ネイルエナメル 第7回

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 週明けの中間考査のことを、私はすっかり忘れていた。あれほど先生たちが授業中、口酸っぱくテスト範囲について話していたのに、私の意識の中からはすっぽりと抜けていて、まだまだ先のことだと思い込んでいた。檀上さんに話すと、ホント栗原さんは抜けてるよね、と半分呆れたように笑って、ヤマを張った箇所を教えてくれた。

 休憩時間に必死に勉強したけれど、もちろん、答案用紙はほとんど埋まらず、試験の時間中あまりに暇だったので、問題用紙の裏にナツの絵を描いていた。机に頬杖をつきながらシャープペンシルを動かすナツの顔はやっぱりきれいで、せっせとデッサンしていたら試験監督の先生から注意されてしまった。

 考査が終わった放課後、いつものくせで、こっそりナツの靴箱を覗くと、まだナツの靴があった。もしかしたらいっしょに帰れるかもしれない。テスト勉強からの解放感もあってか(全然やっていないけど)、いてもたってもいられなくなって、ナツを探した。

 職員室、生徒会室、教室、図書室。下の階から順に覗いて、三階の図書室のカウンターでようやくナツを見つけた。図書委員会をしているともちゃんとひそひそと話している。室内では静かにするのが決まりなので声が小さくて聞き取れないが、ふたりは何だかとても盛り上がっているようだった。

「ナツ」

 呼びかけると、ナツは軽く手を上げて、またともちゃんとのお喋りに戻ってしまう。

「私はおじいちゃんに子供向けの伝記ばっかり読まされてたよ。福沢諭吉とか野口英世とか」

「わかる。私も読んだ。アンネフランク、マザーテレサ、キュリー夫人……嫌いじゃなかったけど、皆すごい人、正義の人って感じで、ちょっと物足りなかったな」

「子供向けの世界文学全集を読み出してからが面白かった。アラビアンナイトから始まって。簡単に人が殺されちゃうでしょ? 考えてみれば結構ブラックだよね。イソップ寓話、ギリシア神話、シェークスピア……」

「私、フランダースの犬が好き。あれ、メチャクチャ悔しかったよね、なんでネロが死んでからみんな後悔するわけ? もっと早く気がつけばいいのに」

「ロビン・フッドって絶対ホモだよね」

「私ね、実は小公女セーラに憧れてた」

 二人の言っていることが何一つ分からず、私はただ黙って聞いていた。少し興奮したように喋る二人の会話に割って入るのはなかなか難しかった。

「すごいね、そんなにたくさん読んでるんだ」

「聞いてよ、純ってば、村上春樹のこと、小説家だって知らなかったのよ」

 ナツがおかしそうに言うと、ともちゃんもくすくすと笑った。

「私、あんまり本読まないから。ふたりともすごい」

「別にすごくも何ともないよ、ただの娯楽だから」

「そうそう、音楽聴くとかスポーツ観るとかとそんなに変わらないことよ」

 気を遣って言ってくれているのかもしれないが、何だか私とふたりの間に一線を引かれたような気がした。

 それから再び本の話に戻って、もはや私に入り込める隙間はないと悟った。せめてナツから借りた本をちゃんと読んでいれば、少しくらいは話に入れたかもしれない。読もうといつも思っているが、結局上巻の半分も読めていなかった。それでも自分にとってみれば、頑張って読んだほうだった。だけどそんなこと、恥ずかしくて言えない。

 私は図書室を出た。そのことにさえふたりは気がついていないようだった。

 美術室で制作の続きをしようかと思った。自習中、こっそりナツをデッサンしたものをもとにナツには秘密で油絵を描いていた。けれどこのまま明日までナツに会えないのは気持ちが持たない。上履きを靴に履き替えて、正面玄関の段差に座り込んでナツを待った。

 ナツがやってきたのは一時間ぐらい経ってからだった。ナツはローファーを履きながら、

「純、こんなとこにいたんだ」

「うん、ナツを待ってた。一緒に帰ろ」

「何で行っちゃったの? どうせ待つんだったらいっしょにいればよかったのに」

 事もなげにナツが言うので、私はみすぼらしい気持ちになった。

「だって二人で楽しそうだったから」

 そう? とナツは長い髪をシュシュで結いなおす。

「ともちゃんは私とは話そうとしなかったでしょ。ナツとだけ話したそうだった。だから嫌だったの。私だけ仲間はずれみたい。本の話しかしないし。私、わかんないのに」

「人見知りなのよ、彼女。二人で話してても本の話しかしないもの、いつも。ともに別の話しろっていう方が変でしょ」

 まるでともちゃんを庇うかのようにナツは私をたしなめた。一体ともちゃんとどういう関係なのだろう。いつのまに呼び捨てになったのだろう。ともちゃんが矯正中の歯をむき出して笑う顔が頭に浮かんだ。気に入らなかった。モリモトサンには嫉妬してもとやかく言わないようにしている。モリモトサンが彼氏なのは最初から承知だから。けれど、それ以外に対してくらい、言わせてくれてもいいんじゃないか。

 ナツは来るもの拒まずといったようなところがあって、話しかけてくる人に対してはどんな相手でも気遣いがあり優しい。ナツの親切に勘違いする人も少なくない。そのくせ私にはぞんざいな態度をとる節もある。私の、ナツへの気持ちを汲んでくれたっていいじゃないか。そう思うのはわがままだろうか。何だか自分自身がわがままで身勝手なように思えて、とても嫌だった。

「ナツさ、なんでそんなに愛想振りまくの? 何で気を持たせるようなことするの?」

 ナツはきょとんとした顔をし、そしてさもおかしそうに笑う。

「純だってすぐしっぽ振ってるじゃない。この間だって先輩から購買のパン貰ったくらいで目を輝かせちゃってさ。無防備すぎるんだって」

「そんなことあったっけ」

 もはやそんなことがあったことさえ忘れていた。

「ほら、それが無防備だって言ってんのよ。そういうこと無意識にしちゃうんだから。皆に好かれていいよね」

 そんなことを話したいのではない。私は本気で言っているのに、ナツはなんだかおもしろがっているふうで、まったく取り合ってくれない。伝わらないのがもどかしく、悔しくて、涙が出そうだった。

「隣のクラスの男子でさ、ナツのこといっつも見てるやつがいるけど、気がついてる?」

 いっつも、というのは大げさだったが、クラスマッチの時ナツをじっと見ていた男子の視線を、私はあちこちで感じていた。特別な感情を抱いてそうなのはすぐにわかった。だって、私もきっと同じような目をしているはずだから。

「え、わかんない。どんなやつ?」

「背が低くて二重で色黒の。たまに黒縁の眼鏡かけてる」

「何だ、たくみのこと?」

 殺意に近い鋭利な感情が湧いた。呼び捨てだなんて随分と親しげだ。私はナツの何なのだろう、自分だけが舞い上がっていたのだろうか? いよいよ涙がこぼれそうになって、バカみたいだと思った。

「そんなわけないよ。あいつ幼馴染。幼稚園の時から一緒なの。腐れ縁ってやつ? 全然興味ないけど」

 ナツは言い捨てるように言った。

「あれ、子供の時から走ること以外何のとりえもなくてさ。馬鹿だし。走りすぎて脳みそどこかに落としたのよ。同い年の男なんて幼過ぎて付き合ってられないよ」

第8回に続く

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まめん

小説「ネイルエナメル」

毎日小説をすこしずつ公開しました。全16回、完結。
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