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時間的自由人は誰にでもなれる

人間の世界は不平等だ。
お金、家族、容姿、体つき、性格などの自分の努力だけではどうしようもない、遺伝的というか先天的なもので人生の大部分は決定づけられてしまう。

もちろん、自分の努力でどうにかなる部分もある。
自分の境遇をバネにして、人生を切り開く強い意志があれば、成し遂げられることがあるのも事実だ。
しかし、そんな強い意志が、全ての人間に備わっているわけではない。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。
残念ながら、ほとんどの人(私も含めてかもしれないが)は自分の意思とは関係ないところで、自分の人生が何となくかたちづくられてしまい、それに翻弄されてしまうのが人生なのかもしれない。

それを昔の文学者は「不条理」とも言った。
明治の文豪の表現を真似ていえば、「人生はまことに不条理なり」だ。

しかし、その不条理な人生であっても、万人に平等なものがある。
どんな大富豪であっても、どんな貧しい人であっても、誰もが納得できて、平等に与えられているものがある。
いうまでもなく、「時間」だ。

時間は、誰にでも1日24時間、平等に与えられている。
これほど不平等で、不条理な世の中において、時間は神さまが人間に与えた数少ない平等なものの1つである。

あらゆる人生論は、「与えられた時間をいかに活用して、充実させるか?」に尽きると言ってもいい。
「与えられた有限の時間をいかに使うか?」という問いの前に不平等は存在しないのだ。
それは、他の誰でもない、自分との対話で成り立っているからだ。
不平等感は、人との比較で生じる。
人は自分と対話している時、自分とのみ向き合っていればいい。

自分がこうして生きていること、こうして時間が流れていることを感じるために、お金は必要ない。

自分が自分でいられることの幸せを感じるために、
「容姿が良くなければいけない」
「お金がたくさんなければいけない」
「一流大学を卒用しなければならない」
「一流企業に就職しなければならない」
などという条件は一切必要ないのだ。

ただ自分と向き合っていれば、誰にでも感じられる幸せだ。

自分と向き合うこと、自分がこうして生きている時間を感じるために、オススメしたいことがある。
それは、その時だけは時計を目にしない環境に身を置いてほしいということだ。

もし、腕時計をはめているなら、外してほしい。
もし、壁に掛け時計があるなら、目に入らない方向を向いてほしい。
もし、スマホやタブレットが手元にあるなら、目に入らないところに置いてほしい。

我々は、あまりにも時間というものに縛られすぎている。
朝起きて、朝ごはんを食べて、歯を磨いて、服を着替えて、家を出て、通勤電車に乗って、会社に着いて……
朝起きて、会社に着くだけでも、これだけの行為をしなければならない。
そこに食事は何分以内、歯を磨くのは何分以内という暗黙のルールが自分にないだろうか?

これだけのことをするのにも、我々は時計を見ながら行動し、時計に縛られた行動をしている。
ましてや、仕事は人との関わりで成り立つものだから、さらに時計に縛られた時間となってしまう。

現代に生きる以上、時計に縛られた生活となるのは、もちろんやむを得ないし、だからこそこれだけ便利な世の中になっているとも言える。

しかし、あまりに時計に縛られすぎると、いつの間にか、世の中の価値観に縛られてしまうことに気づく。
時間に合わせて行動するというのは、ある意味世の中の規範に合わせるということだからだ。

その世の中の価値観に縛られてしまうと、人と自分との比較がどうしても発生する。
「あの人は、自分より収入が高そうだな」
「あの人は、かなりカッコいいから、カワイイ彼女と一緒に歩いているよな」
「あの人は、僕よりはるかに背が高いから、トクしているよな」
……等々、街を歩いて、人を見るたびに、そこに不平等を発見するようになってしまう。

そうなると人生の目的が、「世の中の価値観に合わせること」、「世の中において、自分が少しでも他人より優位に立つこと」、「人を蹴落とせるものなら、蹴落としてまで這い上がること」にいつの間にか変わってしまうことに気づく。

自分というものが、「人との比較」でしか判断できなくなってしまうのだ。
そこに、自尊心というものは存在しない。
常に自分に対して苛立つようになってしまう。

時計に縛られただけの生活というのは、そこまで自分という存在をむしばんでしまうことがあるのだ。

人はこの社会から逃れることはできない。
もちろん、時間という概念からも人は逃れることはできない。

しかし、時計という存在からは逃れることはできる。
たまには、時計から目をそらして自分と向きあう時間を持ってほしい。

自分と向き合って、自分をねぎらってほしい。
自分と向き合って、今日よかったところをほめてあげてほしい。

自分と向き合うことで、人は自分でいられることの幸せを実感する。
自分と向き合うことで、自分が好きになり、さらに他人を好きになることができる。

自分と真に向き合うとき、そこに世の中に流れている時間という概念は存在しない。
正確には時間というものを意識しなくとも、自分という存在を感じることができると言っていい。


そう言った意味で、我々は実は2つの種類の時間を行ったり来たりの人生を送ることができる存在なのかもしれない。
1つは、時計によって縛られた仕事や家庭等の日常生活。
もう1つが、時計に縛られることのない自分だけの時間。

どちらも欠けてはならないものだ。いわば車の両輪のような関係だ。
人は社会の中で生きる以上、人間関係のルールに縛られる存在だ。
そんなの嫌だといくら言おうが、それは誰にでも否定できない事実だ。

逆に言えば、人との関係なしでは、人は生きられないのだから、時計に縛られた生活によって、社会に参加できる喜びもあるとも言える。
人は人との関係においてしか、本当の幸せを感じられないからだ。
そういった意味では、時計に縛られた生活は全否定する必要もないし、むしろそれどう活かすかというのも重要にはなってくる。

ただ、先ほども書いたように、時計に縛られた生活だけでは、どうしても人との比較でしか生きられなくなるから、どうしてもそれ以外の時間も必要だ。

だからこそ、時には時計から目をそらして、自分と向き合うことも必要なのだ。
逆に言えば、自分と向き合うだけの人生というのも、かなりしんどい。

時計に縛られた生活で、人との関係で良いことがあったり、嫌なことがあったり、色々なことがあるからこそ、時には自分と向き合って、対話する時間がとても愛おしくなるのだ。

そういう意味では、時計は人生の時間のスイッチの役割を果たすのかもしれない。
腕時計で例を言うならば、腕時計をつける時、「時計に縛られた生活」へとスイッチし、
腕時計を外した時が「自分と向きあう時間」にスイッチする。

時計は人を縛りもするし、自由にもする存在だ。

しかし、人はその「時計の縛られた生活」なしでは、本当の意味で自由になろうと思わないのもまた事実だ。
自由は制約の中でこそ、生まれるものでもあるからだ。

しかし、人は誰でも「時間的自由人」になれるものだ
「時間的自由人」になるには、特にお金持ちである必要はないし、特に容姿や体つきが優れている必要もないし、一流大学や一流企業に所属する必要もない。

「自分と向き合い、自分が自分であることに幸せや意義を感じ、自分独自の世界観を持つこと」
これだけで、人は「時間的自由人」になれる。

現代は、どちらかというと「経済的自由人」がもてはやされる。
「一生食うに困らないくらいのお金を稼いで、食うためだけの仕事から自由になる」
「仕方なしにやる仕事をしなくても、毎月自動的にお金が入る仕組みをつくる」
そんなことを推奨してくる本やセミナーはたくさんある。

しかし、それを実際に達成できるのは一握りだし、それ自体が人より上に立つことだから、結局人との比較がどうしても生じてくる。
つまり、「経済的自由人」になるためには、結局「時計に縛られた生活」を精一杯しなければ達成できないことに気づく。

それは、万人を幸せにするとは決して言えない。

しかし、「時間的自由人」は違う。
時計から目をそらして、時計を外して、「時計に縛られた生活」から逃れれば、誰にでもなれる。
そこに他人との比較は存在しない。
そこに他人を押しのけるということは存在しない。
そこに他人を蹴落とすというのは存在しない。

自分と向き合うだけだからだ。
自分と対話するだけだからだ。
自分の心の中で想像するだけだからだ。

それは人との比較から生まれる「相対的な幸せ」ではなく、
自分との関係から生まれる「絶対的な幸せ」といってもいい。

では、具体的に「時間的自由人」になるにはどうすればよいだろうか?
先ほど述べたように、まずは時計から目をそらす、時計を外すことが第一歩だ。

それから、「時間的自由人」になる方法を3つだけお伝えしたい。


1.今日あったことを振り返って、自分をほめてあげる

1日を振り返ると、実に色々なことがあったはずだ。
楽しかったこと、嫌なこと、人から言われたこと、成功したこと、失敗したこと……

どれもこれも今ここにいる自分という存在をかたちづくってくれた貴重なものだ。
どんなことがあっても、自分にまずは「よくがんばったな。ありがとう」とねぎらってほしい。
もちろん、良いことやうまくいったことがあれば、思いっきりほめてあげてほしい。
「お前、よくやったぞ! すげーな」みたいなざっくばらんな感じがいい。

そして、嫌なこと、うまくいかなかったことがあっても、決して自分を責めないでほしい。
反省はしてもいいが、いつまでも嫌な気分を引きずらないことだ。
むしろ、そこから今後の学びにつなげて、今後はうまくいくことを宣言してほしい。
「あの時はうまくいかなかったけど、その失敗を活かして、今度はうまくやるぞ!」
そんな感じで自分を励ましてほしい。

このような1日の振り返りを通して、自分と対話することになる。
自分との対話を通して、自分との関わりの時間が増えてくる。
自分との関わりが増えてくれば、自分という存在が愛おしくなってくる。

人というものは、好きな人からじゃないと、アドバイスを受け入れない存在だ。
自分自身だってそうだ。
自分自身を好きにならないと、自分自身からのアドバイスが受け入れられなくなる。

自分との対話を通して、いつの間にか自分が自然と好きになる。
そうすると、自分自身との対話を通して、自分自身からのアドバイスもちゃんと受け入れられるようになるのだ。

そうすることで、お金には変えられない「時間的自由人」への一歩を踏み出すこととなる。


2.役に立たなくてもいいから、自分の好きなことをする

これは、意外と重要だ。
何かと仕事に役立つ資格勉強とか、人から好かれるための話術を磨くとか、それも有益ではあるのだが、そこにはどうしても「人の目」というものを意識してしまう。

時には、人との比較ではない、「自分が本当に好きなことに没頭できる時間」を1日に10分だけでも持つことは必要だ。
それは別に決まった何かがあるわけではない。

普通に本を読む、好きな音楽を聴く、好きな動画を見る、好きな料理をつくる、好きなペットと遊ぶとか何でもいい。
それをすること自体に喜びや意義を感じることが重要だ。

つまり、それをすることで「何かを得よう」とするのではなく、
それをすること自体に「喜びや意義を感じる」ことができればそれでいい。
それしていると、「時間が経つのを思わず忘れてしまう」というものを1つでも持っている人は至福だと思う。
そこに人との比較から生まれる「相対的な幸せ」ではなく、まさしく自分との関係から生まれる「絶対的な幸せ」があるからだ。
「自分が自分でいられることの幸せ」がそこにあるからだ。

それを感じることができるなら、「時間的自由人」としての資質を備えたといってもいい。


3.ワクワクすることを思い描く

人は何でも自由に思い描くことができる。
この世にはないものでも、例えば地球からはるかかなたの遠い惑星に、地球よりはるかに進んだ文明で発展した街があることを空想として思い描くことができる。
また、現実に恋人がいなくとも、自分の恋人の理想像をイメージして、その人と一緒にいることを想像して、幸せな気分に浸るだけなら、誰にでもできる。

それを空想でしかないと笑ってはいけない。

人の想像力は果てしないものだ。
人はどんなに味気ない生活だったとしても、夢を見ていたい存在だ。
夢とは、すなわち想像だ。
その想像を通してしか、今ここにはないものを認識できない。

現実にないものしか、思い浮かべてはいけないなんてルールがあったとしたら、
それこそ、さらに人は窮屈な存在になってしまう。

それこそ、時間の他に、神様が人間に与えた平等なものとして、想像力というものがある。
想像こそ、自由だ。
自分と向き合って、これからしたいこと、やってみたいことを想像を通して、自由に心の中で描いてみたらいい。そこに制約なんて設ける必要はない。

心の中にワクワクするような未来図を描くことができたら、それは素晴らしいことだ。
それこそ、「時間的自由人」になれたことの証だ。


あなたは「経済的自由人」になりたいだろうか?
それとも「時間的自由人」になりたいだろうか?
もちろん、それはあなたの選択次第だ。

しかし、忘れないでほしい。
「時間的自由人」になりたいと思えば、今すぐここでなれるということを。

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