ネイルエナメル 第15回

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 気がつけば後ろに男の人が立っていた。何も物音がしなかったので、気がつかなかった。

 背が高くて、色白で、眼鏡をかけている。手には、湯気の立つ洗面器を持っている。中にはたっぷりのお湯と白いタオルが入っていた。

「あ、あの、すみません」

 心臓が飛び跳ね、私は反射的に頭を下げた。彼が、モリモトサンなのだろう。

「あっ、部屋を間違えて、あの、お若くてきれいな方だと――その――」

 まるで酸欠になった金魚のようだと自分で思った。しかしモリモトサンは優しい笑みをたたえるばかりで、私を怪しむそぶりはなかった。

 彼は洗面器をサイドテーブルに置き、浸かっていたタオルを取り出して固く絞った。水滴が少しだけ飛び散って、夕日にきらめいた。

「お見舞いの方ですか?」

 文香さんの顔を優しく拭きながらモリモトサンは言った。はい、と私はうなずいてしまう。

「祖母が、寝たきりなんです、意識がなくて」

 平地さんから聞いたそのままを口走っていた。

 モリモトサンは弱々しく微笑んだ。とんでもない嘘をついてしまったと、胸がチクリと痛んだ。モリモトサンが文香さんの額をそっと撫でた。小鳥を撫でるように、繊細で慈愛に満ちた撫で方だった。その大きくて長い指で、ナツの額も、同じように撫でるのだろうか。

「あの、ご病気なんですか」

 当たり前のことを言ってしまって、私は顔が熱くなった。だけどモリモトサンは気にする様子もなく、ええ、と答えた。

「くも膜下でね。もう一年くらい目覚めない」

「意識、戻らないんですか」

「ええ」

 口元に姿をのぞかせた舌を口の中へ押し込み、湿らせたハンドタオルで口を拭ってやる。

 ロッカーからクリームの瓶を取り出して指にとり、文香さんの唇にそっと塗った。

 文香さんの体を横に向け、背中とお尻とベッドとの隙間にクッションを挟み、体が横を向いたまま仰向けに戻らないようにする。慣れているのだろう、丁寧で的確で速やかで、事務的にさえ見えた。

「よかったら外でお話しませんか?」

 モリモトサンは柔らかく言った。確かに、ここで話をするのは憚られた。どことなく神聖な場所のような感じがして、自然と小声になる。私がいるのが気まずいのか、ただ話すなら外で話したほうが話しやすいと思って言ったのか、表情からはうかがい知れなかったけど、言葉の響きは私を拒絶してはない気がした。私は黙ってついていった。エレベータで一階まで降りると、喧騒が戻ってきて、ほっとした。あの病棟はまるで別世界の空間のようだった。

 一階にはカフェがあったけど、営業時間は終了していて、モリモトサンは自動販売機で飲み物をごちそうしてくれた。私たちは脇のベンチに並んで座った。モリモトサンと同じブラックコーヒーの無糖を私はちびちびと飲んだ。

「どちらから?」

 私は隣町からバスで来たことを告げた。モリモトサンも同じ町のはずだった。案の定そうだった。

「同じ方角ですから、車で送りましょうか」
 

 私たちはモリモトサンの白のセダンに乗り込んだ。この助手席にナツが座っていたのだ。そしてもしかしたら、文香さんも。モリモトサンは黙ってエンジンをかけ、車を出した。

 モリモトサンはラジオも音楽もかけなかった。駆動音の少ない車で、車内はほとんど無音だった。モリモトさんにとって静寂はそんなに苦痛ではないようだった。

 舌には先ほどのコーヒーの苦味が残っていた。

「まだお若いのに……大変ですね」

 何と言葉をかければいいのか、気を遣えば遣うほど、月並みな言葉しか出てこない。モリモトサンを気遣ったのか、文香さんのことを言ったのか、わかりにくい言い方になってしまった。

「そんなことはないですよ」

 モリモトサンの言葉に気負いや感傷は感じられなかった。どこまでも穏やかで、淡々としている。

「奥さんは、回復するんですか」

 モリモトサンは首を軽く横に振った。

「わかってるんです」

 私はモリモトさんの方を向いて、言葉を待った。話してほしかった。ナツがきっとそうしたように、何でも受け止めたかった。

「意識は二度と戻らない。ひょっとして、と言う気持ちは、もうなくなってしまいました」

 こんな話をしていいものかと、モリモトサンは無言で私に問うた気がした。レンズ越しの一重のまぶたに覆われた漆黒の小さな瞳を私は見つめた。

「本当はね、妻は延命治療を望んでいなかった。ドナーカードを持っていた。けれど医師は治療を施してしまった。あとで謝られました。本人の意志にそぐわない治療をしてしまったと。罪の意識にかられていたようでした。だけど僕は、むしろほっとしていました。また再びもとの生活に戻れるかもしれないというかすかな希望があったのかもしれませんが、それだけじゃなく、純粋に生きていてくれてよかったと思いました」

 私は黙って聞いていた。モリモトサンは少し間を置いてから続けた。

「いつだって迷います。ひと思いに逝かせたほうがいいんじゃないか、あるいは、自然に任せて治療をしないでいるべきではないのかと。だけどそれは、突き詰めてしまえば、役に立たない人間は死ぬべきだという考え方になってしまう気がするんです。これだけ医療に頼っている時代に、自然に任せて死んでいくのは一般的ではない。脳が死んでしまってものを考えることができない、あるいは思ったことを表現することができないかもしれないが、彼女の体が生きようとしていることは彼女の意思なんじゃないかと思うんです。僕はそれを尊重したいんだ」

 モリモトサンはひとつずつ確認するかのようにゆっくりと話す。

「彼女から命を奪うのは簡単です。だが、死んだ彼女をもう一度生き返らせることはできない。何も結論を急ぐことはないんだ、ただこうしてここで彼女が生きているだけで、僕はたくさん考えさせられる。僕は弱い人間だから、都合よく改ざんされうる思い出や記憶ではなく、彼女という存在そのものがここにあることに意味がある。彼女は僕を律し、励まし、そして罰する。それは立って喋っていたときと何ら変わりないんです。まあ、そうやって思い込もうとしているだけかもしれないけどね」

 どこまでも柔らかな声音だった。学校にも、身の回りの大人でさえ、こんな喋り方をする男の人はいない。病院という、慣れない場所で出会ったからだろうか。浮世離れしていて、まるで長い年月を生き、世界を見守ってきた樹木のようだった。

「好きな人が――」

 乾いた唇を舐めて、私は言い直した。

「好きな人が、いるんです。だけどその人、私じゃない人のことを愛してるの」

「愛には実体がない」

 モリモトサンは私をじっと見据えた。まるで眼球に透ける私の内部を見透かすように。

「愛を示すには証拠が必要だ。けれど、証拠がないからといって愛が存在しない訳じゃない。証拠があったところで、本当にそれが愛だったのか、分かる人はいない。いつまでたっても一方通行だ。愛が通い合うことなんてないんだよ」

 私は森本文香さんの顔を思い出そうとした。文香さんはどこまでも深く深く眠り込んでいる。まつげが窓から差す光を受けて金色に光っている。その様子は安らかにさえ見えた。

「私、行きたいところがあるんです」

最終回に続く

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まめん

小説「ネイルエナメル」

毎日小説をすこしずつ公開しました。全16回、完結。
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