宮澤賢治「なめとこ山の熊」について7 「私」と「僕」~語り手はふたり存在するのか

「なめとこ山の熊」には、2人の語り手が登場すると言われる。「私」と「僕」。
結論から言うと、この2人は、同一人物だと考える。

本文に登場する順に見ていきたい。
①「ほんとうはなめとこ山も熊の胆(い)も私は自分で見たのではない。」の「私」。
②「それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎(あご)のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。」の「僕」。
①の「私」の部分は、冷静に、客観的な情報を提示している場面だ。「私」は、他者に向けての公式の呼称。
これに対して②の「僕」の部分は、「大きらい」な「景色」を、語り手が我慢して述べている部分だ。ここは強い感情とともに語っている。そこに思わず漏れたのが、私的な(語り手がいつも使っている)、「僕」という呼称だった。小十郎が嫌な作業を終えると、語り手の「僕」も「ぐんなり」する。(もちろん、聞き手も)
試しにここに、「私」と入れてみると、「大きらい」という感情が弱く・薄くなってしまう。これが「僕」だと、聞き手は、語り手が、我を忘れて思わず「僕」と言ってしまったのだろうと感じるのだ。だからここはやはり「僕」がいい。「僕」の心情が強くあらわれた部分だからだ。

③「けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。」の「僕」。
この場面は、「二度とつらも見たくないようないやなやつ」である荒物屋の主人に、毛皮を安く買いたたかれ、「うまくやられ」たことに対する興奮・慷慨(こうがい)から、それを「書いた」ことや、書いた自分に対してすら、「実にしゃくにさわってたまらない」という部分。だから私的な「僕」が、思わず顔を出している。ここも「私」では、感情伝達が弱く・薄くなってしまうだろう。

④「「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。」の「私」。
ここは、熊に殴られた小十郎が死ぬ場面。
この日の朝、うちを出るときに小十郎は、「いままで言ったことのないことを言った」。
「婆さま、おれも年老とったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌(や)んたよな気するじゃ」
このような弱音を吐くことは、小十郎にとってとても危険なことだ。小十郎は、自分の命を懸けて熊を撃っている。鉄砲を持っているとはいえ、ちょっとした油断が命取りになる。案の定、小十郎は熊に頭を殴られて死んでしまう。愛する者同士が殺しあうという不条理。命の尊さ。あの世に旅立つ小十郎への追悼。そのような厳かな心情にある語り手が自身を呼ぶにはやはり、「私」が適切だろう。厳粛な場にふさわしい呼称ということだ。

ひとりの語り手が、場面によって自分の呼称・呼び方を変えることは、ままあることだ。むしろ、すべてを統一する必要や必然性はない。自由な呼称は、発想や表現を自由にするという効果もある。

また、もしこの2人を別人だと仮定すると、本文のどこからどこまでが「私」の語りで、また「僕」の語りなのかを、区別・峻別しなければならないが、この本文では不可能だ。

以上から、「私」と「僕」は、同一人物だと考える。

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