宮澤賢治「なめとこ山の熊」について5~「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」

 こんなふうだったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。
 ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。小十郎が谷をばちゃばちゃ渉(わた)って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦(おおよろこ)びで木の下に行って木のまわりを烈(はげ)しく馳(は)せめぐった。
 すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射(う)たれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆(きも)のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
 小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。 

(青空文庫より)

「小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。」
小十郎は熊たちを「憎」むどころか愛している。

「犬はもう大悦(おおよろこ)びで木の下に行って木のまわりを烈(はげ)しく馳(は)せめぐった。」
小十郎は熊の言葉も分かるような気がし、母子の熊の交流も理解する。それに対し、「犬」については、そのような暖かな視線は向けない。自分の猟の手下という形での扱い方だ。作者にしてみれば、犬との交流も描くと、焦点がぼやけてしまうのだろう。「なめとこ山の熊」の物語だからだ。ただ、同じ動物なのに扱いがあまりに違うので、少し気になった。

「ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。」
「ところが」…前件に対して後件が、予想・期待されるのとは反する結果になるという関係にあることを表わす。(三省堂「新明解国語辞典」第6版)
本文を見てみると、前件は、「小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ」にあたる。そうすると、後件には、これに「反」して「憎んで」いた内容が述べられることが「予想・期待される」。
ところが(これはわざとふざけて使ってはいません)、後件に述べられるのは、互いを信頼し、約束を守り切る、小十郎と熊の物語が語られる。そこが不審だ。
また、「おかしなこと」という語の用い方もやや不審だ。「おかしい」という語は、異常だったり予想外だったり正しくないと思ったりする場面で用いられる。ところが(もういいですね)、先ほど述べたように、これに続くのは、小十郎と熊の交流なのだ。熊と人間の交流はおかしい・成立しないということか。「不思議なこと」の意味で用いているのか。なお、これについては後ほど解決する。

「すぐ前の木に大きな熊が猫のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。」
熊の背中を「猫のように」と別の動物に喩えるのもなかなか無くて興味深い。
(「羅生門」の一場面を想起した。まったく関係はないが。
「それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上のようすを窺っていた」(青空文庫より))

「犬はもう大悦(おおよろこ)びで木の下に行って木のまわりを烈(はげ)しく馳(は)せめぐった。」
前にも述べたが、この物語においては、「犬」が下等な存在に描かれている。それが「熊」の描き方とあまりにも違うので、とても目立つのだ。

「すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射(う)たれてやろうか思案しているらしかったが」
実際に熊は撃たれて死にたくはないだろう。いくら小十郎が好きだからといって、「そのまま射(う)たれてやろうか思案」するはずがない。小十郎に対する熊の愛情を表す説明だとしても、書きすぎな気がする。
しかしここには例の妙薬がある。「間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ」
こう言われれば、それまでだ。自由な想像という翼を、語り手は持っている。

「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
熊のこのセリフは、小十郎の次のセリフを導き出すための誘導尋問だ。
ふつうであれば、「おまえはなぜおれを殺すんだ」であるだろう。それを「何がほしくて」とはあまり言わない。(大きなバックを背負っていて、しかもその中には大金が入っていそうに見えたら別だが。クマさんは裸だw)
作者にしてみれば、小十郎に次のセリフが言わせたくて、このように尋ねさせたということだ。

「ああ、おれはお前の毛皮と、胆(きも)のほかにはなんにもいらない。」
毛皮と胆さえもらえれば、命まではいらない、ということ。
だがこれはしょせん無理な相談だ。熊の命までもらわなければ、毛皮と胆を手に入れることはできない。小十郎も、そんなことは分かっている。分かってはいるが、実際はこうだということをクマに伝えている。つまり、自分は、熊たちが憎くもないし、命がほしいわけでもない。でも、このイヤな仕事をしなければ、家族の命を守ることができない。だから、仕方なく殺しているのだ。ということ。
このことは、熊たちも知っているのだ。だからこの熊は、わざとそれを確認するために聞いたことになる。小十郎の本心の確認だ。自分が小十郎に撃ち殺される前に、最後に聞きたかったことなのだろう。

「それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。」
荒物屋の主人に、毎回うまくやられてしまう自分の置かれた環境の切なさ。自分とクマの命でできた毛皮が、その命の重さとは全く異なる安い値が付けられてしまうことへの怒りと諦め。せめて熊の命の重さ分だけでもいいから高い値を付けてほしい。そうすれば、たくさんの熊を殺さなくて済む。しかしそれが叶わない。しかもそれを「仕方ない」と諦めるしかないやりきれなさ。
小十郎は、決して熊たちの命を軽く扱っているのではない。逆に彼は、そのような仕事はできればしたくないと思っている。熊たちももちろん、自分たちの命が取られることを望むはずもない。しかし小十郎の窮状も理解している。すべては家族のためだ。だから本来であれば、それらすべての重みを「価格」に反映させなければならない。荒物屋の主人も、せめてそれらを理解した上で、仕入れ価格を設定しなければならない。ところが現実にはそうなっていない悲しさ・切なさ。小十郎が熊たちにかけられる言葉は、「気の毒」というひとことだけだ。それと同時に、他の選択肢が与えられていない不幸を、「やっぱり仕方ない」と愚痴のように吐き出すしかない小十郎。
熊たちは一方的な被害者だ。何か悪いことをしたわけではない。最近ニュースになっているように、人を襲っているわけでもない。(このことについては、後ほど述べる) おじいちゃんやおばあちゃん、父や母、兄弟や友達。それらの大切な存在を小十郎に奪われている。小十郎をどんなに憎んでも足りないくらいだろう。それなのに、なめとこ山の熊たちは、小十郎が好きなのだ。互いが相手のすべてを理解しているからだ。殺しあう敵同士の愛・尊敬という奇跡が描かれているのが、この物語だ。
再度言うが、愛や尊敬が、安すぎる仕入れ価格設定に踏みにじられている。荒物屋の主人は、熊の毛皮一枚が持つ重さへの想像力が圧倒的に無い。そのものの持つ背景を、全く考えない。だから、安く買いたたいても平気なのだ。とにかく安ければいいのだ。そうして、自分だけがもうかればいいのだ。熊の命、小十郎の命、もっと高く買えば小十郎は嫌な仕事からそれだけ解放されること、大好きな熊を余計に殺さなくて済むこと、それらに対する想像力が主人には決定的に不足している。悲しいことだ。そして、どうにかしなければならないことだ。
これは、現代社会にも通ずる課題だ。

「けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
これが小十郎の本心だろう。もし自分一人だけなら、これが可能だ。しかし自分には、家族がいる。それを守らねばならないし、家族を守ることができるのは、自分だけだ。小十郎には、その思いが強くある。だからこれまで自分の命を懸けることができた。
小十郎が死んだら、「婆さま」も「子供ら」も死ぬしかないだろう。

「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
このセリフが、今話の初めにあった「おかしなこと」なのだろう。小十郎も、「変な気がしてじっと考えて立ってしま」う。
熊が人間と約束をしている。しかもその内容が、「二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやる」という、ふつうはあり得ない、「おかしな」約束。自分の命を、ただ、差し出すという約束だからだ。

ところで、「少しし残した仕事」について、私はこう考える。
小十郎には守るべき大切な家族がいる。もしかしたらこの熊にも、自分と同じような守るべき存在・家族がいるのではないか。この熊にも子供がいて、その子がひとり立ちするまでの時間が、「もう二年」なのではないか。小十郎は、そう思っていたのだろう。
相手の熊も分かっている。小十郎には家族がいる。生きるためには熊の皮と胆が要る。「おれも死ぬのはもうかまわないような」年齢・体の状態だから、「もう二年」だけ待ってもらえれば、その約束を小十郎が果たしてくれるのならば、その時には、小十郎に自分の皮と胆をあげてもいい。そう熊は思っている。

小十郎がぼんやり立っているひまに、熊は「ごくゆっくりと歩き出した」。「熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った」
熊は分かっているのだ。小十郎は自分との約束を守るということを。だから安心して、帰ることができる。小十郎も思ったろう。自分は熊に信頼されていると。

「そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた」
熊は家族のもとに帰る。小十郎も家族の待つ家に帰るのだ。熊も自分も同じという共感。そこから来る信頼。生きることの切なさ。

 それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。 

熊との約束の「二年」が経つ。
「小十郎」が、とても「風が烈しく」「木もかきねも倒れたろう」と感じたのは、実は、あの熊が木からドサッと落ちた音なのだろう。だから、「外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっている」のだった。
また、「始終見たことのある赤黒いもの」からは、その後の二年の間にその熊を見かけたことがあったが、小十郎は撃たなかったことを表す。小十郎は、「もう二年ばかり待ってくれ」という熊との約束を、二年間、ずっと守り続けていたのだ。
小十郎は自分との約束を守ってくれている。であるならば、今度は自分が約束を果たす番だ。熊はそう思っただろう。だから約束の日に、熊は木から飛び落ちて死んだのだ。
死んだ熊の姿から、小十郎もすべてを察し、熊の死を弔うのだった。
信頼、約束を守る大切さ、家族愛、哀悼。目に見えない大切なことを再認識させてくれる物語だ。


○あとがき
今話の副題は、期せずして、「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」になった。いま、世界では、さまざまな理由による争いが起こっている。
みな、何がほしくて人を殺しているのか。

領土?
プライド?
信仰?
覇権?

愚かだ。
愚物による統治。

小十郎は家族を守るために熊を殺し続けた。
人は生きるために他の生物から命を貰わなければならない。
生まれながらにして罪深い、人という存在。

「羅生門」の老婆と下人は、「生きるため」に悪を働く。

人は何かのために、人を殺すことが許されるのか?
それは、生きるという罪の上にさらに罪を重ねる行為なのではないか。

正義と悪の難しさ。
その境界は次第に曖昧になり、やがて溶け合う。

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