小十郎。その姿を描き伝えるためには、こんな「実にしゃくにさわってたまらない」話も書かなければならない。

語り手は、自分が小十郎と熊たちの心の交流を描き伝えることに、使命感を持っている。小十郎という人の日々を、嫌なことも良いこともすべて伝えなければならないと思っている。
そうしなければ、亡くなった小十郎が浮かばれないからだ。

だから、この物語は、小十郎と熊たちの鎮魂の物語なのだ。


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